WORKING MAN





 落ち着いて、二人並んでソファに座るまで小一時間程かかった気がする。
 最初は意味もなく息を切らして、無意識に怒鳴り声になってしまうのを普通の会話サイズにまで収めるのに苦労した。
 とっくに終電は過ぎてしまった。お互いそれは分かっていたが、あえて触れないままにだんだん言葉の間が大きくなっていった。
 そうして二人が黙って数分が経った時、マイクロトフがタイミングを測っていたかのように切り出した。
「……とりあえず、最初の話はなかったことにしていいのか」
 カミューは正面を向いたまま、マイクロトフの隣で宙を睨む。
「最初の話って?」
「……もうやめるとか」
「……、マイクロトフ、私がどんな目でお前を見てるか分かった?」
「……分かった」
「それでもそんなこと言えるんだ」
 マイクロトフも正面を向いたまま、カミューの隣で口唇を尖らせる。
「お前は自分で言うほど酷いことなんて出来ない癖に。俺はお前がいなくなるのは嫌だ」
「それは途中でやめたからだ。マイクロトフはやっぱり分かってない」
「もし途中でやめなかったにしても、俺はきっと大して驚かん……。それよりも、お前に言葉で拒絶される方がずっとショックだと思う」
 カミューが少しだけマイクロトフに顎を傾けた。
「……お前って、たまに凄いこと言うよな。私の反応を楽しんでるんじゃないかと時々思うよ」
「それはこっちの台詞だ。お前から電話が来る度身構えなければならないではないか」
 突然やめるなんて言われても、とマイクロトフは横目でカミューをちらりと見た。
 カミューもふて腐れたような顔で仕方ないだろう、とぶつぶつ呟く。
「私だって切羽詰まってたんだ。お前は無神経だし鈍感だし、いつも何考えてるか分からないし」
「……悪かったな」
「絶対に嫌われると思ってた」
 マイクロトフが顳かみを人指し指で引っ掻いている。カミューの視界のギリギリに入るその指の動きを追って、カミューも釣られたように鼻の頭を少し擦った。
「嫌いになんかならん……。ちょっとびっくりしたけど」
「それが理解できないんだよ。私がお前の立場だったら絶対に嫌だけどな」
「そうか? でも俺もお前以外の相手なら分からん」
「……」
 カミューはひとつ白々しい咳をした。
「そういうこと言うのが、凄いって言ってるんだよ」
「……そうなのか」
「私は喜んでいいのか悲しむべきか分からなくなるじゃないか」
 マイクロトフはまた口唇を尖らせた。ようやく気づいたが、これは照れ隠しの癖なのだ――尖った口唇の先が自分の目に少しだけ見えて、マイクロトフは恥ずかしさに引っ込める。
「とにかく、俺はお前の理不尽な言い分は認めんからな」
「理不尽って……、私がどれだけ悩んだと」
「さっき死ぬ程聞いた」
「ほんとに分かってるのか? 何だかお前の反応を見てると私の悩んだ時間を返してくれって言いたくなるよ……こんなにあっさり肯定するハメになるなんて……」
「……」
「こんなにあっさり……」
 そこで二人はまだしばらく黙った。
 気まずい沈黙ではなかったが、手持ち無沙汰に足の指を動かしたり首を回してみたり、少々時間は持て余していたかもしれない。
 それから、カミューが自分に言い聞かせるように口を開き始めた。
「あのさ、お前の言った通り、やめるのをやめるとするよ。」
 マイクロトフは言葉の意味を一度飲み込んでから、頷いた。
「そうしたら、これから私達はどういう関係になるんだ?」
「……それは」
「私は半端な状態は我慢できない。またおかしくなるのは嫌だ。0か100じゃないと嫌だ」
「……」
「……でも0だったら死んじゃうかもしれない」
「嫌なタイプの男だな……。」
 そこまで喋るとカミューはふうとため息をついた。
 カミューが背中を丸めてぼんやり座っているのを見て、マイクロトフはぽつりと口を開く。
「……このままじゃ駄目なのか」
「……このまま」
「俺はこのままがいい。変に距離を作るのは嫌だ」
「でもそうしたら辛いのは私だ」
「我慢しろ」
「……おい」
「俺も努力する。……だから我慢しろ」
 カミューは二度程瞬きをして、心の中の疑問を口に出すのを堪えた。
 マイクロトフはいつのまにかカミューから目線を逸らし、正面の壁にかかっている時計をじっと見ている。
 今の会話で何ひとつ片付いていないことはよく分かったが、二人ともこのまま話を続けることに疲れてしまっていた。
 だからどちらともなくこの話をやめにして、いつの間にか出会った頃のことを口にするようになっていた。
「最初は本当にむかついたよ」
「俺はかなり落ち込んだ」
「だってお前は私の神経を逆撫でするようなことばっかり言うし」
「お前だってかなりあからさまな態度だったぞ」
 口調は何処か楽し気だった。
 カミューはいかにマイクロトフの態度が頭にきていたかを懇々と説いた。マイクロトフはどうやってカミューと仲良くなろうか苦労した話をした。
 マイクロトフはカミューの強張っていた表情が和らいでいることに気がついた。
 ――このままじゃ駄目なのか
 自分の言った台詞が妙に身に染みた。
 まるで随分昔からの友人だったかのように、その後はまるで気兼ねのない会話が続いた。お互いの悪口を言い合いながら、以前はまるで話にならなかった職場のこと、仕事のこと、噛み合わない人生観、恋愛観、取り留めもなく話してこちこちと時間は過ぎた。
 先に眠りに屈したのはカミューだった。ことりと落ちた頭がマイクロトフの肩に当たる。
 マイクロトフは一瞬身体に力を入れたが、肩に蹲る亜麻色の毛束を見てふうっと息をつく。
 彼が切羽詰まっていたというのは本当だろう。きっとずっと緊張していたはずだ。のしかかって来た身体に異常な力がこもっていたことをマイクロトフは思い出す。
 でも、こうして他愛のない話をして、疲れて眠ってしまう様子を見ていると、今までの事は夢だったのではないかとも思えてくる。
 いや、彼の様子ではない。カミューの言った通り、自分がおかしいのだ……きっと。
 こんなに落ち着いて、冷静にカミューの想いを受け止めて、それで自分はどうする気なんだろう。
 カミューと離れるのが嫌だと、彼が傷付いてでも我慢しろと平然と言い放った自分の気持ちが分からない。
 そう、振り出しに戻ったのだ。最初にカミューに問いつめられて「分からん」と答えた時から何も変わっていない……まるで夢でも見ていたように。
 目が覚めたら、それまでのことは夢だったのではないだろうか。そんなことを悪戯に考えてみる。
 いいや、夢などではない。目が覚めたら隣に彼の姿がある。ソファに座ったまま静かな時計の音を聞き、少し辛い姿勢で眠ってしまって身体が痛む。
 そんな現実が始まる。ならば自分はそれをどうやって受け入れるべきだろう。







 カミューの睡魔は酷く強力だった。
 いつもの足下に絡まるようなじっとりとした眠りではなく、何も考えられないような一瞬の暗闇が訪れていた。
 久しぶりに、夢も覚えていない程眠った。







わーんまた余計な小休止が入りました……。
時間がないのは百も承知……