WORKING MAN





 離れたカミューの口唇が、そのまま首筋に歯を立てて下へ下へと降りて行く。 隙間から肌を撫でる湿った舌の感触が、マイクロトフの全身にぞわぞわと鳥肌を走らせた。
 マイクロトフの混乱が始まった。
「か、カミュー、まっ……」
 カミューは答えず、黙々と恐るべき早さでマイクロトフのシャツのボタンを上から外し、すでに三番目に指をかけようとしている。マイクロトフは自分の上に乗っている男の髪を引っ掴んだ。
「待て、カミュー、嫌だ!」
 怒りというより悲痛な声でまるで懇願するようにマイクロトフは叫ぶが、カミューは顔を向けようともしない。掴まれた髪は何本か抜けていたが、全くお構い無しで反発するマイクロトフの力を押し込めている。
「……嫌だなんて言わせない。お願いだから私を受け入れて。言葉だけじゃなくて、気持ちだけじゃなくて、私のこと全部受け入れて」
「し、しかし……」
 カミューの声は淡々としていたが、内にこもった迫力を備えていた。カミューはきっとやめない――直感したマイクロトフは、その事実に焦りながらももたついた頭で最善の方法を考えた――そんなものあるか!
「カミュー、待て、俺は詳しく分からないんだ、その、こういうことはっ……」
「マイクロトフはただ目を閉じてるだけでいいから」
 男が男に言う台詞ではないとマイクロトフは寒気を感じたが、すっかりキレてしまったカミューに怯んではいられない。何とかこの馬鹿力(自分だって力の弱いほうではないはずなのに、何てことだ)から抜け出すために必死で食い下がった。
「だ、だが、まだ心の準備ができていない! きょ、今日のところはここまでで……!」
 我ながらむちゃくちゃな言い訳だとは思ったが、案の定カミューも大人しく聞き入れる様子がない。
「ここからやめるのは無理だ。なるべく、お前に負担をかけないようにするから」
「しかし、しかし俺はまだ気持ちが追いついてないっ……!」
「優しくする、大切にするよ。愛してる人を抱くのは初めてなんだ、うんと大切にする」
 ようやく顔を上げたカミューの目はどこか焦点がぼけていて、その腕の強引さとは裏腹に夢見心地の口調だった。――駄目だ。この男は今何を言っても聞きはしない。すっかり何処かへイッてしまっている、大体会話が噛み合っていない。
「待て、待て! せ、せめて風呂に……風呂に入らせてくれ! 帰ってから身体を洗ってないんだ!」
 とにかくこの男を引き剥がそうと、マイクロトフは今の時点でもっとも逃げ込みやすい場所を口にした。
「いいよ、そんなの気にしない」
「俺は気にする! 汚いし、汗臭いし……」
「えっ、汗臭い!?」
 突然カミューはマイクロトフを押さえ込んでいた腕を離して、自分の二の腕辺りに鼻を押し付ける。思わずマイクロトフも当然のツッコミを入れた。
「違う、カミューじゃない、俺だ!」
 カミューが眉間に僅かな皺を寄せながら、マイクロトフの言葉が分からないような顔をする。
「マイクロトフはいい匂いがするよ」
「……、お前の嗅覚はおかしい……」
「おかしくない、私はマイクロトフの匂いも体液も全部平気だ」
「露骨なことを言うなー!」
 自由になった拳で全く手加減なく目の前の顔面をぶん殴り、マイクロトフは立ち上がった。殴られた衝撃で仰け反りかかったカミューの身体がぐんと前方に戻り(まるでバネだ)、立ち上がったマイクロトフの脛に両腕でかじりつく。
「は、離せ……」
「いやだ離さない……!」
「風呂に行くんだ、離せ!」
 そのまま足を振り上げると、見事にカミューのみぞおちにはまった。ようやく後ろに倒れたカミューがしばらく襲いかかってこないことを確認すると、マイクロトフは大急ぎで風呂場に直行し、もどかしく服を脱いで内側から鍵をかけた。





 カミューは腹を押さえながらよろよろと身体を起こし、呻き声を漏らして部屋を見渡す。
 マイクロトフの姿は見えないが、バスルームらしき場所から水音が聞こえて来る。シャワーを浴びているのだろう。逃げられていないことにほっとしつつ、カミューはまだ鈍く痛む腹を撫でた。
 全く、愛しあうのも命がけだ。彼が女ならばこんな苦労はなかったに違いない。流石にカミューも人並み程度とは言え、力に自信がないわけではなかった。それが男一人組み敷くとなるとこのザマだ。
 まだ落ち着いていない荒い呼吸で、さて、とカミューは立ち上がる。マイクロトフが戻って来るまでの間、この興奮した身体をどう宥めるか。
 思わず一緒に風呂に入ってしまおうかとも思ったが、先ほどからの激しい抵抗を考えるとマイクロトフの機嫌を損ねるだけだろう(もうとっくに損ねているという話がなくもないが)。滑りやすい風呂場での乱闘ははっきり言って危険だ。マイクロトフが出て来るのを待ったほうがいい、どうせ風呂場からは何処にも逃げられはしない。
 カミューはこれまでの大暴れで、脚をぶつけた折り畳み式のテーブルを脇に避け始めた。スペースは広いほうがいい。自分達は決して小さな身体ではないのだから、また取っ組み合いが始まると部屋がめちゃくちゃになるし、何よりマイクロトフが怪我をする。
 その他邪魔になりそうなものをなるべく部屋の端に寄せて、カミューは居間の不自然な空間にふうっと満足げなため息をついた。
(これだけ広さがあれば多少転がっても大丈夫だろう)
 ここでふと、どうみても柔らかそうではない絨毯の、すっかり寝てしまった毛の流れに気づいた。床を手のひらで撫でて、これは固かろうと眉を寄せる。
 こんなところに直に背中を付けたらきっと翌朝辛いだろう。カミューは見当をつけた押し入れを開けて、案の定見つけた布団一式を掴み降ろした。
 どうせやることはひとつなのだ、準備しておいたほうがいい。どう見てもシングルサイズの敷き布団を、ついさっき作ったばかりのスペースど真ん中にセッティングし始める。枕は邪魔になるから押し入れに戻しておいて、すっかり整えた布団の上でカミューは胡座をかいた。
(さあ私の準備は完璧だ。早く出て来い、マイクロトフ……!)
 バスルームに向けた視線をぐっと集中させ、カミューは肩に力を入れて今か今かとその時を待った。マイクロトフ側の準備のことなど全く念頭になく、昇り詰めて行き場を失くした想いをようやく満足させられる――心の昇華だけに期待を込めて、胸を殴る心臓を更に高鳴らせていた。






そのまま逃げりゃいいのにと誰もが思っただろうに、
逃げられると話が続かないのでマイクロトフが犠牲に。
ほんとあとちょっとで終わりますよ。あとちょっと……