WORKING MAN





 カミューが居間で期待と興奮に肩を怒らせている頃、風呂場へ逃げ込んだマイクロトフはシャワーの湯を出したり止めたりしながらしきりに狼狽していた。
 与えられたのは入浴の間の僅かな時間だけだった。大体いくら逃げ込みやすかったとは言え、こんな場所を選ぶとは。全く逃げ場になっていないではないか。
 今この瞬間に踏み込まれたらこっちはもう打つ手がない。脱がす手間まで省いてやってどうする。
 そんなことを自問自答しながら、それでもマイクロトフは律儀に(折角入ったことだから)身体を洗っていた。洗いながら、どうするかどうするかと念仏のように呟いていた
 ――カミューは本気だ。いつかの開き直りとは違う。あの目は決心した目だった。血走った目をするくせに、口調だけが妙に優しいので諍い切れない。
(……あんなキスをするなんて卑怯だ)
 ほとんど腰が抜けてしまったではないか。
「どうする……」
 湿気のこもった空気の中、マイクロトフの救いのない呟きが反響する。何てことだ、まるで女性のように抱かれる前に身体を清めて、部屋では彼が自分の出て来るのを待ち構えている。
(ん……)
 待てよ。抱かれる……?
 カミューは『愛している人を抱くのは初めて』だと言った。カミューが抱く。……が抱かれる。
 抱かれる!?
 マイクロトフが一瞬にして青ざめた。湯気の充満した浴室内で顳かみの体温がさっと引いていく。
 当然自分は女性のように受け入れる生殖器官なんて持っていない。カミューだってそんなこと百も承知だろう。
 ならば彼はどうする気なのか? ……性知識の乏しい、ましてや正常系の行為しか経験のないマイクロトフはシャワーノズルを落とした――ごとりと音が響いて耳を裂く。
(……ま……)
 まさか……!





 もう一時間も経った頃だろうか、そろそろ痺れを切らして来たカミューに微かな物音が聴こえて来た。
 びくりと心臓が縮む。――マイクロトフが風呂場を出た。
 これまで落ち着け手順を間違えるななんてことを自分に言い聞かせ、情けなくもそわそわとマイクロトフが戻るのを胡座姿で待っていたカミューだったが、こうしてその時を迎えると必死に取り繕おうとしていた冷静さは木っ端微塵に砕け散った。
 どんな格好で出て来るんだろう。無駄だと分かっていながらも淡い期待を胸に乗せ、カミューはマイクロトフが出て来る方向にじっと視線を定めて瞬きを忘れた。
 ……マイクロトフは風呂場に駆け込む前と同じ格好だった。ただ違うのは濡れた髪と、手にしているバスタオルの存在くらいで……カミューは多少がっかりしつつも、どこかほっとしていた。だっていきなり……な格好で来られたらこっちの身がもたない。そうそう悠長なことを言ってられる状態ではないのだ。
 マイクロトフは部屋の様子を見て、呆然とした表情のままバスタオルを床に落とした。入浴の間にすっかり整理された室内を見て驚いているのかもしれない。カミューはマイクロトフのためにも、自分がリードしなくてはという気になっていた。
 布団の上で立ち上がり、マイクロトフに手を伸ばす。
「おいで」
 至極真面目な顔をしたつもりなのだが、マイクロトフは酷く嫌そうな顔になった。というか、賞味期限切れのものを口にしたような酷い顔だ。流石にもじもじと恥じらって欲しいとは思わないが、そんなに嫌な顔をしなくても、とカミューも口唇を歪めてしまう。
 一向にこちらへ近付く様子のないマイクロトフに、カミューはとうとう自ら歩みを進めて彼の腕を掴んだ。マイクロトフが慌ててその腕を引く。が、カミューは掴んだ腕を離さない。
「おいで」
 念押しをするように、カミューは低い声でとどめを刺した。
 もうやめる気はないんだ――カミューは何度も頭に響いた自らの声に後押しされて、固まって動かないマイクロトフの背に腕を回した。そのまま抱き寄せて倒そうとするが、やはりマイクロトフが最後の抵抗を始める。
「まっ、待て!」
「待たない」
 すでに返事が用意してあったかのように間髪入れない却下を下して、カミューはまるで引きずり倒すようにマイクロトフを捕らえた腕に力を込める。
 何度こんなやりとりをしただろう。もう自分はやめないと決めたのにマイクロトフも往生際が悪い――どこかズレたことを考えながら、カミューはさあもう一息とマイクロトフの身体を布団に押し込めようとした。これからベッドシーンを迎えるというよりは、押さえ込みの格闘技を実践しているようである。
 マイクロトフはそんなカミューの力にぎりぎりまで抵抗しながら、尚も逃げ道を求めて叫ぶ。ところがカミューはすでに応えることをやめていた。というよりも、口を開くと力が抜けてマイクロトフに逃げられそうなのだ。
「待てっ、頼むから、こ、こんな明るい部屋で……!」
 唯一耳に入って来たマイクロトフの悲痛な言葉に、ようやくカミューも力を緩める。
 ――そうか、最初なんだからそれくらいデリカシーがあってもいいよな。
 妙に素直にそんな気分になって、カミューは一旦マイクロトフから離した手で天井からぶら下がる蛍光灯の紐を掴む。かち、かちとレトロな音が二度響くと、一瞬目の前には闇が広がった。
 その暗さにカミューはしまったと舌打ちをしかけたが、やがてそれほど厚地ではないカーテンが外の灯りを透かしていることに気づく。互いの身体の輪郭も見えて来た。表情までは分かりかねるが、初めての夜だと考えるとこれくらいの暗さが妥当かもしれない――カミューは後にこの暗さに後悔も感謝もすることになるが、まずはと目の前の影に両腕を伸ばす。
 闇は自分を大胆にさせた。
 両腕の中に風呂上がりの暖かな身体を捕まえて、まだマイクロトフがろくに抵抗する体勢を整えないうちに、敷いたばかりの布団の上に押し付ける。倒れたマイクロトフを潰してしまわないよう、腕で重なる自分の身体を支えたカミューは生唾を飲み込んだ。
 今、手の中に自分の全てがある。
 音も大気も何ひとつ自分の五感を揺るがすことはなかった。ただ目だけが暗闇で爛々と開き、自分の下の大切な人の姿を少しでも読み取ろうとその表面を乾かしていた。





ようやくここまでこれました。
80話までいかないうちに終われそうです。