WORKING MAN





「もっと早く聞けば……よかった、だって……?」
 一旦顎を下げて額より下に影を落とし、カミューがゆらりと立ち上がった。
 血の底から響くような声にマイクロトフは思わず後退る。
「何が良かったんだ……?」
 ぎょろりと眼球のみマイクロトフに視点を合わせたカミューの薄暗い迫力は、勇んでこの部屋にやってきたマイクロトフを狼狽えさせるに充分だった。じりじり近付いてくるカミューの足取りに合わせて後退し、待て、とでも言うように右手のひらをカミューへ向ける。
「き、嫌われてるよりは良かったと思ったんだ」
「嫌われてるよりは……? お前、これがどういう意味か分かってるのか……?」
 カミューは低い声のままくっと笑うように口唇を歪めた。
 ――好きなのか?
 ――なんだ、そうなのか。
 ――なんだ。
 なんだ。
 なんだ。
「何が『なんだ』だ……!」
 ふいに立ち止まったカミューは両の拳を握り、それをぶるぶると震わせながら顔を上げた。
 その目は怒りのためか血走って、普段の生活から現れたらしい充血しが白目がまたマイクロトフを焦らせた。
「ふざけるな! 私がどれだけ悩んで悩んで悩んだと思ってるんだ、この大ぼけが! どうやったらそんな言葉が出てくるんだ!? 何が『もっと早く聞けば良かった』だ、ひ、人を馬鹿にして……」
「ま、待て、馬鹿になんてしていないぞ! ひょっとしたらそうではないかと、お、俺だって物凄く悩んだんだ……!」
「悩んだ……?」
 カミューの片眉が上がる。
「そ、そうだ」
「何でお前が悩むんだ」
「悩むだろう! お、お前が、寝てる間に……き、キスなどしたりするから……」
「……」
 カミューは口唇を噛み、眉間に縦皺をいくつも寄せて険しい表情になった。カミューの反応を伺っているマイクロトフに自嘲気味な笑みを投げかけると、
「そうか……起きてたのか……」
 くっくっと引きつった笑い声を言葉の間に散らしながら、止まっていた足を再び動かし始めた。嫌な雰囲気で縮まる距離にマイクロトフは再度後退りする。カミューはじわりじわりと近付いてくる。
「それで、ひょっとしたら、ね……。私のこの苦しい時間は何だったんだろうね……。あのあと妙によそよそしくされたのも、やっぱりそういう訳だったのか……」
「か……カミュー」
「悩んだ、だって……?」
 ふとマイクロトフは背後に壁が迫っている気配を感じた。咄嗟に後ろを確認しようと首をカミューから逸らした瞬間、胸倉がぐいっと持ち上げられて息がとまりそうになった――目の前に怒れる男の姿があった。
「いいか……! 悩むっていうのはな、こんなしょうもないボケでドジで鈍感で無神経な男のことが頭から離れなくて、何もする気力はないし何も手につかないし、忘れるために考えないようにしても毎晩夢にまで出て来て一時だって休ませてくれない、そんな狂いそうな毎日を過ごすようなことで、何より許し難いのは憎たらしくてたまらなかったお前の事がこんな、どうしようもなく情けないくらい気になって気になって逢いたくて仕方がないということを認めなきゃならないことだ! 分かったような口を聞いて、お前に私の苦しみが分かるっていうのか!? こんな男のことを1分1秒だって忘れることができないんだぞ、お前にこれが分かるのか!!」
 マイクロトフはあまりの展開に言葉を返すこともできず、呆然と口をぱくぱくさせていた。
 カミューがあまりに早口で今の台詞を吐いたので、正直なところ半分くらいしか理解できなかったのだ。
「普段の生活だけならまだいい、忙しさにまぎれて多少は考えないようにすることもできる。だが夢にまで出てくるとはどういうことだ! 人の安眠を妨害しやがって、私が何日まともに寝てないと思ってるんだ!」
「そ、そんなことを言われても」
「お前に責任がないとは言わせないぞ! 大体お前がちょろちょろと何度も私の目の前に現れるからこんなことになったんだ、何で定期や携帯をいちいち忘れていくんだ! わざとやってたんじゃないのか!」
「ば、馬鹿なことを言うな!何で俺がそんなことわざとしないとならんのだ!」
「不自然すぎるだろうが! 一度だけなら、私だってこんなふうになったりしなかったはずだ! こんな、生活までめちゃめちゃになって、気は狂いそうで、頭も身体も疲れ切って……」
「……カミュー」
 カミューの手が力なくマイクロトフのシャツを離す。引っ張られて少し伸びてしまった胸元を正しながら、マイクロトフは困ったように眉を下げた。
「……大体、勘付いてたなら何でのこのこやってきたんだ。私が何かするとは思わなかったのか」
「……そんなふうには思っていなかったし……、それに、正直なところ……分からんのだ」
「分からん?」
「ああ……」
 マイクロトフは気まずそう視線をきょろきょろ移動させながら、ぽつぽつと言い訳を始めた。
 カミューの様子がおかしいことには気づいていたし、そのことで自分も悩んだ。
 だが、もし本当にそうだったら、ということを考えると、……分からなくなってしまうのだと。
「どういう意味だ。何が分からないって?」
「その……、俺は、一体どういうふうにこのことを受け止めているのか……、が、分からんと」
 カミューの目がまた不機嫌そうに据わる。釣り上げた口唇の端が自らだけでなくマイクロトフも嘲るように揺れ、マイクロトフは反射的に顎を下げて警戒の体勢を取った。
「……じゃあ、教えてやるよ。お前は私に同情してるんだ。すっかりおかしくなった私にな。それで、持ち前の正義感とやら私を正しに来たんだろう……“話し合い”をしにな」
「同情だと?」
「他に何があるって言うんだ? 現にお前は怯えて後退りしてるじゃないか、そうだよな、私が何をするか分からないもんな。頭のおかしい男にどうこうされるなんて、考えただけでも潔癖なお前は目眩がするだろ? 少し前までは私もそうだったよ、でも今はもうめちゃくちゃだ――女にだってやったことのないことをお前にしたい、こうしてはっきり口に出したらますます再確認させられる……!」
「正義感だとか潔癖だとか、どうしてそういう言い方しかできないんだ。俺はそんなふうに思ってここに来た訳じゃないし、分からないといったのは……本当で……」
 子供が拗ねるように口唇を少しだけ尖らせ、マイクロトフは床を睨みながら次の言葉を必死で紡いだ。
 目の前のカミューはすでにある地点を越えてしまったようで、言葉も態度も遠慮を知らなくなっている。そんな男と相手にして、自分の心の事を話すと言うのは非常に気恥ずかしく困難な作業だった。
「その……お前と友達に慣れて俺は本当に喜んだし、嫌われてると思っていた時は悲しかった……。今も、お前が俺を嫌いじゃないということが分かっただけで、俺は本当に嬉しくて……」
「……マイクロトフ、今までの私の言葉の“意味”を分かっているのか……?」
「分かってる! 分かったけど、……でも、不思議なくらい嫌な気がしないんだ。今までこんなことはなかったからかもしれないが、お前がそう思ってくれてるのは単純に嬉しくて、それは何故かと考えると分からなくて、しかし……」
「……、あまり苛々させるな、マイクロトフ。つまりは何を言いたいんだ。いいか、私はもう限界を越えてるんだぞ」
「……お前にキスされた時嫌じゃなかった。だから困ってるんだ」
 カミューの目が縫い付けられたように動きを止めた。
 マイクロトフと言えば本当に困った顔をして、カミューの反応を確かめるように上目遣いで様子を見ている。
 カミューは一度口を開きかけ、すぐに噤んで俯き、やや肩が震えているのをマイクロトフが気づいた途端にカミューはその場にしゃがみこんでしまった。
 マイクロトフも慌ててカミューに合わせてしゃがみ、彼と目線を同じくしようとした。
 少し覗き込むような体勢を取った時、ふいにカミューの両腕がぐっとマイクロトフの肩を掴んで握り絞める。咄嗟の痛みに声こそ上げなかったが、マイクロトフは顔を顰めた。
「……どうして、そんなこと言うんだ……。」
「カミュー……」
「本当にこれで終わりにしようと思ってたのに。この電話で終わるはずだったんだ。お前は本当に無神経だ。本当に酷い奴だ……」
「カミュー、俺は」
「確かめさせて」
「え?」





 確かめさせて、とカミューはもう一度繰り返した。
 何を、を聞き返そうとしたマイクロトフの目に、開き直りとも取れるような真直ぐな視線、純粋な欲を従えたカミューの強い意志が飛び込んで来た。
 マイクロトフは唾を飲み込んだ。






切れた赤……。
いつものことかもしれないとかちょっと思う。