WORKING MAN





「あー……」
「……」
「えーと……」
 マイクロトフの刺すような視線を全身に受け、何とか乾いた笑いでごまかそうとするカミューの背中にはじっとり汗が滲み始めていた。
 カミューは隠し切れない上気した頬で、横を向いたり俯いたりと場を持たせようとする。しかしマイクロトフの目は逃がすまいとカミューの動きを完全に捕らえていた。これ以上引っ張ると本当に間が持たないと察したカミューは、仕方なく締まりのない笑顔でマイクロトフを宥めにかかる。
「ま、まあ……分かってるんだからいいじゃないか」
「よくない」
 マイクロトフの間髪入れない返事にカミューもぐっと言葉に詰まる。
「だって分かりきったことだろう?」
「けじめのない奴は好かん」
 全くマイクロトフらしい答えである。カミューは照れ隠しも極まって強行手段に出ることにした。
「……、いいだろ、もう……。我慢できないんだ、優しくするからさ……」
 目の前には焦がれて焦がれて仕方のなかった相手がいる。手を伸ばせば届いてしまう距離にいて、今まさに願いが叶いそうなのだ。面倒な儀式などこの際後でもいいではないか。
 カミューはその愛しい相手にまさしく手を伸ばし、そのまま体重に任せて倒してしまおうと力を込めた。ところが倒し切る前に、腹部に激痛がめり込んで来た。
 容赦ないマイクロトフの膝の一撃に、全く無防備だったカミューはごろりと転がる。手加減なしで膝が入ったのだ、痛いなんてもんじゃない。
 情けなく呻くカミューの耳に、擦れた衣服の音が聴こえて来た。マイクロトフの立ち上がる音に、何とか堪えて顔を上げようとする。
「……帰る」
 怒りが頂点に達したのか、無表情になったマイクロトフの黒い瞳が目に映った。
「ちょっ……、マイクロトフ……、」
 声がうまく出ない。本当に鳩尾にヒットしてしまったようだ。目尻に涙すら浮かんで来る。
 そんなカミューを顧みず、マイクロトフはさっさとジャケットと鞄を拾い上げ、すっかり帰る準備を終えて玄関へ向かっている。何とか追おうとしたカミューは這って腕を伸ばした。
「マイクロトフ、待って……」
「触るな!」
 厳しい一言と共に振払われたカミューは、腹の痛みも伴ってそのまま重力に従うこととなった。
 あっと思った時には、後ろに倒れた頭がガラステーブルの角に見事に当たって――そうして意識がぷつりと切れた。






 ――……だって、怖いじゃないか。
 真顔で囁く言葉に込めた想いが、一笑に付されることだってあるかもしれない。
 誰にも言ったことないんだ。
 ……恥ずかしくて、怖かったんだ。






 やけに耳につく時計の秒針に、眉を捩りながらチカチカ痛む瞼をこじ開ける。
 無意識に庇ったのは腹の鈍痛と、後頭部の激痛だった――カミューは微かな呻き声と共に身体を起こす。それから数秒ぼんやりと辺りを見渡して、……飛び上がった。
 記憶は一気に頭に巡った。携帯。ジャケット。何より車のキー。それらを引っ付かんでカミューは部屋を飛び出して、乗り込んだ愛車のアクセルを深く踏み込んだ。

 訪れたのは(それもドアの前まで)たった一度だが、はっきり身体がこの場所を覚えていた。カミューは質素なアパートに似つかわしくない赤の派手な車を脇につけ、マイクロトフの部屋を目指しながら腕の時計に視線をやる。あれから一時間経っている。思った以上に目覚めが遅かったようだ。
 カンカンと耳障りな音を立てる金属の階段を駆け上がり、以前マイクロトフと口論を交わしたその部屋の前で足を止める。恐らくドアはカミューのマンションとは比べ物にならないほど薄いのだろうが、今のカミューにとってはマイクロトフとの間を隔てる厚い壁である。覚悟を決めて、備え付けのチャイムへ指を伸ばした。
 ピーンポーン……
 異様に音が大きい。やはり壁は大分薄いようだ。カミューは耳を済ませるが、中からは物音ひとつ聴こえてこない。
 しかしマイクロトフはここにいるのだ。絶対的な直感がそう訴えていた。動物の本能かもしれない。ここに逢いたい人がいる。
「マイクロトフ、開けてくれ……」
 とうとうカミューは声の手段に出た。
 マイクロトフに聴こえていないはずがない。カミューの情けなさ溢れる悲痛な声は、自分自身でも耳を疑いたくなるような弱々しいものだった。
 しかしマイクロトフがそう簡単にこのドアを開けないことも、カミューは分かっていた。
 自分がごまかそうとしたことは、マイクロトフのようなタイプが最も大事にすることなのだ。――大切なことだ。マイクロトフはそう言っていた。
 なのにその大切な言葉が言えなかった。恥ずかしさが押し勝って、つい後回しにしてしまおうとした。
(だって怖かったんだ)
 生まれて一度も口にしたことのない、いや、口にしたことはあってもただの音の融合体でしかなかった告白を、こんなに強い想いで呟いたら自分がどうにかなってしまうのではないか。
 そしてその強い気持ちを受けとめてもらえなかったら、行き場を失くした心の熱が発散しきれずに爆発するのではないか。
 大切で仕方ないのはカミューも同じだった。なのにそれを形にできない。心をひたすらぶつけるだけで、この想いにちゃんとした名前を与えるのが今まで怖くてずっと避けていたのだ。
 だけどこの迷いで、手を伸ばせば届く距離に居たものを失ってしまうくらいなら、自分のしみったれた恥など気にしている場合ではない。大切なのだ。愛しくて仕方ないのだ。こんなことで離したくはないのだ。
 カミューはきつく口唇を噛みながら、マイクロトフの部屋のドアを叩いた。薄い板の感触が拳に冷たい。カミューは必死で叩いた。その内側で恐らく仏頂面を浮かべている、純粋で生真面目な思い人を呼び続けた。





あまりに情けなくて
哀れを通り越して呆れます。