マイクロトフがカミューのマンションに戻って来た時は、辺りに人通りも全くなくなっていた。 マンションに足を踏み入れる前にちらりと時計に目を走らせる。終電5分前。 帰れと怒鳴られたらどうするか――その時はその時だ、そうなってから考えよう。 集合ドアロックの前に立ち、カミューの部屋番号を入力する。……1107。 それからチャイムを押す。しばらく待つ。 (……) 十秒後、もう一度ダイヤルし直してチャイムを押した。やはり返事はない。 もう寝てしまったのか、または自分だと見越して拒否されているのか、それとも。 「……すまん」 小さく呟いて、再びカミューの部屋の番号をダイヤルしたマイクロトフは、今度は手に持っていた鍵を鍵穴に差し込んだ。 ジーッと音がしてドアのロックが外れる。走るようにドアを潜って、待機していたエレベーターへ。 11階のボタンを押した。心臓がどんどんと低く胸を叩いていた。 カミューの部屋の前に立つと、念のためもう一度チャイムを押す。……待つこと数秒、やはり返事がないと判断したマイクロトフは、一瞬の躊躇の後に鍵を使った。 ドアは呆気無く開く。玄関でドアをきちんと閉めて、 「カミュー」 中に声をかける。物音ひとつしない。マイクロトフは靴を脱いだ。 ひょっとしたらまるで反応がないのは出かけてしまったのだろうか――そんなことを考えながら恐る恐る、マイクロトフはリビングへと足を進めて周りを見渡す。カミューの姿はない。 風呂場を使用している音もせず、後は寝室くらいしか探すところがない。マイクロトフはどうしたものか迷ったが、意を決して寝室へ続くドアに手をかけた。 部屋は薄暗かった。カーテンが引かれて電気もついてない部屋で、やがて目が慣れて来てベッドに横になっている人の輪郭を認めると、何だか無性に安堵した。思わず口をついたため息の音が大きくて、マイクロトフは自分でも驚いたほどだった。 よく眠っているようだ、カミューはピクリとも動かない。 取り越し苦労だったかな、どうやって帰ろうかななどど考えながら、それでもマイクロトフはカミューの眠るベッドに静かに近づいた。 俯せになったカミューの横顔、暗闇の中だが少し苦しそうに見える。背中の上下の差が大きい気がする――急に不安を感じてマイクロトフはそっと手を伸ばす。 乱れた前髪を掻き分け、触れた汗ばんだ額。 マイクロトフは思わず手を離した。熱い。 心を落ち着けもう一度触る。かなりの高熱だ。マイクロトフは一旦部屋の入り口に戻り、電気のスイッチを探り当てた。 明かりの下で見たカミューは服も着替えていなかった。熱が高く息も荒いのに、顔色だけが透き通るように青く染まっている。マイクロトフも自分のこめかみから血の気が降りて行くのをしっかり感じた。 それからの行動は早かった。 カミューのロッカーを探り、パジャマを探したが見つからない。仕方がないので代わりになるような部屋着を引っぱりだし、なるべく胸元がゆったりしたものを選んだ。 台所でタオルを濡らし、暖かいうちにカミューの身体を拭いてやる。かなり汗をかいていたのだろう、シャツは湿っていた。 カミューはぐったりとしたまま、服を着替えさせても目を開こうとはしない。仰向けに寝かせて、シーツやバスタオルをありったけかけて、今度は冷水でタオルを濡らして額に置いた。 きっとすぐにぬるくなる。マイクロトフは氷を探すために冷蔵庫に向かう途中、テーブルに放置された食べかけのカップラーメンを見つけた。すでに残った麺が汁を吸い切って、原形はとどめていなかったが。 「こんなものを食べて……!」 つい口にして、氷を取り出しながら冷蔵庫の中を探す。相変わらず酒以外何も入ってない。無造作に転がっていたコンビニのビニール袋に氷を詰め込みながら、マイクロトフはこのマンションの近くの並びを思い出す。 前にカミューに夕飯を作った時に使ったスーパー、そこから少し離れたところにこのコンビニがあったはずだ。 タオルを置いたカミューの額に氷を乗せ、落ちないように形を整えてから、合鍵をしっかり持ってマイクロトフはマンションを出た。20分経つか経たないか、戻って来たマイクロトフの手には膨らんだコンビニの袋が握られていた。 *** 水音が、聞こえる。 それほど遠くじゃない。心地よい音だ……。 誰かが水を浴びている。 滴が肌を伝う。 弾く水滴は砕けて、再び滑らかな肌を滑るのだ。 何て綺麗なんだろう…… 水音が聞こえる。 黒く濡れた髪から滴り落ちる水滴。 無駄な肉のない脚を爪先まで落ちる水滴。 首から鎖骨の窪みに溜まり、また胸を撫でて行く水滴…… 綺麗な絵だ。引き締まった身体はさぞや美しいだろう。 見えるのに見えない。音は聞こえる。その姿が見たい。 水を浴びて艶かしく濡れた、滑やかな肢体が…… 水の音。 「……」 カミューは目を開いた。 天井の模様が何なのか分からず、しばらく呆然と固まっていた。 カラカラの口唇を動かして、ひとつ咳き込む。喉が痛い。 瞬きをした。口唇を舌で湿らせ、辺りを見渡した。――いつもの部屋。 しかし明らかに何か違和感があった。 (……水の音) そうだ、水音が聞こえる。夢現に聞いたこの音は幻聴ではない、現に今も…… (……え……?) 身体がおかしい。 無性に怠いのは体調を崩したせいだが、そうではなくて、身体の中枢が脱力したような……ずっと昔に覚えがあるようなこの感覚は…… 「……まさか」 寝惚けていた頭がだんだんすっきりしてきた。それどころが青冷めて来た。 カミューはそのままの姿勢で硬直していたが、やがて恐る恐る手を伸ばした――ズボンの中。更に越えて下着の中。 「!」 濡れた感触に慌てて手を引き抜く。枕元のティッシュを数枚取って必要以上に手を拭いた。 (まさか、こんな、こんな……ちゅ、中学生じゃあるまいし……!) 一体自分は何の夢を見ていたのか。誰もいないのに真っ赤になった顔を隠しながら、必死で記憶の糸を辿っている時、ふと水音がやむ。 はたとカミューは寝室のドアが半開きになっているのに気づいた。 水音がしたということは誰かがいるということだ。よく見ると服が着替えさせられていて、枕のところにビニール袋に入った氷が落っこちている。ほとんど水に変わっていたが。 そしてカミューは昨日の出来事からだんだん思い出し始めた。マイクロトフを追い返して、それから薬を飲んでベッドに倒れて――後は覚えていない。 するとリビングから足音が聞こえて来た、と思ったら閉まり切っていなかった寝室のドアが開いた。 心臓が飛び出そうになったカミューの目の前に、現れたのは濡れた髪を肩にかけたタオルで拭くマイクロトフだった。 「起きたのか、カミュー」 「ま、マイクロトフ? 何で……」 カミューの言葉を無視してマイクロトフは小走りに近づき、その大きな手のひらをカミューの額に押し当た。そうして彼が安堵のため息を漏らすと同時に、その髪から香る自分と同じシャンプーの香りにカミューはぎくりと息を飲む。 水の音、滑らかな身体。 水を弾いてその肌はきっと美しいに違いない…… 「!!」 カミューはマイクロトフを突き飛ばし、未だ布団に潜ったままの下半身で膝を立てて身体を丸めた。 「カミュー? 大丈夫か、まだ具合が……」 「だ、大丈夫だ、大丈夫! ちょ、ちょっと向こうに行っててくれ!」 「しかし顔が真っ赤だぞ! まだ熱があるのでは……」 「何でもない、何でもない、頼むからあっちに行っててくれー!」 ――一生の不覚。 |
目覚め。
水の音だけで想像力逞し過ぎです、さすが妄想王子。
この連載始めて2番目に書きたかった場所でした。
もう思い残すことは……(まだだろ)