WORKING MAN





 鮮やかな笑顔以外は、カミューはいつもの通りだった。
 饒舌すぎず、言葉少なでもなく、カミューのマンションで他愛も無い話をした時と同じ――最初こそ違和感に緊張していたマイクロトフも、時間が経つにつれ考えていたことがどうでもよくなってきた。
 ひょっとしたらこの前の出来事も夢だったのでは無いか? ほんのり酔った頭にはそんなことまで浮かんでしまう。
 だってカミューはいつも通りだ。
 気にしているのは自分ばかりだ。



 そうしていい気分になってきた頃、不粋な目が腕の時計を捕らえてしまった。すでに10時を回っていたその時間にマイクロトフはあ、と声を出す。
「帰らないと」
「ああ、もうそんな時間かい?」
 カミューも携帯電話を取り出して時刻を確認した。その物体にマイクロトフは思わずどきりとする。
 ふわふわしていた世界から現実に腕を掴まれたような気がして、マイクロトフの楽しい気分が小さくなってしまった。
 夕べは故意に電話に出なかったのだ。おまけに嘘までついてしまって。
 そんなマイクロトフをよそに、隣のカミューも帰り支度を始めた。酒のせいか気分の高低が激しい……マイクロトフはカミューの様子を伺いながら、離れた位置にいる姉に帰るからと合図を送った。
 結局一度も酒を口にしなかったカミューは、涼しい顔でマイクロトフを振り返った。
「マイクロトフ、送るよ。」
「え」
 予想していなかった言葉にマイクロトフが真顔になった。
 カミューは笑顔を崩さない。何と答えたものか、マイクロトフはしばし黙った。困ったように眉間に皺を寄せて黙った。
「お酒飲んで無いから大丈夫だよ」
「でも……こんな時間だし」
「こんな時間だから送るって言ってるんじゃないか」
 カミューがにっこり微笑んだ。
 マイクロトフはカミューから電話が来た時と同じような、不思議な直感を感じた。――それが何を意味するのかは分からないのだが。
「ね」
 カミューは確認するように首を傾げて、マイクロトフも困った顔のままつられて首を傾げた。
 今までこんなふうに誘われた記憶がない――マイクロトフは、自分が困っている理由はきっとそれなのだと思い付いた。
 追い出されるように帰れと言われたことはあっても、遅いから送るなんて間違っても言いそうになかった。そのカミューが笑顔を絶やさず、ごく自然にこんなことを言うから不自然なのだ。
「一人でも帰れるぞ……?」
「二人でも帰れるだろう? 一人でも二人でも車なら違いがないんだから」
 食い下がるカミューに、マイクロトフはとうとう降参した。
 元々断る理由はないのだが、どうもしっくりこない。とりあえず助手席に案内され、不安定な居心地を感じながらこっそり車内を見渡した。酔いはかなり抜けていた。
 カミューはマイクロトフがシートベルトを締めたのを確認して、アクセルを踏み込んだ。


「二度目だね」
「え?」
 特に際立った会話もなく、マイクロトフが大まかな道筋を案内する程度にしか言葉を交わしていなかった車内で、カミューがふいに口を開いた。
 マイクロトフがカミューを見ると、彼は前方を向いたまま赤信号を見ているようだった。車はエンジンで微かに揺れながら停止していた。
「な、何がだ?」
 聞き返すと、少しだけカミューはマイクロトフのほうに首を動かした。
「お前を乗せるの」
「そ、そうだったか?」
 この車に乗った覚えは、と言いかけて、マイクロトフはカミューと出会った日のことを思い出した。
「記憶はないだろうけど」
 カミューが小さく笑う。
「……確かに覚えてはいない」
 マイクロトフはむすっと口唇を突き出した。
 頭をしこたま打ち付けて、目が覚めたらカミューの部屋だったのだ。乗り心地なんて思い出せるものか。
「今思えば、あの時路上放置しなくて良かったよ。でないと今こうして話をすることもなかったもんな。」
 悪い方向で以前の出来事をぶり返されるのかと身構えていたマイクロトフは、カミューの言葉に拍子抜けした。
「そ、そうか?」
 おかしな相槌を返しながら、マイクロトフは少し恥ずかしくなって来た。
 やはり今日のカミューは変だ。普段のカミューならこんなことは言わない……
 そこまで考えてマイクロトフははっとした。――普段のカミューなんて知らないのだ。
 マイクロトフが知っているカミューの姿は、短い期間に知り得たほんの一部分のみなのだ。
「お前、前に私に礼を言ったよな。」
「え? あ、ああ。」
「あの時は何ておかしなことを言う奴だと思ったんだ、正直。でも今は何となく気持ちが分かる」
「……?」
 信号が青に変わる。車がまた走り始めた。
 カミューの言ったことがよく分からないまま、マイクロトフは次に続く会話のきっかけを失う。どうしたものか迷っていると、カミューが運転しながら尋ねてきた。
「この後はどっち?」
「あ……、あの交差点で左……だ」
「了解」
 マイクロトフは悶々と考えつつ、流れる景色に視線を逸らした。
 ――俺も少しおかしい……。
 落ち着かないような、シートに凭れた背中が落ち着くような。居心地が良いような悪いような。
 カミューがどんどん変わっていき、自分もどんどん変わっているのではないだろうか……。カミューと出会ってからまたそれ程時間が経っていない事実にマイクロトフは目眩を覚えた。
 明日のことだって分かるものか……



 ***



「ここでいい」
 マイクロトフがふいに言った場所は、確かに車をとめるには丁度良い角だった。
「アパートの前まで送るよ」
「いや、歩いて数分もかからないから。あそこは狭いから、この車じゃUターンしにくい」
「でも」
「いいんだ、どうも有難う。降ろしてくれ」
 そこまで言われると降ろさない訳にはいかない。却って不自然になってしまう。カミューは仕方なく車を止め、ドアロックを外した。
「今日は楽しかったよ」
 まるでデートの後のような台詞だが、カミューは構わずに告げた。案の定マイクロトフは少々複雑な顔をしたが、「俺もだ」と返してくれた。その一言でカミューは何か救われた気がした。
「じゃあ、また」
 ドアを閉めたマイクロトフを追うようにウィンドウを開け、カミューは身を乗り出す。
「マイクロトフ、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
 マイクロトフが背を向けて歩き出す。そのまま一度も振り返らず、角を曲がるまでカミューはその背中を見送った。
 完全にマイクロトフが見えなくなってから、カミューはハンドルに凭れて脱力した。
 ……想像以上に辛かった。自分で誘っておいて何だが、密室は思ったよりずっと危険だ……。平静を保っているように見せかけるのでやっとだった。
「でも、誘ったかいがあった」
 ぽつりと呟く。――ここから歩いて数分、きっとあの角を曲がって見えるくらいの位置にマイクロトフは住んでいる。
 彼の家すらも知らなかったカミューが取った方法は少々回りくどかったが、それでもおおよその場所は把握することができた。
(そのためにあそこで張ってたんだからな)
 電話が通用しないとなると、マイクロトフとの接点はあの店しかない。マイクロトフが現れるまで何日でもねばるつもりだったが、まさかあっさりやってきてくれるとは。
 自分を見て動揺しているように見えたのは、ひょっとしたらあの時の電話は分かっていて出なかったからかもしれない。そうなるとこれは予測だが、……
(マイクロトフはあの時起きていたのでは……?)
 だとしたら警戒されていてもおかしくはない。いつ追求されるかとびくびくしながら話を振ってみたが、特に問いつめようという気はないようだ。安心したような、そうでないような……。
 もしあの日のことを聞かれたら、理性を持って話ができるだろうか? ……自信がない……。
(でも、いいや)
 今日はもういい。
 話ができた。
 最後に「また」と言ってくれた。
 今夜は眠れ無さそうだ。






文中の台詞は「この先どんな急展開になろうとも
気にするな」とい都合の良い前振りに聞こえます……(笑)