電話を切ってから5分を少しオーバーしたくらいで、見覚えのある赤い派手な車がやって来た。 少し身体が冷えて来たところへの登場に、やはりどこかほっとしたらしい。マイクロトフはぼうっと腰掛けていた花屋の前のガードレール、少し目を細くした。瞼の上を水滴が半円描いて滑り落ちた。 車は水飛沫を上げながらマイクロトフの目の前で止まり、中から余裕のない表情で降りて来たカミューにも容赦なく雨が降り注いだ。 マイクロトフは立ち上がって何か言おうとしたが、その前にカミューに怒鳴られてしまう。 「馬鹿、何だって濡れっぱなしなんだ! 何処かで雨宿りしてろって言っただろ!」 「ああ、でも少しだったし……」 「少しじゃないだろ、いいから早く乗れ。風邪引いても知らないぞ」 カミューはマイクロトフの腕を引いて車に寄せるが、それを一瞬マイクロトフは拒むように後退した。 カミューが眉を寄せる――それにマイクロトフは慌てて首を振った。 「違う、シートが濡れるから」 「そんなこと気にしてる場合か」 「でもお前、この車大事にしてただろう」 「私だってとっくにずぶ濡れだ。これ以上苛々させるな」 カミューの怒りを押し殺した声に、ようやくマイクロトフは大人しくなった。 促されるまま助手席に腰を下ろす。水分が染み込んで嫌な感触。 カミューも乗り込み、ドアを閉めると、雨音は随分遠くに聴こえた。 カミューからの電話に今いる場所を説明して、そこから動くなと言われてその通りに待っていた。カミューのマンションからさほど遠くない、地下鉄が歩いて5分の位地にある、花屋の前。 いくらでも帰る方法はあったのに、マイクロトフは不思議に動かなかった。待っていろと言われて雨の下で待っていた。 『気にするな』と一言言われたなら、「そうだな」と笑顔で返してすぐに帰宅したのかもしれない。 でも怒られた。 そうしたら何故落ち込んでいたのかを考えることから始まって、いつの間にか雨なんて気にならなくなっていたのだ。 迎えに来てくれると言うから、ただじっとそれを待っていたのだ。 マイクロトフはぼんやりと窓を見ていた。落ちては流れて消える雨粒を目で追っていた。 *** 「いいか、きっちりあったまってこい」 タオルを渡して、まだぼーっとした顔のマイクロトフをバスルームに突っ込む。 乾燥機なんてものはないので、彼が脱いだ服にドライヤーを当てて乾かしながら、カミューは肩にかけたバスタオルで自分の髪を拭いた。 クシャミがひっきりなしに飛び出して来る。酷い寒気に口唇まで震えたが、厚着の着替えで身体を誤魔化す。暖かめの服に袖を通すと幾分ほっとしたが、激しい悪寒はカミューの身体から出て行くつもりはないようだった。 バスルームから水音が聞こえる。心ここにあらずといった感じだったが大丈夫だろうか――クシャミをしながらカミューはドライヤーを動かした。 怒鳴り続けたので喉は引き攣れるようだった。クシャミをする度に響いて思わず喉を押さえる。俯くように保護したところで痛みは変わらなかった。 しかしここで寝込む訳にはいかない。カミューはドライヤーを一旦置き、湯を沸かすためやかんを取りに行く。 風呂から出て来たら熱いコーヒーでも飲ませてやって、それで家に帰そう。まだ終電までには随分時間がある。何があったかしらないが、ここまでしてやっただけでも有り難いと思ってもらわなければ。 そんなことを考えながら、カミューは甲斐甲斐しいほどにマイクロトフを迎える準備を進めた。心の声とは裏腹に、雨に濡れた力のない彼の笑顔が浮かんで仕方がなかった。 やがて物音静かにマイクロトフがバスルームから出て来た時、その表情があまりに穏やかになっていたのでカミューは正直拍子抜けした。 「いい湯だった。有難う」 まるで湯舟に浸かってきたようにマイクロトフはそう言うと、借りたタオルで頭をがしがし拭いてみせた。にっこり笑ったその顔には暗い影が消えていて、ぽかんとしていたカミューを申し訳無さそうに見つめた。 「迷惑かけたな」 「いや、それは……」 「いろいろ考えて、大分吹っ切れた。ちょっと感傷的になってたんだ。すまなかった」 「……」 額に落ちて来た水滴をタオルで拭き取るマイクロトフ。一瞬白い布地にその顔が隠れた瞬間、カミューは間抜けに瞬きをした。 さっきまで魂が抜けたような顔をしていたのに。 「……つまるところ、何だったんだ?」 カミューが思わずそう呟くと、 「ああ、ふられた」 「ふ……?」 マイクロトフが笑顔のまま答えた台詞に、カミューは露骨に不機嫌な顔を返した。 「まさか、またあの女」 「ちょっと話しただけだ」 「懲りない女だ……」 「これで本当に最後だから」 カミューが言いかけた言葉をとめた。 やかんが口笛を吹いた。 しばらく沸騰した蒸気の音が沈黙に響いたが、やがてカミューは少しぎこちなくソファを示してマイクロトフに座るよう促した。 素直に腰を下ろしたマイクロトフを確認して、カミューは湯を沸かしていたガスを止めに行く。やや目眩がした。熱が高くなったのかもしれない。 コーヒーを用意して、一応茶菓子も探したがそんなものはなくて諦めて。 いつか話した時のように、カミューはソファに落ち着くマイクロトフに背を向けて床に座ろうとした。だがマイクロトフはわざわざ場所を開けて、カミューが隣に座るのを待っている。 気づかれないような数秒の迷いの後、カミューは彼の隣に座った。 ……本当はあまり近づきたくない――体調が悪いのがばれてしまいそうだったから。 不自然な熱を見抜かれたくなかった。弱味を見せるのは好きじゃない。 でも彼が弱さを見せるのは嫌ではないのだ。それなのに、今こうして平気なふりをして、先ほどの表情はもう済んだことのように心の奥に引っ込めてしまっている。 頼みにしたから携帯を鳴らしたのではなかったのか。いや、思い直して切ったのか…そもそも自分はどうしてこんなおせっかいをしているのか。 熱のせいで頭がまとまらない……カミューはそこで考えることを棄てて、弱った胃にコーヒーを流し込んだ。苦味が喉を突いた。 マイクロトフはコーヒーカップを両手で持ち、やや微笑を浮かべているように見えた。湯気の底のコーヒーの水面をじっと眺めるマイクロトフの横顔に、カミューは目を奪われてすぐに逸らした。 |
今回からローマ字打ちにしたのですが、
あまりの遅さにこの回に3日くらいかかりました……(汗)
慣れてないのって怖いですなあ。
しかし状況説明だけで1話終わってしまった……。