「どうしよう」 間抜けな声が自分のものだとは……。 心の中で突っ込んで、カミューは切ってしまった電話をたっぷり5分間見つめていた。 ――何で電話なんかしたんだ。 人の通らない廊下を選んで、自分のデスクからここまで来る短い時間はうんと迷っていたのに、手にした携帯でマイクロトフの番号を出したらそれが合図だった。 勝手に通話ボタンを押した指は、コールが鳴る前に電源を切ることはしなかったのだ。 出ないでくれと半分思いながら(ではもう半分は?)彼の声がした時頭が真っ白になって…… 「何が味噌汁だ」 馬鹿かお前は。自らを罵倒するのは恥ずかしいのをごまかすためだ。 何故か顔全体が内側から熱を吹いたように熱い。自分のしでかしたことに動揺しているせいだ、何だってあんなこと。 きっとマイクロトフもおかしく思ったに…… 「……」 『では後でな。』 妙に冷静だったな。 普通おかしいと思わないのか。何ですんなり了承できるんだ。 というか、どうしてあれで話が通じる。 (来てほしいなんて一言も言ってないのに) 後で。 ……後でうちに来る。 顔が熱くなる。 (何なんだこの反応は!) 思わず前髪を掻き毟り、抜けて指先に絡まった髪の毛が白髪に見えてぎょっとした。 白髪どころか、禿げそうだ……。 今日は早く帰らねば。 *** 定時と共に会社を飛び出して、鉄砲玉のように自宅に辿り着いて呼吸を整える。 エレベータをもどかしく待ち、部屋に入ると同時に辺りを見回す――カミューの目は少々血走っていた。 ――いるわけない。 普通に考えればまだ来ているわけがないのだ。距離的に、時間的にも無理だと分かっている。 だから焦る必要はない。カミューはぶつぶつ呟きながら自分を落ち着けようとした。 (着替えないと) 鞄を置いて、スーツを脱いで。まだ時間はあるだろうか。 (少し片付けた方がいいか) マイクロトフは綺麗好きなようだ。彼が使ったあとの台所は使用前より磨かれている。 脱ぎ散らかした服を目に着かないところに押し込み、放置してある空き缶をゴミ箱に突っ込み、時計を振り帰ってまた手を動かす。 どうしてこんなに一生懸命になっているのか自分を問いつめたかったが、それは片付けてからでもいいかとカミューは思った。早くしないと来てしまうかも知れない。 自分の行動が疑問なのはずっと前からだ。その度にいちいち言うことを聞かない心に文句を言って来たが、今は時間がない。 マイクロトフが来ると言うのは目の前に迫っている事実なのだ。それまでに終わらせなければ、と思考が段階をすっ飛ばして叫んでいる。 考えるのは後だ。――本当はそれでは遅いけれど。 そんなこと分かっているけど、今考えたら頭がおかしくなりそうで恐いのだ。 彼はいつも通りの顔で現れた。 カミューが片付けを開始してからきっかり1時間後、マイクロトフは見慣れないスーパーの袋を持って玄関に立つ。 さすがに渡した合鍵を使って入ってくるようなことはなく、律儀に一階でチャイムを鳴らしてからの登場だ。 カミューはどんな顔で迎えたら良いのか見当もつかず、とりあえず正体の分からない気持ちをごまかすために無表情を造った。 「遅くなったな。上がってもいいか」 「ああ」 結果的に呼びつけたのはカミューと言うことになるだろうから、ここで上がるなとは言えない。それに言ったら本当にマイクロトフは帰ってしまうだろう。 (……それがどうして上がるなと言えない理由になるかなんて、考えるもんか) 考えたらおかしくなる。一人でおかしくなるならいいのだ、今はその原因が間近にいる。 原因、そうだ、それはもう認める――カミューは極めて普通にスーツ姿で台所に立とうとしている男の背中を睨み付けた。 “これ”が原因だ。 そんなことは認める前から分かっていた。 問題は、これのせいで自分がどうなってしまったのかということだ。 (考えるな、続きはマイクロトフが帰ってからにしろ) カミューは堪え難い顔の火照りに口内の肉を噛む。 胸がむかつくような存在から、確実に違うものへと変化している。認める認めないの問題じゃない。――これは何だ? ……それだけなのだ。 答えを出してはいけない気がする。だから必死に頭の理性が警報を鳴らしているのだ、もうずっと前から。 何かがおかしいと気付き始めた時から、きっとずっとランプが点滅していた、だけど…… (電話をした) (……会いたいと誘った) (――来てくれた) これが事実で、そして異常でなくて何になる。 おかしいのだ、完全に混乱して血迷った電話だ。 それにどうして応えたマイクロトフ。 俺はとっくにおかしいんだぞ―― 分かっていないマイクロトフはスーツの袖を捲って料理を始める。 包丁の音が聞こえて来た。 |
混乱してるのは私だ……。
こんな半端なとこですいません。
ああ、一気に行きたいところだった……。