WORKING MAN






 自分のくしゃみで目が覚めた。
「……??」
 カミューは起きた瞬間状況がさっぱり掴めなかった。カーテンの向こうがすっかり明るくなっていることに単純に焦りを感じ、ベッドの中からの目覚めであればまさに飛び起きた、というところだっただろうか。
 社会人になって随分経つのだから、まずは朝だ、ということに危機感がくる。そして時間を確認し、まだ会社に充分間に合うと知って安心したところで再びくしゃみ。
 身体がすっかり冷えきっている。それはどうやら居間で眠ってしまったからのようだ。
 何故だろう、と考えるまでもなかった。その頃には大分意識もはっきりしていたため、原因が分かってしまったからだ。
 とにかく、この寒気に至るまでのことは今は頭から追いやって、出かける支度に専念した。
 カミューはこの情けない状態に心底苛立っていた……それが理不尽な怒りであることは理解していたが、ぶつける鉾先はただ一人しか見つからなかったのだから仕方がない。
 食事は省略して、顔を洗って頭を冷やすことにした。


 会社に着き、自分の椅子に腰を下ろして息をついた時、隣の同僚と目が合った。そのまま視線を逸らされて、はじめてカミューは自分がどんな顔をしていたのか気がついた。
 いつも通りの柔らかい表情がうまくいかない。大体まだ寒気が取れないのだ……夏であればこんなことはなかっただろうに。
 夕べ、あの男を待ったまま……いやこれは語弊がある。待っていたわけではないのだ、ただ暇だったからぼんやりしていただけだ……とカミューは頭の中で言い訳をする。
 とにかくそのまま寝てしまったらしい。シャツ一枚のままだったので身体は完全に冷えきってしまったようだった。
 独り寝だって久しぶりだというのに、あろうことか居間でテーブルに突っ伏して寝ているとは。おかげで寒さに加えて身体が痛くてたまらない。
 カミューはまだ時間に余裕があることを見て立ち上がる。どうも身体だけではなく顔の調子も悪い。
 トイレに入り、鏡を見てみる……顔は洗ってきたのだがクマが少し目立っているようだ。
 徹夜をしても普段クマがこんなふうに残ることはない。やはり状況が悪かったのだろう。
 おかげで顔色が悪く目つきが冴えない。女性社員たちの憧れの的の顔がこのザマでは格好がつかないな……カミューは鏡の前で一番表情が栄える角度を研究してみた。
 この方向からなら割とよく映るかな、と鏡の自分に笑顔を向けた瞬間、トイレのドアが開いてグレンシールが現れた。
 馬鹿か、というような目でカミューを一瞥し、無言のまま用を足す。
 カミューは弁解したい気持ちをぐっと堪えてトイレを出た。


 午前中はひたすら長く感じた。身体が怠くてたまらない。
(……これはまずったかな……)
 しばらく御無沙汰だったが、風邪をひいてしまったかもしれない。
 風邪をひくと集中力が鈍るので、いろいろなことに支障が出る。今だって目が疲れて仕方がない。
 あいつのせいだ、とカミューは再度新しいトモダチを責める。
 しつこいくらいに目の前に現れたくせに、昨日に限って連絡もないとは。
(別に待っていたわけじゃないが……)
 考えるのは不愉快だからやめよう、と何度決意しても気づけば苛々している。寒気は酷くなるし、朝食抜きのままなのに腹が減らない。
 こじらせる前に何とかしなくては……。
「おい、カミュー顔色悪いんじゃないか?」
 昼休みになると普段からおせっかいな先輩社員のビクトールが肩を叩いて来る。カミューは無理に笑顔を作った。
「ちょっと風邪ひいたみたいで」
「そうだろ、なんかいつもより冴えねえもんな」
 おせっかいの上に無神経である。いつものことなのだが今のカミューにはダメージが大きい。
「女共が心配してたみたいだぜ、色男」
 今度はばん、と背中を叩かれた。寒気がとまらない人間になんてことするんだ…と文句のひとつも言いたいところだが、本人には全く悪気がないので黙っているに限る。余計なことは言わないほうがいい。
 しかし頭の回転が鈍くなって来た。これはいよいよ風邪のようだ。
 カミューはビクトール達と共に会社の外で食事をした帰り、近くの薬局に寄って風邪薬を購入した。
 今日は帰宅したらすぐに寝てしまおう。夕べのように間抜けなことはするまい……。
 カミューは誓いながらくしゃみをした。



 ***



 マイクロトフは帰宅の途中、時計を見てまだ大分早い時間であることを確認した。
 友達になってほしい、なんて今思えば恥ずかしい頼みをしてから2日しか経っていないが、忘れられる前に連絡をとったほうがいいだろうか――そんなことを考えて。
(ああ、でも)
 カミューのことだから女性との予定がびっしり入っているかもしれない。今から連絡しても無理だろうな。
 とりあえず電話くらいしてみようか。無理に会う必要はないのだし。
 カミューに時間がありそうなら少し話し相手になってもらおう……そう決めて、一旦立ち止まりかけた足を再び家路へと向けた。
 こんなに頻繁に連絡をしてまた煩がられるかもしれない。
 しかしまだ彼との会話を上手にすることができない。間を置いたらそれはもっと酷くなってしまうような気がするのだ。
 電話での会話は正直苦手だが、少し頑張ってみよう。
(一言で終わるかもしれないな)
 彼なら、「今忙しいから」とか。
 想像してちょっと可笑しくなった。
 そんなのも悪くない。じっくり仲良くなってもらえばいいのだ。
 それにしても不思議な縁だ。初め怒鳴りあいしていたのが昨日のことのようなのに。
 人間は見た目では分からない。カミューも案外いい奴だったではないか。
(さあ、帰るか)
 マイクロトフは道の小石を蹴飛ばしながら、楽し気に通りを進んで行く。




 午後9時、カミューの元にマイクロトフから電話がきた。
 マンションに着いてからコンビニ弁当を半分程たいらげて薬を飲み、着替えを済ませてぐったりとベッドに横になった。いろいろと余計なことを考えて苛々しながらうとうとしかけた時だった。
 携帯の電源を切っていなかったことに舌打ちしたが、何故だか無視するのが躊躇われてベッドを出る。携帯を開くと着信に彼の名前。
 脱力感が襲ったが、どうしてかそのまま電話に出てしまった。
 何か用かと尋ねたが、特に大事が話があるわけではなさそうだった。
 それならそこで電話を切ればよかったのだが、そのタイミングが掴めなくて彼の話につきあってしまった。 それほど長い会話だった訳ではない。多分30分かそこらである。
 しかしその電話の後すっかり目が覚めてしまい、電話を切って横になっても眠りが一向に訪れなくなってしまった。
「……いい加減にしてくれ……」
 カミューの呟きは誰に向けられたものか自分でも分からなかった。
 瞼が重くなってきた頃、東の空がほんのり明るくなっていた。





何だかカミューがただの可哀想な男に……