WORKING MAN





「ふう…何とか間に合いそうだな…」
 地下へと続く階段を足早に駆け降りながら、マイクロトフは時計を見て安堵のため息をつく。
 途中まで地下鉄で、三つ目の駅で乗り換えれば大丈夫だろう。
 遅刻はしないで済みそうだ。
 地下鉄の切符を買うために財布を探って、無意識にあるはずの定期も手に取ろうと---
「しまった…」
 忘れてきた。
 というか、取られたままだ。
 あの時注意が逸れて、そのまま出てきてしまった。
 思わず階段を振り返る。-----無理だ、取りに戻ったら時間がない。
「馬鹿だな俺は…」
 ぐしゃっと短く切り揃えられた前髪を掴んだ。
 確かあと数日で定期の期限は切れるはず。それはいい。
 問題は中の写真…
「…見ただろうか…」
 あいつ、どうも人をおちょくったような言動をしていたからな。
 ひょっとしたらもう見られているかもしれない。
 …まあ、あの男には関係がないし必要のないものだから、このままにしていたら捨てられてしまうかもしれないな。
(…そのほうがいいのだろうか)
 未練がましく引きずるよりは。
 こうやってどうしようもなく断ち切られてしまったほうが。
 マイクロトフの脇を数人が走り抜けて行く。地下鉄独特の音が聴こえてきた。
 もう一度時計を確認して、余計なことを振り切るようにマイクロトフも走り始めた。




「お、今日はギリギリだったな。夕べのミスが響いたか?」
 オフィスに到着してすぐに、同僚のフリックがからかうように話しかけてきた。
「嫌なことを思い出させないでくれ。昨日は運が悪かったんだ」
 間に合ったとは言ってもまさに滑り込みの時間。
 電車を降りてずっと走ってきたため、マイクロトフは肩で息をしながら答えた。
「ま、いいけどな。…何だお前、遅刻の原因はそれか。成る程な」
 意味深ににやっと笑ったフリックが踵を返して自分の持ち場に戻ろうとするのを、つい引き止める。
「…成る程とは、どういう意味だ」
「何だよ、わざわざ詮索されたいのか? あんまり惚気は聞きたかないぞ、俺は」
「惚気? 何の話だ」
 フリックはひょいっと自分の身体を指差した。
「昨日と同じスーツ」
「あっ」
「しかも皺になって」
「こ、これは…」
 慌てて言い訳を考えるがうまい言葉が見つからない。
 見知らぬ男の部屋で一晩過ごしたなんて、どうやったら信じてもらえるのか。
 何をこんなにどぎまぎしているのだ。
「いいからいいから。誰も責めやしないぜ、間に合ってるんだから」
「ち、違うのだ…」
「別にいいだろ? ま、それより午後の会議の書類、今日はちゃんと揃えておかないと昨日みたいに一日中説教だぞ。それから取り引き先にも謝りの電話入れとけよ。」
 弁解を諦めて、仕方なく頷いた。
 本当に違うことを否定する時、それが色恋に絡むとどうしてこんなに空しくなるのだろう。
 まさに昨日終わってしまったばっかりなのだ。
「…いかんな、こんな調子では。」
 昨日のミスを取りかえすためにも、今日はしっかり働かねば。
 嫌なことを忘れるのにも丁度いいだろう。
「さて…」
 デスクに書類を広げ、鞄をまた無意識に探って-----
「はっ!」
 ない!
 携帯がないっ!
 そんなはずは、ともう一度鞄の隅々までひっくり返して調べる。が、でてきたのはハンカチやら使いさしのポケットティッシュやら。
「まさか…」
 携帯まで、置いてきたのか…?
 そう言えば、朝あの部屋で携帯を使った。それから…
 それから、どうしたっけ…? 確か、あの男が起きてきて、それで電話を切って…そのまま…
「…置いてきた…」
 意識はなかったが、そう言えばテーブルに置いた感触を覚えている。
 そのままにしてしまったのだ。
「最悪だ…」
 定期は諦めがつくが、携帯は別だ。
 今さら番号を変えるなんてそんな不便なことできるわけがない。
 大体いつどんな用件で電話がかかってくるか判らないというのに…
 …取りに行こうか。
 でもあいつも仕事だろう。身なりは普通のサラリーマンだったし。
 夜にいきなり押し掛けて、また思いきり不機嫌な顔をされるのではないだろうか。
「あ」
 そうだ、電話。
 電話すればいいのだ、自分の携帯に。
 出るかどうかは判らないが、とりあえずやってみよう。
 あいつが持ち歩くとは思えないが、一応昼休みになったら…





『もしもし』
 コール10回を過ぎて半ば諦めかけた頃、聞き覚えのある声が応えた。
「も、もしもし?」
 間違い無い、あの男だ。
 持って出かけてくれたのか。
『…君かい、マイクロトフ君』
「な、何故俺の名前をっ…」
『定期まで置いていってくれたからね。正直うんざりしてるよ』
「て、定期…」
 声が小さくなる。
 定期の中には、あの写真が…
『御心配なく、あれ以上触っちゃいないから。私が人のものを勝手に覗くような男に見えたかい?』
「ほ、本当かっ? すまないっ!」
 思わず謝ってしまうと、受話器の向こうから複雑なため息が聴こえた。
『ま、まあ、それは置いといて、どうするんだい、これ? 定期はともかく、これがないと困るんだろう?』
「そうなのだ…。すまないが、取りに行っても構わないだろうか。」
『ちょっと待って。そう何度も男を部屋に招きたくないよ。仕事何時に終わる? 何処かで待ち合わせよう。定期も持っていくから』
「そうしてくれるのは有り難いが…迷惑ではないのか?」
『思いっきり迷惑だけど、仕方ないだろ? 私だって人のものをいつまでも持ち歩きたく無いし。その代わりこれっきりだからな、絶対に。』
「ああ、すまない。俺は7時には会社を出られると思うが…」
『そう、じゃあ…デスクのパソコンのアドレス教えてくれる? 待ち合わせ場所送っとくよ。口でいうより分かりやすいだろう?』
「あ、ああ、ちょっと待ってくれ…いいか? ええと…」

 電話を切って、ふうっとため息をつく。
 彼が持ち歩いてくれていて助かった。これで今晩には戻ってくるだろう。
 …定期も一緒に。
 少し複雑だが、やはり運に任せるのはよくないということだろう。
 自分の手で始末せねば。
 昼休みも残り10分を切った頃、メール受信のサインが点灯した。
「これか…」
 開いてみると、簡潔にこう書かれていた。
 ○丁目×通り △△ビルの1階「Le destin」 カミュー
「…○丁目…」
 丁度北区と中央区の中間地点だ。気を使ってくれたのだろうか。
「カミュー、か…」
 そういえば一晩一緒にいたというのに名前さえも知らなかった。
 今さら「名前は何だ」と聞くのもおかしな感じがしていたので、こういう形で判ったのは丁度良いかもしれない。
 向こうはとうに自分の名前を知っていたのだし。
「…しかしこれきりだろうな。」
 自分はともかくあっちはもう2度と会いたくないような口振りだった。
 まあ、無理もないか。一晩押し掛けて宿を借りて、おまけに厄介な忘れ物まで…
 ん?
 元はといえば何が原因だったんだ?





今度はマイクがカミューさんの名前を知りました。
それにしてもカミューさんは嘘つきでもあったようです。
2人が再会する店の名前…
あまりにベタなので訳は伏せておきましょう…(笑)