WORKING MAN






「二日分はあると思う。この季節なら出しておいても悪くはならないだろう。飯も炊いておいたから」
 1時間ほど、いやそれほどかからなかっただろう。マイクロトフは手際よく味噌汁と炊飯器にカミューが所望した以上のものをセットして、まくっていた袖を下ろしながらそう言った。
 カミューはすきっ腹を刺激する味噌汁の匂いに心動かされながら、それでもマイクロトフの次の動向から目を離さなかった。
 マイクロトフは役目は終えたと言わんばかりに、くつろぐどころか帰り支度を始めようとしているようなのだ。
「……帰るのか?」
 うっかりカミューは口に出した。
 マイクロトフは不思議そうに首を傾げてみせる。
「ああ。……何でだ?」
「だって、……さっき来たばかりじゃ……」
 言いかけて口唇を噛みそうになった。――あからさまに口を押さえるよりマシだっただろうか。
 カミューのおかしな態度は特に気にしなかったようで、マイクロトフは表情を変えなかった。
「そうか? でも1時間ぐらいお邪魔していたぞ。」
「いや、1時間も経ってない」
「でも……、もう9時だ」
「まだ9時だろう」
 何をムキになっているのか。少し眉を寄せているカミューにマイクロトフは困った顔をした。
 別に引き止める理由などないのだ。だが、このまま帰したら自分は本当に味噌汁だけを作らせるために彼を呼んだようではないか――
(違うのか?)
 往生際の悪い心の声だ。カミューは聞こえないように舌打ちをした。
「ともかく、もう少し居てくれると私の良心も救われるんだけど。これじゃまるで家政婦扱いしたみたいじゃないか」
「俺は気にしてないが」
「私が気にするんだ。……明日は早いのか?」
「いや、普段通り……、……分かった、もう少しいる。終電までには帰るぞ」
「じゃあ後は座ってて」
 最後はマイクロトフの言葉と重なるように、カミューは早口で告げてキッチンに避難した。
 冷静さを装うのに時間制限がある。だだっ子のように訳の分からないことを言ってしまいそうで、現に今マイクロトフを困らせてしまった。
 前はあんなに、姿を見るだけで不機嫌になったのに。
 不審がられないように意味もなく冷蔵庫を開けて音を立て、ソファに座っているだろうマイクロトフとのこれからの会話を考えて複雑な気分になる。
 呼びつけたのは自分で、引き留めたのも自分だが、何を話したらいいのだろう。
 今さら世間話なんて雰囲気でもないし。そろそろおかしく思われているだろう……。
 カミューはため息をついた。自分がどうしたらいいのか分からなくて、こんなふうに悩んで迷っているなんて。情けない格好を思うと泣きたくなる。
 開けたついでにビールとチューハイを数本出して(相変わらずろくなものが入ってない……)、深呼吸をしてマイクロトフの元へ戻る。ガラステーブルに缶をごとごとと置いて、隣には座らず少し不自然に離れて。 食事をしながら、マイクロトフは全く普通の話をしかけてきた。今の仕事がどうだとか、同僚と行った店のこととか、カミューはもっぱら聞き役に回って頷いて、を繰り返しているうちに。
 疲れていたのだろうか、マイクロトフが船を漕ぎ始めた。
 時計を振り返ったカミューは少し躊躇って、それでも声をかけることが何故かできずにいた。
 やがて完全に寝息を立てたマイクロトフの前で、カミューが情けない顔をして呆然としていた。




 ……寝ている。
 目の前に立って様子を伺っても、起きる気配がない。時計を見ると11時を少し過ぎたところ、今起こせば終電には間に合う。
 なのに、起こすことができずにいる。
(今起きたら帰ってしまう)
 そう、多分これが本音。でも理由が分からない。
 どうして自分はこの男を帰したくないんだろう……どうしてここに呼んで、こんなふうに寝顔を見つめているのか。
 自分が知らない人間になったようだ。狼狽えて動けない。さほど年の変わらない男を前に、どうしたらいいか分からなくて立ち尽くしているだなんて。
 どうしたいのか。どうしてそうしたいのか。今まで恐くて確かめられずに居た……
(確かめる?)
 どうやって確かめよう?
 ……どうしたい?
「……」
 カミューはごくりと唾を飲み込んだ。
 ぎこちない動きで跪き、ソファに凭れるように眠りこんでいるマイクロトフの顔をまじまじと見る。
 健康そうな頬は弾力がありそうだった。
 カミューはそっと指を伸ばした。
 指の先でほんの少し頬に触れ、何かに弾かれたように少し引っ込める。それからまた、ゆるやかな動きで触れた。
 頬は思っていたよりも柔らかかった。指の力に合わせて凹む暖かさに、胸の内からどうしようもないような衝動が沸き起こるのを覚えた。
(起きるな)
 人の肌にこんなに緊張して触れたことがあったか。
 寝息は規則正しい。
(眠っててくれよ)
 指を離すことができない。温もりから離れるのを嫌がっているようだった。
 心の声と本音と行動、どれが今率先して働いているのかもう分からない。
 ……もっと確かめたい。
 欲望に忠実に、欲求に素直に。でないとこれからまた苛々する日々が続くのだ、ここではっきりさせなければならないのだ。
(頼むから)
 自分に素直に。
(……眠っててくれ)
 一度は触れたその場所に。
 指を伸ばそうとして、震えが酷くて動きをとめた。寝息を確認する。なんだか呼吸が不自然になったような気がして、顔を近付けた……眠っている。
 目の前には安らかな寝顔。恐れも不安もないような、こちらが脱力するような。
 胸が痛い。心臓が早鐘を打ち過ぎて痛むのだ。
 ぐらぐらと襲う目眩の中、柔らかく膨らんだ口唇に魅入られた。もう、どうなってしまってもいい、ここでマイクロトフが目を覚まそうとも、いややはり起きないでくれ、このまま眠っていてくれ、混乱は絶頂を極めた――




 触れたのは2度目。
 微かに当てたその場所から規則正しい息が振れる。
 緩やかに押し当てるだけだった。ほんの少し隙間の空いた、その奥の湿った空間をこじ開けることもできずに。



 緩やかに押し当てるだけだった。
 それだけで気を失いそうだった。






ようやくカミューが動き始めました。
次はマイクだ。