WORKING MAN





 寂しい夜が続く。

 独り寝が寂しくて誰かを呼びたい気持ちとは少し違う。
 恐いのは夜だけじゃなくて、朝も昼も一日中寂しい。
 つまらないのではない、圧倒的に寂しい。一人でいるのが寂しい、でも誰にでも居てほしいと言うわけではない。
 そして思い知るのだ。いかに自分が今まで寂しい人生を送って来たか。
 この状況を打開するために誰の助けも借りることができず、自分でぶつかっていかなければならない難しさ。
 思い知るのだ。そんな経験がないために足が竦んでいる自分の姿を。




 声が聞きたいな。






 ***


 嫌になる程仕事がスムーズに進んで、最近の帰宅は専ら定時と共に訪れる。
 こうもうまくいくのはきっとグレンシールが何かしているのだろう――私は役立たずと言う訳か――カミューは引きずるような足取りで夕方の街を歩く。
 家に帰ってもすることはない。数日前は車で遠くまで走ったりもしたが、あの狭い空間では悲しい自分の独り言がやけに響いて聞こえるのでそれ以来乗っていない。
 まだ仕事をしているほうが気が楽なのに。確かに誰が見ても分かる散漫な状態で物事を任されることはないと思うのだけれど。
 部屋に一人でいるのは寂しいし、長い夜の大半をもやもやと無駄に過ごすことになるのだ。今から真直ぐ帰路を辿れば30分後には冷たい部屋に辿り着く。
 今日はどうやって時間を潰そうか――
 浮かぶのは声と顔。



 結局戻って来た部屋で電気をつけて、着替えもしないでソファに座り込む。
 投げ出した鞄、ちらりと覗く携帯電話。
 魅入られるように手に取ってしまいそうな衝動をギリギリのラインで留める。
 今日は何をしようか。……今まではどうやって過ごしていたのか。
 まずは生活の義務から始めよう。……カミューは立ち上がって着替えをすることにした。

 着替えが済んだらまた時間に困ってしまう。
 腹が減っている訳ではない、しかし口寂しいので冷蔵庫からビールを出す。
 出したビールにしばらく手をつけず、ぼうっと天井を眺めていた。
 想像の果てに挑戦する。何も考えないことを考えてみる。白い景色を頭に広げて、それでもその先に声と顔が浮かんでしまったところでカミューは目を閉じた。
 少し疲れて、放置していたビールを手に取る。汗をかいた缶が手に水滴を垂らす。
 冷えきったビールは期待できなかった。全く温い訳ではないが、嫌な具合に冷たさが抜けかけた半端な温度のビールだった。
 ふいに過去を思い出してカミューはビールをテーブルに置く。
 あのケーキが食べたくなった。
 できる行動を見つけたカミューは、その目的を大事そうに口の中で反芻して車のキーを取る。
 今から行けば閉店ギリギリに間に合うはずだ。


 買って来たケーキはあの日と同じ。
 包みを開けると洋梨のブランデーの甘くほろ苦い香が鼻に届いた。
 久しぶりに少し笑って、柔らかいブラウンの生地にナイフを入れる。
 先程飲みかけのビールと一緒におかしな夕食を始めた。ビールはうまい具合に温くなっていた。
 ――あの時はどんな話をしたんだったっけ。
 突然現れた男に驚いたことを思い出す。彼はどうしてこのケーキを買ってきたのだろう。あの時は本当に驚いたどころか呆れてしまった……気付くとケーキはフォークの先でぐしゃぐしゃになっていた。
 こんなことになるなんて予想もしていなかったあの日、どうして自分は未来の気持ちに気づけなかったのだろう。
 酷いことをたくさん言ってしまった。彼は傷付いたのではないか……
 カミューはビールで口を湿らせる。


 また携帯電話を見る。
 さっき出かけた時は恐くて持っていくことができなかった。帰宅したらしたで着信を確かめた。代わりのない無機質な画面に誰が見ても分かるように落胆した。
 どうしようか、と思う。
 一通り理由を探してみた。ろくなことが思いつかない。この前はよく味噌汁なんてとんでもない理由を通したものだ。
 変に思われなかっただろうか。……いや、きっと思ったに違いない。それでも来てくれた。
 いっそ来てくれなければ良かった。甘い期待が常に胸を取り巻く結果になってしまった。
 声が聞きたいな。
 カミューはしばらく迷って、手を伸ばしかけて……また引っ込めて、ソファに横になったり床に座ってみたり、様々な方法で時間を潰そうと試みた。
 潰したところでどうなる――心の本音は容赦ない。
 明日もまた同じ日々。どうしようもなく寂しい日々。
 一人の時を持て余して、それでも何とか状況が改善されないかとただ何かを待つばかりの空しい日々。
 誰がどうしてくれるっていうんだ。
 分かり切った自問に答えを出すまでもない。カミューはだらりと投げ出した脚の先をぼんやり見つめた。
(こんなふうになるんだな)
 脚をひょいとテーブルに乗せる。置いていた携帯を爪先で突いた。
(人間て、こんなふうになるんだな)
 弄り過ぎて携帯がテーブルの端から落ちそうになった。カミューは咄嗟に身体を起こしてそれを受け取り、とうとう手に取ってしまった黒い機体にため息をつく。
 声が聞きたい、でも恐い。
 どうしたいかは一目瞭然、しかしその望みがかなわなければやってくる反動は酷く大きいのだ。
 躊躇いの時は無限に続くかのようだった。
 ふいに意識が遠くに飛びかけて、セーブをすり抜けた指が携帯を弄り始めた。
 やめろ、と頭の何処かが制止するが、目はぼうっとその光景を追っているだけ。
 聞こえたコール音で我に返る。
 身体をがばっと起こして携帯を握り締める。――かけてしまった。どうしよう、かけてしまった。
 時計に目をやる、午後七時半。普通なら自宅にいる時間。
 恐れと期待が渦を巻く。コールの音は響く。
 ……、……、コールの合間に時計の秒針が聞こえてくる。
 もう20回は鳴らしたのでは? ……頭の声は分かっていたがすぐに反応できなかった。25回もならしたのでは、というところでカミューは静かに電源を切った。
 声も聞けない。――初めて電話に出てくれなかった。
 いや、づいていないのかもしれない――また何処かに携帯を忘れて、出ることができなかったのかもしれない。
「――そんなことはどうだっていい」
 その声が自分のものだと気づくのに時間を要した。
 久しぶりに聞いた、はっきりした自分の声だ。カミューは他人事のようにそんなことを思った。
 出られない理由はどうでもいいのだ。肝心なのは、今“声が聞けない”ということだ。
 声が聞けない。姿も見られない。会いたいのだ、寂しいのだ、会いたいのだ。
「……もう限界だ」
 立ち上がって、カミューは何かを決心したように髪を掻き上げる。
 これが限界。
 もう無駄な時間を過ごしてなんかいられない――

 風呂場に飛び込んでシャワーを浴びた。以前では考えられなかった、首の辺りに残っている髭の剃り残しを綺麗にして、すっかり手入れを忘れていた髪を整えて、ハリのなくなった肌を両手で包んでパンと叩く。
 指の隙間から、鏡に映る自分の瞳を見た。
 もう悩むのはやめだ――。
 止まっていた時間を動かさなくてはならない。黙っていても彼は手に入らない。





あーもううざいうざい。
末期の赤い男は恐いばかりです。
一話ごとの展開だとこんなにも鬱陶しい結果になるのか……。
次から動かします。へたれ開き直り。