WORKING MAN






 ――コレハナンダ?



 ***


 もうすっかり道を覚えてしまったカミューのマンション、マイクロトフは少し疲れた顔で迎えたカミューにいつも通りの笑顔を見せた。
 本当は自分も疲れていたけれど、カミューの電話の声を思い出すとそんなことは言えなかった。中に上がって味噌汁と米を炊いて、それで帰宅しようと思っていたのだが。
『……帰るのか?』
 何で引き留めるんだろう。口にも顔にも出さないように努めて、マイクロトフは当たり障りのない返事を返す。
 カミューは時々不思議なことを言う。前は早く出ていけと言わんばかりだったのに、今度は引き留めて妙な表情をする。
 平然と装ってみせたが、ムキになっているようなカミューに「何故?」がとまらない。食事を一緒に取るのもこれで何度目か。喧嘩して出会って、互いの名前を覚えて、会話を何度か交わして、合う時間がどんどん増えていって。
 友達になって、電話をして、看病をして、合鍵をもらって。
 距離がどんどん近付いているのは分かる。そのことは嫌じゃないし嬉しい、でも――マイクロトフは考えの切れ目を時折瞬きで示した。
 何かおかしいのではないか?
 彼の声が、目が、出会ったころと違うのではないか?
 自分はどうしてここにいて、自分の作った食事を彼と一緒に食べているのだろう?
 機械的に流していたアルコールと疲れのせいで、考えながら眠くなって来た。
 動揺を見せまいと率先して会話を作っていたが、いつしか相槌を返すようになっていたのはマイクロトフのほうだった……



 頭が重たい……。



 目の前に影が落ちる。

 目を開けようとしたが、眩しいのと直感の知らせでマイクロトフは微かに眉を震わせるに留めた。影が動かないのを感じてそっと瞼を擦り開ける。睫毛の隙間から人影を確認することができた。
 頭は少し寝ぼけていたが、そえはカミューだとすぐ分かった。ここがカミューのマンションで、カミューと食事を取った後だと言うことも思い出した。
 だが目を完全に開くことはしなかった。頭のどこかが訴えていたのだ――気付かれるな、と。
 呼吸を乱さないように、不自然ながら自然な間隔を保って様子を見る。薄目の向こうでカミューがどんな表情をしているのかはっきり見えない。
 ふと、カミューの指が伸びて来た。その映像を睫毛の隙間に捕らえることができなければ、触れられた瞬間起きていることがばれてしまうほど身体が震えたに違いなかった。
 カミューはマイクロトフの頬に触れ、その弾力を確かめているようだった。
 ――何をしているんだろう。
 純粋にそう思った。カミューはしばらくマイクロトフの頬を触り続け、互いに息と声を殺して騙し合いの沈黙が続く中。
 カミューがふいに指を離した。
 マイクロトフは一瞬息を飲みそうになった。乱しかけた呼吸を何とか堪えて、細く息を吐き出した。
 カミューがこちらを見ている。薄暗い視界の向こうで自分を見ている彼の輪郭が浮かび上がる。
 どうして動かないんだ。どうして動けないんだ。
 息がうまくできない。心臓が服を揺らして、動揺がカミューに見つかってしまいそうだ。
 何でも良い、早く動いてほしい。自分は指先ひとつ動かすことができないのだ、息をほんの少し乱すことも……
 空気がふわりと動いた。
 あ、動いた。マイクロトフがそう思った瞬間、ほんの瞬間――




 ――コレハナンダ?




 肉圧に吐息の先すら振れることができなかった。
 押し当てられたその口唇が、その刹那から呼吸を止めたことに彼は気づかなったのだろうか。
 身体が、息が、自然の状態を保ったまま不自然に動きをやめた。
 酷く長くもあり、短くもある一瞬だった。
 乾いた同士の口唇がざらりと触れ合って離れた――





 コレハナンダ……?







 動けない。








 ***



 翌朝目が覚めて、いつも通りに振る舞ったはずだった――はずだった。
 カミューがそう思ったかは分からない。ただ、会社に遅れるからと理由をつけて慌ただしくマンションを出た、それだけの時間でどう思われたのか……おかしく思われてなければ良いとマイクロトフはぼやける頭で考えていた。
 自分の動揺は想像以上だ――マイクロトフはからっぽの目でため息をつく。
 口唇に触れられたのは2度目。それも、1度目は熱と酔ったはずみでのことだろうと深く考えてはいなかった。
 夕べは違う。酔っぱらっての行動じゃない、雰囲気でそれは分かった……
 ならどうしてあんなことを? マイクロトフは頭を抱える。
 自分は動けなかった……動かなかった。
 動いてはいけないと本能が知らせてくれた。
 あの時、カミューの目の前で瞳を開いていたら、彼は何と言ったのだろう。
 自分は何が言えただろうか……?


 カミューと会うのが恐い。
 この胸の揺さぶりが落ち着くまで、彼との会話を想像することができない。

 コレハナンダ。






マイクロトフ動揺。
当たり前だ。