WORKING MAN






「……座ったらどうだ。狭いが……」
「あ……うん」
 ぎこちなく勧めるマイクロトフに、カミューはぎこちなく頷く。二人はとりあえずの形で床に腰を降ろした。向かい合う光景は本人達にとってもおかしなものだ。
 マイクロトフは左右に目を泳がせて、何か話題のきっかけを探しているようだった。カミューは覚悟を決めて床に両手をつき、頭を下げた。
「すまなかった。私が軽卒だった。お前を傷つけて本当に悪かったと思ってる」
 マイクロトフがあれだけ怒ったのは、自分とのことを本気で考えてくれた証拠だ。恥ずかしいなんて言い訳になるもんか――カミューはもう一度殴られても良い覚悟でぐっと目を閉じた。
「カミュー……」
 聞こえて来たマイクロトフの呟きは思いのほか柔らかい。カミューがつい肩を浮かせようとしたその時、マイクロトフの手がまさにカミューの肩に触れた。
「よせ。……俺も言い過ぎた。」
 マイクロトフの言葉に、カミューはゆっくり顔を上げる。
「でも間違ったことを言ったとは思わん。俺は土下座して欲しいんじゃない、俺は」
「分かってる……、ちゃんと言うよ。肝心なことをおざなりにして、お前任せにしてごめん」
 マイクロトフの表情に一瞬緊張が走ったように見えた。少し身体に力が入って見える。自分の言葉を受け止めるための身構えをしたのだと分かったカミューは、それ以上に力の入り過ぎた自分の身体に気づいた。
 頬が内側からじわじわ熱を上げて行く。背中にじっとりおかしな汗が湧き出て来た。
 驚いた。こんなに大変なことだったのだ。
「……結婚を前提にお付き合いしてください」
「……おい、カミュー」
 思わず逃げてしまったカミューに、マイクロトフの怒気のこもった声が投げ付けられる。
 カミューは上目遣いでマイクロトフの様子を伺い、場を和ませるどころか悪化させてしまった自分の行動に深く後悔した。緊張すら解せやしない。
「カミュー、お前……ふざけるなよ」
 マイクロトフの濁った視線は本気で怒っている証拠だ。心成しか声を荒げて怒鳴るよりも迫力が増す。おまけに彼の右拳が固く握られているのを認めて、カミューは慌てて両手を意味もなく振った。
「待って、ちゃんと言う! ちゃんと言うけど、笑わないでくれ、その……」
「……」
 全ての言葉が単語ごとに引っかかる。頭では分かっているのに音になるとたまらなく恥ずかしい。
 でも大事なことだ。――そんなこと分かってる、大事なことだ。
「……恥ずかしいんだ、凄く。誰にも言ったことがないから……」
「……笑わない」
 低い呟きはカミューをほんの少し安心させた。
 カミューは心を落ち着かせるために、息を深く吸って吐いて、二度ほどそんな深呼吸を繰り返してから姿勢を正した。その正面でマイクロトフも背中に芯を入れる。
 暫し、やけに力の入ったお見合い状態が続いた。しかし二人とも真剣な顔のまま動かなかった。
 カミューは目の前のマイクロトフをじっと見つめながら、初めて逢った時のことを思い出していた。最初は心から頭にくる男だった。だけどそのまま自分の中に住み着いた。『嫌い』というのも、所詮感情の一種だったことを思い知らされた。いつの間にか自分は彼を目指していて、最早後戻りのできないところまで来た。
 目の前にいる彼が、今の自分の息をする目的だ。近付きたくて触れたくて、どうしようもない想いを止めることに諦めてから、溢れた心は留まることを知らなかった。
 彼が誰だろうと、何だろうと、何もかもどうでもいい。もう苦しいのは嫌だ。幸せになりたい。彼と幸せになりたい。
「好きだよ」
 ぽつり、と漏れた声は我ながら夢見がちな、頭の奥でぼんやり響いた大切な一言だった。
「……マイクロトフが、好きだよ」
 真直ぐマイクロトフを見ているはずなのに、その焦点がぼやける。今にも気を失いそうだった。
 この言葉は力がありすぎる。押さえていたものが堰を切って氾濫を起こす。
 好きなんだ。こんなに好きになっていた。この事実が自分の何もかもをめちゃめちゃにした正体だ。どうしようもないほど彼が好きなのだ。
「好きだ。……お前が好きだ。……愛してる、こんなに……」
 身体の感覚がなく、指の先ひとつ動かすだけで激しく神経を集中しなければならなかった。それでもカミューはまるで重力を倍に感じているような動きで、伸ばした震える手のひらをマイクロトフの指に重ねた。
 マイクロトフは目を閉じていた。少し歪んだ眉間が彼らしくて愛おしかった。カミューにはもう想いを言葉にする力が残っていなかった。後に残った、――行けるところまで達した、麻痺した思考だけが身体を動かしし始めた。
 僅かな隙間を覗かせているマイクロトフの口唇、まず下口唇にカミューはそっと口付けた。緩やかに噛み付くように上口唇も包み込み、そっとマイクロトフの呼吸を吸い上げる。
 これが三度目のキスだった。しかし今までのキスとは明らかに意味が違っていた。戯れでも誤魔化しでも暴走でもない。伝えたい。自分がどれだけこの人を好きなのか、伝えるために口唇を合わせている。
 カミューは角度を変え弾力を変え、思い付く全ての方法でマイクロトフの口唇を愛撫した。時に強く吸い、小さな音を立てて摘み、その粘膜を舌の先でそっと撫でる。辿々しい言葉なんかよりはずっと雄弁な動きで、カミューはだんだん自分が何も考えられなくなっていることに目眩を感じていた。
 マイクロトフとの身体の距離がもどかしくて、左手を彼の背中に伸ばす。同じく右手を腰へと伸ばして、そのまま強く下半身を引き寄せた。重心が変わったことでマイクロトフの上半身がぐらっと仰け反る。一瞬は慣れたマイクロトフの口から、あっと小さな声が漏れた。カミューは左腕をクッションにして、床に倒したマイクロトフの身体を受け止める。
 自分の下で大きく目を見開いたマイクロトフを愛おしそうに見つめてから、カミューは顔を落としてその首筋に口唇を当てた。
 ――もう、やめるもんか。
 カミューは微かに残っていた理性を自ら凪ぎ払い、マイクロトフの鎖骨に歯を立てた。






カミュー視点のほうが言い訳が多くて、マイクロトフよりずっと長いです。
読んでるときっと苛々しますね……。
可哀想な人なんですよ(そんな酷い)