こんこんこん。 「頼むよマイクロトフ……。私が悪かった……」 薄いドアの向こうから、カミューの声が嫌になるくらいはっきり聴こえて来る。 マイクロトフは狭い部屋のまん中でドアに背を向けるようにどっかり座り込み、腕を組んで目を瞑る。その眉間には深い縦皺が刻まれていた。 カミューの腕を振り解いてから自宅アパートに直行し、さっさと寝る仕度をしたもののそう簡単には興奮が静まらない。苛々と焼酎で自棄酒を始めていたが、案の定聞こえて来たカミューの車のエンジン音に顰めっ面が酷くなった。 やってくるのに一時間はかかっただろうか。思った以上に時間がかかっての登場で、それが更にマイクロトフには面白くない。 やがて階段を駆け上がる金属音が響いて、それからドアの前でカミューの弱々しい懺悔が始まった。ノックは止まらない。マイクロトフは両手で耳を塞いだ。 「マイクロトフ、お願いだから」 こんこんこん。 「許してくれ、この通りだ」 とんとんとん。 「全面的に私が悪い、謝るから、謝るから……!」 どんどんどん。 ついにマイクロトフは立ち上がり、ドアの傍まで歩いて行った。防音もへったくれもないようなドア越しに低い声を投げかける。 「他の部屋の人に迷惑だ、帰れ」 マイクロトフの声が聞こえて来たことで一瞬とまったノック、カミューの声は更に悲痛なものとなった。 「マイクロトフ、私は……!」 「もうお前みたいないい加減な奴は知らん。帰れ」 多少酔った勢いもあってか、マイクロトフは事も無げに冷たく言い捨てると再び定位置に座り直した。 焼酎は夕食を食べていない胃には刺激的だった。カミューが先走ったことをしなければ、今頃カミューのマンションで夕飯にありつけていただろうにとマイクロトフの憤りが大きくなる。 何が、分かってるんだからいいじゃないか、だ。 自分がどれだけ一生懸命カミューのことを考えて、悩んで悩んで大切な言葉を告げたのかちっとも分かっていない。恥ずかしくない訳がない。言い慣れてもいないし言ったことだってろくにないことばっかりだ。 だけど恥ずかしさで避けようなんて思わなかった。大事なことだと理解していた、なのに当の本人が『分かり切ったことだろう』とは何事だ。 冗談じゃない。それこそ遊びに来たのではないのだ。肝心なことをおろそかにして、肉欲だけに溺れる恋愛(それを恋愛と呼ぶのか?)がうまくいきっこない、少なくとも自分とは絶対に――マイクロトフは胡座をかいた両膝に爪を立てた。 「マイクロトフ……、……許してもらえるまで、ここにいるから……」 カミューの頼り無い声が最後、ドアの向こうの男は黙ってしまった。てっきりまだまだ哀願が続くのだろうと思っていたマイクロトフは、ちらりとドアを振り返る。……静かだ。物音ひとつ聞こえて来ない。 (まさか帰ってしまったんじゃないだろうな――) そう思いかけたマイクロトフは、自分の勝手な思考に頬が熱くなった。 自分はカミューが追って来ることも謝罪してくることも分かっていて、それなのにこうして彼を無視している。ついさっきまでカミューの腕の中でうっとり目を閉じていたというのに、少々自意識過剰すぎやしないだろうか。 一度そう思うと途端にカミューに対して申し訳なくなった。マイクロトフは音を立てないように立ち上がり(床が軋んで困る)、そーっとドアに近付いた。ドアの小さな覗き穴に片目を当ててみる。 「……!」 慌てて鍵を外してドアノブを握る。そのまま勢いよく開けば外開きのドアはカミューにぶつかりかねなかったが、鍵の音で察したのかカミューは無事に経っていた。但し両の目から細く涙を流して。 「……カミュー……」 マイクロトフは驚いたというよりも呆れてしまった。 この男は、いい年をして……。なのに腹立たしい気持ちがどんどん誤魔化されていく。こんな情けなくて格好悪い男見たことない。鼻水をすする音まで聞こえる。 「……」 カミューは気まずそうに袖でぐいと顔を拭った。 「なんて顔を……、子供じゃあるまいし……」 「……だって」 もう一度顔を拭って、カミューはそれこそ子供のように口唇を噛んだ。マイクロトフがため息をつく。 ……自分の負けだ。 「分かった。分かったから中に入れ」 「私が悪かったよ」 「それも分かった。ほら」 大きな子供の腕を引くと、彼はすんなりドアの内側へ入って行った。いつかのような拒絶はなく――今ならその理由が分かる気がするのだけれど――マイクロトフはカミューを完全に中へ押し込むと、閉めたドアに鍵をかけた。 *** 部屋に入ると、まず目に飛び込んで来たのは小さなテーブルのまん中に置かれた焼酎の瓶だった。カミューは思わずまじまじと瓶を眺めて、その様子に慌てたらしいマイクロトフがそそくさをと瓶を片付けて行く。 ……自分がもたもたと気を失っていた間に、自棄酒でも煽っていたのだろうか。カミューは何だか感慨深いものが胸に広がって、呆けたように天を仰いだ。それから部屋を見渡し始めた。 質素な部屋には無駄な家具が一切ない。必要最低限のテレビと冷蔵庫、電話が置かれた棚挟まっているのは電話帳や何か電化製品の取扱い説明書だろうか、娯楽に関するものはほとんど見当たらない。 台所は狭くて小さいがありがちな水垢は綺麗に掃除され、古ぼけていながらもシンクは光っている。調理器具は整頓されて、何だか普段のマイクロトフのイメージにぴったりはまってしまった。 低い天井、壁には引っ掻き傷。ドアの薄さと同様に壁も薄いのだろう。カミューのマンションと比べたら家賃にかなり差が出るに違いない。生活が厳しい訳ではないだろうに、こんな部屋にいつまでも住んでいるのはきっと性格なのだ。余分なものを望まず好まず。台所を覗いてたった六畳のこの部屋には驚く程無駄がない。 そのすっきりした部屋に、カミューという男が一人増えた。図体のでかい男二人が収まるにはさすがに狭苦しさを感じる。カミューはごくりと唾を飲み込む。 ――この部屋に入るのは、今日が初めて。 一度でも足を踏み入れたらどうなってしまうか分からなかった、マイクロトフの部屋にとうとう入ってしまった。 自分の中では、ここが境界線だったのだ。何度となくマイクロトフを迎え入れた自分のマンションなんかより、彼の匂いが強く漂うこの部屋は…… カミューは今度は息を飲んだ。……ここが最後の砦だった。 |
カミューも言ってますが、マイクロトフの部屋が最後の砦だと
この話を書き始めた頃からずっと考えてました。
やっとこぎつけたよ66話目にして。(呪いの数字!)