WORKING MAN






 これはなんだとはっきり意識が戻ってきた時には、口唇は離れていた。


「……っ、」
 ひゅうっと息を吸い込んで、マイクロトフの顔が頬から見事に赤く染まる。
「な、なにをするっ……」
 ソファの上で飛び退くように尻を浮かせたマイクロトフに、カミューは一瞬能面のような表情を見せた。
 凍結した目の鈍い光にマイクロトフがぎくっとした時、
「……ぷっ」
「!?」
「くく……あはははは!」
 カミューが突然笑い出した。
 何がそんなにおかしいのか身体を腹で折り曲げ、顔を手のひらで覆って爆笑している。
 からかわれた、と気づいたマイクロトフは、今度は恥ずかしいのと怒りで顔を真っ赤にする。
「カミュー、お前! 俺を馬鹿にしてるのかっ!」
「悪酔いする前に目を覚ましてやったんだよ。お子様があんまり調子に乗るから」
「だ、誰が調子に……」
 そこでマイクロトフは言葉を区切った。
 態度に反して、カミューの濡れた瞳が少しも笑っていないことに気がついたからだった。
「……もう服は乾いただろ。帰りなよ」
「カミュー……」
「お察しの通り私は機嫌が悪い。あまり人と話したい気分じゃなくなった」
 突然早口になったカミューにマイクロトフは狼狽えて、しかしそれ以上会話を続けることは諦めた。
「帰って」
 そのカミューの一言で、マイクロトフは立ち上がることを余儀無くされた。
 何を言ったところで無駄だろう。まだ『出て行け』じゃないだけマシか――マイクロトフはのろのろと帰り支度を始め、最後にもう一度カミューを振り返って「迷惑をかけてすまなかった」と告げた。返事はなかった。
 まだ地下鉄の時間は随分余裕があったし、後で外に出てから分かることだったが雨はすでに止んでいた。
 まるで追い出されるようにカミューの部屋を出て、マイクロトフは改めてドアを振り返る。
 ――そういえば少し様子がおかしかった。
 酒を飲んだら気にならなくなったが、落ち着きのない態度は不自然だったかもしれない。
(自分を気遣って迎えに来てくれたのに、酔ってくだらない話をべらべらと……調子に乗っていると思われても仕方がない……。)
 ため息をつきながらエレベーターに乗り込み、一階のボタンを押す。静かな機械音を立ててエレベーターは降りて行く。
 折角もう少し仲良くなれそうだったのに。
 マンションを出て、マイクロトフはもう一度カミューの部屋の辺りを振り返って見上げた。
 戯れの口づけを思い出して、再び赤くなる。
(何であんなこと……)
 思わず自分の口唇に触れてみた。その仕草が我ながら恥ずかしく、慌てて指を離したのだが。
 触れたのは一瞬だった、でも。

 熱かった、口唇。不自然なほどに。







 マイクロトフを追い出して、ようやく肩の力を抜いたカミューは――そのままソファに倒れこんだ。
 どっとやって来た目眩に抗えず、ず、ず、と身体の擦れる音を聞いた。暗黒になった視界に光が戻って来た時はソファに突っ伏していたわけだが、時間にしてわずか数秒、いや数分……気を失ったのだと気がつくまで少しかかった。
 重く怠い身体をのろりと起こし、目を一旦閉じてすぐに開く。瞑ると瞼のあまりの重さと熱さにもう開けることができなくなりそうだったからだ。
 このままソファに転がっていてはもっと悪化する。
 カミューは何とか立ち上がると、買っておいた風邪薬をしまっていた棚へ歩き始めた。その動きさえ疲弊しきった胃を刺激する。広くはない部屋を移動するのに休み休み、随分時間がかかった。
 ようやく辿り着いた棚の前で一呼吸、薬を取り出して、このまま飲んではただ吐いてしまうのではないかと、僅かな理性で考える。
 何か食べ物を先に詰めようと冷蔵庫を探すが、ろくなものがないのは分かり切っていたことだった。
 仕方なく湯を沸かしてカップヌードルに注いだが、三分の一も食べないうちに吐き気に遮られた。全く何も食べないよりはマシかと薬を無理矢理飲み込んで、後は着替えることもできないままベッドに潜り……
 ……そこでぶつりと意識が切れた。






 ***






 マイクロトフは自宅に戻り、弾丸のように部屋に飛び込んですぐに外に戻って来た。
 その手にはいつかの預かりものであるカミューの部屋の合鍵が握られていた。
 今度こそ終電ギリギリだった。やって来た地下鉄に迷いなく乗り込み、それほど長くない距離を苛々と過ごし、降りたら一気に走り出す。
 ――ずっとおかしかったじゃないか。
 自分のせいで無理をさせてしまったのかもしれない。口ではいつも突き放したような言い方をするけれど、何だかんだ言って気遣ってくれる男だから。
 僅かに焦点からずれた視線、縁がしっとり赤く染まっていた気がする。酔っ払いの戯言につき合ってくれていた時も、普段より呼吸が荒かった。
 そうだ、後からこんなに思い出せる彼の様子が、どうしてさっき気づいてやれなかった。
 愚痴にも酒にもつき合わせた。迎えに来てくれた。切れた電話を気に留めてくれてかけ直してくれた。
 そういう男なのだ、だから友達になりたいと思ったんじゃないか。
(戻って来たのを見たらまた怒られるかな)
 だけど少しは役に立ちたい。それがまた迷惑になるかもしれないけど……


 雨は止んだ、もう過ぎたことで俯いたりするものか。
 そんなことに捕われてる暇はない。






まだ引っ張るようです。
カミュー瀕死です。