WORKING MAN





 ――初めて電話に出なかった。






 テーブルに置いていた携帯電話が音を立てて震えた時、何よりマイクロトフの身体が震えた。
 直感が走ったのだ。この時間。
 こわごわ覗いた着信画面に想像通りの番号を見つけて、咄嗟の迷いだった。深く考えなければいつも通りに携帯を手に取ったかもしれないが、ちらりとでも過ってしまったシグナルは存在感があった。
 そして、電話に出た後の会話の内容を想像すると、どうしても手を伸ばすことができなかったのだ。
 鳴り続けるコールに思わず耳を塞ぎたくなった。何て長い時間だ――マイクロトフがきつく目を瞑ると、そこでようやく電話が大人しくなった。
 マイクロトフは静かに目を開き、消灯した暗い画面に申し訳なく眉を垂らした。
 この罪悪感は何だろう。
 他愛もない電話だったかもしれない。ごく普通の会話を交わすことができたかもしれなかったのだ。
 なのに躊躇ってしまった。
 かけ直してくるかと思ったが、しばらく様子を伺ってもその気配は見られなかった。大した用事ではなかったのか、それとも別の理由があるのか……。マイクロトフはため息を漏らす。
 今まで電話をかけていたのはどちらかと言うと自分のほうだ。それに彼はつきあってくれていた。
 それなのに、今自分は彼からの電話を拒否したのだ――何て身勝手な行動だろう。
 マイクロトフはもう一度目を閉じる。
 彼のあの行為がなければ、こんなことは露程も考えなかったことなのだ。
 離れた場所で、コールを鳴らした彼の伏せた睫毛。

 マイクロトフはそっと携帯を手に取り、着信画面を呼び出した。
 出ることができなかった。
 カミュー。






 ***



「フリック、今日は時間ないか?」
 マイクロトフはなるべくさり気なさを装って、終業だというのに今だデスクに座ったままのフリックに声をかけた。
 何だか真直ぐに帰宅するのが躊躇われて、そのくせ1人では気分が滅入ってしまうという理由で同僚を誘おうと思ったのだ。
 ところがフリックは、申し訳ないというよりは悲観的な表情をマイクロトフに向けた。
「すまん……社員旅行の日程を今日中に決めないとならないんだ。おまけにバスの予約まで押し付けられて……明日朝イチで電話しなきゃ……」
 後半はすでに独り言となっていたフリックに、マイクロトフは憐憫の眼差しを注いだ。どうもこの同僚は面倒なことを押し付けられるのが多い。おまけに断れない。
 マイクロトフは迷ったが、やはり少しアルコールが恋しくなって先に会社を出ることにした。フリックとしてはマイクロトフに残っていてもらいたかったのだろうが、彼の恨み言をのんびり聞ける程マイクロトフにも余裕がなかったのだ。
 1人となると特に行場所も思い付かず、結局姉の店に向かうことにした。
 こんなに連日顔を出しては何か勘ぐられるだろうか。それが気になるところではあったが、1人きりのアパートに戻る時間をなるべく伸ばしたかった。仕事で疲れているということにしておこう……。
 マイクロトフは浮かない顔のまま店の前に辿り着いた。入り口のドアを目指して、視界を掠った強烈な存在感に顎を取られた。
 振り向いた先には鮮やかな赤。
 思わず息をとめた。――派手な車体、眩しいあの色の乗用車は見覚えがある。
(まさかな)
 赤い車なんて珍しくはない……。車に疎いマイクロトフは浮かんだ想像を振り切って店に入ろうとした。
 すると、バン! と後ろから車のドアを閉める音が聞こえて来たのだ。
 反射的に立ち止まり、口唇を舐めてから振り返る。
 そこには……見たことのない男性が車を降りている光景があった。
 今マイクロトフが気を取られた赤い車の隣、白い乗用車からの音だった。妙にほっとして、警戒心を捨てたマイクロトフはようやく店のドアを潜った。
 そして固まった。
 カウンターに実に絵になる男が1人。店のドアが開く音に彼は振り向いて、目を少し大きく開いてにっこりとマイクロトフに笑いかける。
 マイクロトフの心臓がぎゅうと縮んだ。
 夕べ不自然に避けてしまったので、余計にダメージが大きかったのだろう。マイクロトフはその場で動けなくなってしまった。
 それを不思議に思ったのか、マイクロトフを姿を捕らえた男が立ち上がって近付いてくる。
 マイクロトフの目の前で、彼は極上の笑顔を見せた。
「やあ、マイクロトフ」
「……カミュー」
 入り口で向かい合う奇妙な構図に、カミューがマイクロトフを促した。これは誘いであり、断ることはあからさまな拒絶を意味すると言うことがマイクロトフにも分かった。
 マイクロトフは仕方なく先程カミューが腰を下ろしていたカウンターの隣の席についた。カミューはにこにこと穏やかな笑みのまま、何気なく視線をマイクロトフに向けている。
「奇遇だね」
「あ、ああ」
「昨日何してた?」
 ストレートな問いかけにマイクロトフの身体が震える。
「……す、すまん、寝てた」
「そうか、ごめんね」
「いや、俺こそ」
 どう考えても嘘だと見破られそうだったが、カミューは表情を崩さない。気味が悪い程の笑顔のままで、一方のマイクロトフと言えばかちこちに固まってしまっている。
 いろいろと思い出してしまう。……あの夜以来なのだ。こうして話をするのは。
「今日は一人?」
「あ、ああ」
「私も一人なんだ」
「そ、そうか」
「何か飲まないの?」
「あ、えっと……」
 カミューペースで会話をつなぎ、このままではいかんとマイクロトフはアルコールに頼ることにした。ただでさえ会話は得意ではないのに、こんなハンデがあってはカミューに不審に思われるばかりだろう。
 そうしてしばらくはいつもより強めのものを頼んでいたが、隣のカミューのグラスの中身がアルコールではないことに気づいた。
 しげしげと見つめてしまったのだろう。カミューが気づいたらしく、グラスを手に取って「車だからね」とウィンクをしてみせた。
 ああ、やはりあの車は彼のものだったのだ――マイクロトフは自分の役立たなかった直感に肩を落とす。
(何だこれは……まるで、カミューに会いたくないような……)
 この前の出来事が引っ掛かっているせいか、それとも他に原因があるのか。
 少なくとも、あの夜までは会話に動揺するなんてことなかったはずだ。隣にいるだけで緊張すると言うことはなかったはずだ。
(気まずい)
 沈黙はカミューが消してくれるが、マイクロトフの返事など有って無いようなもの。
 この状態をどうやって脱出するか、それもマイクロトフにとっては問題だったのだが、何よりも……決して崩れないカミューの笑顔が気になって仕方が無かった。
 こんなふうに笑いかける男だっただろうか。
 どうしてこんなに穏やかに笑ってみせるのだろう。

 奇妙な夜に耐えることとなった。





カミューさんの行動が始まりました……。
というかこんなシチュエーション予定して無かったよ……
この話はいつ終わるのか……