WORKING MAN





「ああもう!!」
 大声で喚いてベッドから転げ落ちる。
 なんてぶざまな格好だ……そのままあぐらをかいてカミューは床を殴った。
 元々朝はすっきりした目覚め、なんてタイプじゃなかった。その気になれば太陽が真上に昇るまで寝てられる体質、平たく言えば朝に弱いほうだったのだ。
 それがあの最悪な朝から毎日毎日、同じ悪夢で魘されて起きる。正確には同じ夢じゃない、――同じ人間。
「一体どうしたって言うんだ……」
 独り言を呟いても空しく誰もいない部屋に吸い込まれるだけ。
 誰か居てほしいとでも思っているような空虚感。
 どうかしている。どうかしている。
 熱はもう下がったはずなのに、おかしな熱が産まれている。
(会社に行かないと)
 顔を洗っても、着替えても。
 コーヒーを飲んでも、新聞を読んでも、頭の中は別のことに支配されているのだ。
 こんなのはおかしい。今までにない。
 どうしたらいいのか分からない状況が異常なんじゃないか――






 平気なふりをしているつもりだった。
 ……つもり、だった。
(……おかしい)
 最近周りの態度が今までと違うのだ。どうも遠巻きにされているような、妙に様子を伺われているような。
 昼休みとなればカミューさんカミューさんと集まってきた女の子達が、こちらを気にしつつも近寄ろうとしない。
 後輩がやたらと上目遣いで恐る恐る話しかけてくる。
 自分に異変が起きてからずっとこうだ。もう気のせいなんかじゃない。
 いつも通りに装ってるつもりだったのに。
(装ってる?)
 装ってるとは何だ。
 まるでこの原因が分かってるみたいじゃないか。
(そういえば最近独り言が多くなったかもしれない)
 仕事をしても、誰と話しても、何をやったって。
 顔がこわばっているのだ。何かとてつもない無理をして。





 ***





「……疲れた」
 呟きに答える者もない夜の道、カミューは帰路でため息をついた。
 一日がこんなに疲れる。一時間前のことが思い出せない。
 常に考えている正体の分からないものに悩まされ、心身共にくたびれ果てた。
 いつまでこんな日が続くのか。
 どうやったら解決するのか。
 答えの出ない苛立ちに苦しみながら、目の前にそびえた自分の部屋があるマンションを見上げた――
「……、」
 息を飲んだ。
 慣れた我が部屋の窓の位置くらい記憶している。
 ……灯りがついている。

 ――誰かいる

 どくりと喉から胃まで掴まれたような震えが走った。
 思わず下から数を数えて11番目――間違いなく自分の部屋、灯りが点るあの窓。
 誰かいる。
 何故か荒くなった呼吸に驚きながら、急ぎ足で、いや小走りにマンションに飛び込んだ。
 鍵を出してロックを外す。エレベータに滑り込んでいつもの11階。
 誰かいる。誰かいる。
 ――誰が?
 息が苦しい。
 エレベーターが11階に到着すると、カミューは自分の部屋のドアまで駆け抜けた。




「あ、おかえりなさ〜い」
 ドアを開けたまま固まること数秒――
 鼻にかかった声で見覚えのある女がカミューを迎えた。
「今日遅かったんだねー、久しぶりー。」
 屈託のない顔で女がソファから立ち上がっても、カミューはすぐには動けなかった。
 ――誰だっけ。
 名前よりも先に彼女の髪をいじる癖を思い出した。
 ああそうか、前にもこうして食事を作ってもらったことがあった。思い出したようにやってきて、気紛れに帰って行く、あまり疲れなかったこの女は――
(思い出せない)
「どうしたの? 変な顔して」
(思い出せなかった)
「あ、まさかあたしのこと忘れたとか言うんじゃないでしょうねー。」
(灯りがついていたら思い出すはずの顔がひとつも思い出せない――)
「……忘れた」
「え」
「忘れたよ。……忘れた……」
「……」
 女が口唇を閉じた。
 一度まばたきをして、すっと無表情に変わったその様を見ても、カミューはまだ彼女の名前が思い出せなかった。
「……忘れたんだ。もういいんだ、あたし。」
「……ああ。悪いけど……」
「いいわ、帰る。そんな真面目な顔されたらつまんないし」
 それからの女はテキパキとしていた。持ってきた荷物に加えてキッチンからいくつか物を持ち出して、あれは彼女のものだったのかとカミューが他人事のようにぼんやりとそれを見つめて。
 頭はうまく働かなかったが、女が脇を通り過ぎる時にするりと言葉が出た。
「――鍵。返して」
「……分かったわよ」
 彼女はカミューに鍵を突き出すと、後は無言で部屋を出ていった。
 カミューはドアのそばでまだ動けずに、そのままずるずると腰を下ろした。
 違うんだ。違う。
 誰かいると思った。いてくれると思った。
 誰かいると思ったんだ、彼女じゃない――



 眠れない、眠れない、眠れない。
 女が置いていった料理を無造作に捨てても、服も着替えずにベッドに突っ伏しても。
 目を閉じても、開いても、たとえ眠っても、夢を見ても。
 焼き付いた映像が逃げて行かない。
 映像。ただの記憶、ただの想像。
(――助けてくれ)



 本物が見たい。






末期症状。