そういえばカミューに対して声を荒気たのは久しぶり。 マイクロトフはそんなことを考えた。 初めて会った時は怒鳴りあったりしたものだ。友達になってもらいたいと思った頃から、どうしてかできなくなっていた。ということは、今はかなり遠慮がなくなってきているのだろうか。 腕を掴んだのなんて初めてだ。 マイクロトフは眉に皺を集めて考えた。 以前の自分なら出来なかっただろうし、以前のカミューならすっかり頭にきてしまっていただろう。 気づかないうちに、関係が変わってきているのだ。 電話はきっと来る。 *** 朝起きて、顔を洗って、髭を剃って、スーツを着て。 ため息の出社は会社の前まで。一度自動ドアを潜ったら、完璧な男であると決意したばかりなのだから。 培ってきた冷静さを取り戻し、狂ったバランスを元に戻すリハビリ期間をスタートし始めたばかりだ。まさか、電話から漏れ聞こえた声くらいで頭に血が昇るなんて思っても見なかった。 かなりの重症で、もう治療の手立てはない。だからこそ気をつけなければならなかったのに。 どんなに悩み苦しんでも次の日の朝はやってきて、こうして会社に来なければならないのだ。もっと、もっと気をつけて行動しなければ。 (くだらないことで失敗したくないだろう?) 小さな深呼吸ひとつ、カミューは笑顔を表情に貼りつけた。 そもそも自分が悪かったのだ。 あれしきで興奮するようでは、この先絶対にうまくいきっこない。落ち着いて、さりげなく彼の周りの状況を尋ねてみるとかいくらでも手はあったというのに。 おまけに我を忘れて自宅をつきとめてしまうなんて、呆れられても仕方がない。実際一件一件彼の部屋らしいアパートを探して歩いたのだから嘘はついていなかったが、以前に彼の跡をつけたと思われたかもしれない。 その上腕を掴まれて赤面するなんて、もう最悪だ……。 自分でもあんなに反応するとは思わなかった。小学生以下だ。あれくらいで真っ赤になって、言葉も出なくなって、部屋に戻ってきてもしばらく呼吸が落ち着かなくて。 『また電話する!』 咄嗟に言ってしまったが、……こんな状態でできるのだろうか。 部屋に入れと言われただけで鼓動がおかしくなると言うのに。 (入らなくて良かった) とてもじゃないが冷静でなんていられない。 みっともなく爆発して嫌われるのがオチなのだ。 すっかり後戻りできなくなってしまった。後ろを振り向いてこのまま戻れたらと思うが、それ以上に物凄い力で彼が引っ張って行くのだ。見たことのない世界へ。 男から見ても女から見ても惚れてしまうような完璧な男。 ……そんなふうになれたら、このまま突き進んでもいいかもしれないと思っていたのに。 (とても追い付かない) 完璧どころか、どんどんどんどん調子が狂っていく…… 「星に願いを……か」 星の見えない空に向かって、カミューはぼんやりとぼとぼ足を動かしていた。 誰もいない部屋に帰るのは嫌だ。でも直接会うとおかしくなる。 逢いたいし、逢いたくない。 このままネオンに揺られてしまおうか。 (そんな気分にもなれないし) こういう時に限って仕事は順調で、今も定時の御帰宅。遠回しに商店街を歩いては見たが、どの店もまだ閉店の気配を見せずに明るく空しくざわめいている。 ふと、至る所で笹が飾られていることに気がついた。カミューがそうと意識して見回した視界の中に、ここにもあそこにも笹が色とりどりの短冊を吊るして揺れている。 今日は七夕か。7の並ぶ日付けを思い出して、カミューは再びぼやけた視界で揺れる短冊を見つめた。 「お書きになりませんか」 ふいに声をかけられても、自分に対してだとは思わなかった。 カミューはしばらく反応できず、困ったように笑う女性の姿に気づいたのはそれから少し経った後。 「……え?」 とりあえず聞き返すと、彼女は大きな笹の下に設けられた一角を指差した。 「お願いごとを短冊にお書きになりませんか? 本日までとなっております」 笹の下には長机、そこに数人の大人と子供が混じって何か手を動かしている。 どうやらデパートの催し物らしい。 熱心に笹を見ていたものと勘違いされたのだろうか。カミューは恥ずかしくなって断わろうとしたが、自分に声をかけた勇気ある女性に恥をかかせるのも気の毒だと思い直した。 まだ完璧な男になる道を諦めた訳ではない。カミューはにっこり微笑んで、「では」と笹の下へ足を運ぶ。 長机の前で渡された短冊と備え付けのサインペンを取ったが、あまりにこの場に不似合いな自分に、やはり断われば良かっただろうかとカミューは少し後悔した。 仕事帰りらしいOL二人組がこちらをちらちらと見ている。斜横で切れかかったサインペンに息を吐きかけている中年の男性はいやにくたびれているし、カミューはさっさとここを後にしようとペンのキャップを抜いた。 さて何を書こうか? 「……」 昔から願いごとなんてしたことがなかった。……しなくても叶うものがおおかったから。 いいや、願いごとなんてしたくてもできなかったんだ。いつのまにか何かを期待することをやめてしまっていたのだから。 何を書こうか? 何を望もうか? この手はどのように動くだろうか? 「……、……」 カミューは静かに線を引き、ペンは紙と擦れてほんの少し耳障りな音を立て、そうして紫色の短冊に黒い文字が埋められて言った。 人に見られないように、誰にも見せないように。さりげなく手で覆いながら、カミューは書き上がった短冊を自ら笹に吊るす。 少しでも高いところに飾ろうと、軽く背伸びをした。ギリギリ届いた笹の先に括りつけた短冊、これなら人に見られる心配はない。 そこまでの一連の動作を終えると急に恥ずかしさが戻ってきて、そのままそそくさと笹から離れた。デパートから離れて、商店街から離れて、人の気配から離れて自分の部屋へ。 誰もいないこの場所で、退屈さを感じないのは心の中にもう一人いるから。 そのために一喜一憂したりなんて、今までありえないことだった。 こんなふうになってしまった自分をどうにかできるのは、もう彼しかいないのだ。 今夜は少し興奮しすぎた。少し落ち着くまで軽くビールを開けて、そうして眠ることにしよう。 電話はまた明日に。 部屋に入れと勧められただけで、腕を取られただけで、あんなに動揺しては何も伝えられない。 だからまずは勇気を下さい。 それから、……彼を下さい。 |
なんちゅうこじつけ……(笑)
この話まるごと本にする時削られる可能性大……(笑)