WORKING MAN





 久しぶりに着て行くスーツの色に悩んだ。
 食事の時間よりも髪の角度に気を使い、鏡の前で念入りにチェック。クマの取れた目元の張りを指で確かめて、緩めた顔の筋肉で笑顔を造って再度チェック。
「よし……完璧だ」
 カミューは低く呟いて、まずは外見を戦闘体勢に送り込む。
 もう誰にもボロを見せるものか。




 ***

「おはようございまーす」
「おはよう」
 女子社員に惜しみない笑顔を与えて、カミューは颯爽と職場に現れた。
 ここしばらくぱっとしなかったカミューの変貌、いや復活の姿に女性達ばかりでなく男性達も思わずカミューを目で追った。
 心ここにあらずといった調子の抜け殻が元に戻ったのだ。
 これは何か揉め事でも解決したのだろう、彼があんなになってしまったのだから余程のことがあったに違いない……と、午前中のオフィスに密やかに噂が走った。
(ところがどっこい)
 解決どころか深みにはまったんだ、と、自らの噂を耳にしてカミューは自嘲気味に口唇を歪めてみせた。
 深みにはまることは自分で決めた。だからこれ以上情けない姿を晒してたまるか――
 カミューなりの苦肉の策だった。外面を偽ると言う防御壁を再び造り出したのだ。
 だって彼はどんな自分に一番好意を持ってくれているか分からない。



(問題は山ほどある)
 指先は定められた値をパソコンのキーボードに弾き出し、頭では全く関係のない思考を巡らせ、カミューは先ほどから顔には出さずに奇妙な両立を続けていた。
 どうも彼の前に出ると調子が狂う。それというのも自分の力を過信していたからだ……。カミューの眉間に微かに皺が寄る。
 女性相手に苦労してきたことはないとはいえ、男に対して同じようにうまくいくとは限らない。全くの未知数を目の前にして、この先どうやって前進するべきか。
「おい」
 考えの切れ目に低い声が振ってきて、カミューは顔を上げる。
 無表情のグレンシールが立っていた。この様子からして、呼んでいたのは一度や二度ではなさそうだ。
「社内回覧だ。何度呼ばせたら気が済む」
「ああごめん、後で読んどくからそこ置いておいてくれよ」
「まだ腑抜けが直っていないのか? 外面だけは多少気にするようになったみたいだがな」
 グレンシールの口唇の端がくっと持ち上がる。
 最近やけに突っかかってくるな。――カミューは一転機嫌の良くなったグレンシールに腹立たしく思いながらも、形だけはにこやかに笑顔を造ってみせる。
「そういうグレンシールはどうなったんだい?」
「何が?」
 聞き返す割に、グレンシールは更に返ってくる質問が分かっているようだった。カミューも仕方なく乗せられてやる。
「告白の相手」
「聞くまでもないだろう。俺がヘマをやると思うか」
 自信たっぷりのグレンシールにカミューは呆れ顔を隠し切れなかったが、彼はそんなことはどうでもいいようだった。
「当然お前のどうしようもない助言など役に立たなかったがな。元々お前なんかに聞いた俺が間違っていた」
「……そうかい」
 やはり人は変わるのだ。グレンシールは聞かれもしないことをこんなふうにべらべら喋る男ではなかった。
 本命を落とせて余程嬉しかったのだろう……。何とも情けない姿だが、今のカミューにはグレンシールの変貌が良く理解できる。
 人間なんて、男なんて結局単純な生き物なのだ。どんなに人格を造り上げても、一発中枢を突かれたらそれで終わり……今の自分のザマはどうだ。
 まだ何かを自慢げに話しているグレンシールを放っておいて、カミューは気を紛らわすために再び指を動かし始めた。
 グレンシールの変化を受け入れられても、勝利者の余裕は直視できない。



 夜になるとやはりずっとずっと気持ちが不安定になって、昨日の今日で凝りもせずあの店に向かう。
 2時間程ぼんやりカウンタの一角を陣取っていたカミューは、頼り無い理性でタイムリミットを受け入れることにした。
 さすがに来るはずがない。昨日彼を送ったばかりだが、もう遠い昔のことのように感じる。
(全く病気だ)
 自他共に認める病気だ。
 おかしな反応をされるのが恐い癖に、今もこうして携帯電話を手に取って――
「――……」
 静かな自室、半ば諦めているのか、カミューの手の中の携帯電話は耳にも当てられずに床に近い位置でコール音を鳴らしていた。
 10回程聞こえただろうか、切るのも忍びなくそのままもう1ラウンドするかと思われた時。
 コールが途絶えた。
 力の抜けていた全身に電流が走る。

 カミューはだらりと垂らしていた腕を振り上げ、携帯電話を耳に当てた。
「も、もしも、し」
『……もしもし?』
 彼の声に心臓が跳ねる。出てくれた。
 カミューは何か言おうと口唇を動かすが、突然のことに言葉が出て来ない。このままでは不審に思われてしまう……カミューは何でもいいから会話を成り立たせようとした。
「や、やあ。元気?」
『ああ……。元気だ』
「その、……昨日、ちゃんと帰れたかなって……」
『あそこからすぐ近くだから大丈夫だ。5分もかからなかったぞ』
「そう……」
 苦しい相槌を打ちかけて、カミューははっと耳を澄ませる。
 マイクロトフの携帯から僅かに街の騒音が聞こえてくる……。その中に混じった声……
(……女……?)
 通り過ぎる雑踏の一部にしては声が近い。マイクロトフのすぐ側で誰か女が喋っている。
 気のせいだろうか、と自分に言い聞かせようとした時、電話の向こうからはっきりとした女性の笑い声が響いてきた。
「――」
 カミューは呆然と携帯を見つめた。
 ……切ってしまった。
 何だこれは。いくら咄嗟の反応だってやりすぎだ。かけたのは自分からなんだぞ――
 カミューは項垂れて、すぐに身体を起こして立ち上がり、またその場に座り込んだ。
 心臓が身体の内側を叩いている。
 それを感じ取る前に、カミューは車のキーを掴んでマンションを飛び出していた。





かなり苦しいか……。