WORKING MAN





 いよいよマイクロトフも頭が変になりそうだった。冷静にこの状況を分析することなどできるわけがなかった。こんな状態で何をどう駄目だと判断しろというのか。赤くなったり青くなったりしながら、マイクロトフはカミューのがっしり顔を押さえ付けられた。
 目の前の端正な顔立ちはすっかり強張って哀れみすら感じる。初めて会った時はいきなり罵倒されたせいで憎々しく見えたこの顔だが、最近は素直に綺麗な造型だと感心するようになっていたのに。
 ふいにカミューの顔との距離が近付いたことに気付いた。身体を支える右手に力を込め、咄嗟に左手をカミューとの間に滑り込ませる。
 カミューはあからさまに不機嫌な顔をした。
「これは嫌じゃないって言ったじゃないか……」
「や、しかし……」
「話が違うぞ、キスくらいさせろ!」
 無茶苦茶である。
 マイクロトフが来る前に一杯引っ掛けたかのような勢いで、カミューは挟んだマイクロトフに突撃のごとく口唇をぶつけてきた。
 少し湿った感触からは酒の香りはしなかったが、行為は酔っ払いのそれと変わらない。まさにぶつけられた。口唇越しに当たった歯が痛いくらいだ。
 あまりにムードがなさ過ぎる。こんな状況でムードを求めている訳ではないが、少なくとも2度目にキスをされた時はこんな感じではなかった。これでは駄目もくそも判定できるものか。
「おい、カミュっ……」
 口唇が離れた隙に文句の一つでも言おうと口を開けたが、その前に視界に飛び込んで来たカミューの長い睫毛にふいに息を飲み込んだ。
 下口唇からもう一度押し当てられた弾力のある体温、開いたままのマイクロトフの上口唇を探り当てるように両の口唇を合わせると、カミューはするりと舌を落とした。
 意志を持つ侵入者にマイクロトフの身体が跳ねる。咄嗟に体重を支えていた右手を離して、カミューの肩にかけた。その拍子で背中からソファに転がる。口唇を吸い付けたままカミューも重力に任せてくる。
 舌で口内をなぞられたのは初めてだった。上顎の裏側を撫でられてくすぐったさに身を捩る。
 不快とかそういうことではなかった。素直に腰が引けた。圧倒的な経験の違いで現れる単純な拒否反応だった。マイクロトフは手をかけたカミューの肩にがりがりと爪を立て、隙間の開いた口唇から唸り声を上げて抵抗を試みる。
 殴ってでもとめろと言った張本人は、そのささやかな諍いは問題外と判断したのか動きを止めようとしない。それどころか五月蝿いマイクロトフの腕を押さえ付けようとしてくるではないか。
 これには流石のマイクロトフも頭に来た。端から抵抗させる余地を与えないとは何と言うことだ――マイクロトフは膝を立て、意外に無防備だったカミューの腹にめり込ませた。
「げふ!」
 これは効いたようだ。口唇というより顔をがばっと剥がして、カミューは腹を押さえた。
「何するんだ!」
「お前が殴れと言ったんだろう!」
「どうしても駄目だと思ったらの時だ!」
「さっきはどうしてもなんてついてなかったぞ!」
「そんなことはどうでもいい、駄目なのか、もうここで駄目なのか!」
 何かに取り憑かれたようなカミューの迫力に怯むが、マイクロトフも負けじと言い返す。
「駄目とかそういう問題ではない! 分かる訳がないだろう!」
 自由になった腕の反動を使ってバネのように身体を起こした。
「分からないだって?」
「分からん! 最初に言った通りだ、全然分からん!」
 カミューの眉が険しい山を描いた。
 そのままマイクロトフに伸ばしてくる腕に、再びソファに背中を沈めることになるかとマイクロトフも身構える。ところがカミューの腕はマイクロトフの胸倉を掴んで締め上げた。予想外の彼の行動にマイクロトフの息がぐっと詰まる。
「分からないとはどういうことだ! 分かるためにこんなことしてるんだぞ、私の身にもなれ!」
「な、何だその言い種は! どこらへんが“私の身になれ”になるんだ!」
 思わずマイクロトフもカミューの襟を掴み返す。
「私は相当我慢してるんだ、お前ももう少し我慢してくれたっていいだろう……!」
 マイクロトフの手加減無しの締め上げにカミューの声が掠れる。
「お前の言ってることはめちゃくちゃだ……! 俺とお前じゃまず場数が違うだろう……俺はそもそもこういうことに慣れていないんだ、分かるはずが……!」
 カミューも力を込めてくるのでマイクロトフも呼吸が苦しくなってきた。しかし自分の手を緩めようとはせず、そのまま異様な力比べがしばらく続行された後、とうとうどちらともなく手を放してごほごほと咽せた。
 狭いソファの上で二人、目尻に涙まで浮かべて。
「……大丈夫か、マイクロトフ」
 先に口を開いたのはカミューだった。マイクロトフはちらっとカミューを見て、何故か恥ずかしくなり黙って頷く。
「……カミューも大丈夫か。俺は思いきり絞めた」
「かなり苦しかった」
「俺だって」
「苦しい」
「……カミュー」
「苦しいよ」
 カミューは首を押さえて項垂れた。丸めた背中が小さくなり、蹲るように顔を隠してしまう。
 マイクロトフは少し覗き込むように顔を傾けたが、カミューの睫毛の先も見ることができなかった。はらりと垂れた亜麻色の髪の束を視線で追い、そっとカミューの肩に手を乗せた。
 カミューがその感触に静かに顔を上げ、泣き出しそうな顔でマイクロトフを見上げた時、その薄く開いた空気の漏れる口唇にマイクロトフがそっと自分の口唇を当てた。
 カミューの目が楕円を描く瞬間を、瞼を下ろしていたマイクロトフは見ることができなかった。ただ、静かに口唇を離した後に彼の目がそのままだったことは確認することが出来た。
「……確認させろ確認させろと、お前ばかり主導権を握られてはたまらんではないか……。俺だって確認する権利がある」
 言いながらマイクロトフは頬が熱くなっていくのを感じ、サマにならない自分の姿を想像して恥ずかしくなった。
 やはり自分はこういうガラではないのだ――分かっていたが、いいようにされっぱなしが癪だったのだ。
 カミューはそのまま固まって、瞬きすら忘れているようだった。あまりに長い間そうしているので、マイクロトフもだんだん心配になって顔だけこちらに向けて蹲っているカミューに声をかけようとした。
「カミュ……」
「……み」
「み?」
 ふいにカミューががばっと立て膝を突き、自分の身体の中央を指差して胸を張った。
「見ろ、勃ったぞ! どうしてくれる!」
「そ、そんなこと誇らし気にいうなー!」
 マイクロトフの拳がカミューの下腹部にめり込んだ。






このノリはリーマンの記念SSとか読んで下さってる方には
結構お馴染みの展開ではないかと……。
大分じゃれあうようになった……。