用を足して身も心もすっきりしたヒカルは、さてまたあのオヤジたちのひしめく部屋へと戻るのを億劫に感じていた。 かといってこのまま逃げ出すわけにもいかないし――ぶつぶつ不平を呟きながらトイレのドアを開けて外に出た途端、突然強い力で手首を掴まれ、ドアを閉めるのもそこそこに引き摺られる。 「お……おい!」 バタバタとらしからぬ音を立て、ヒカルを強引に先導する背中に制止の声をかける。 「おい、待てって、……塔矢!」 名前を呼ぶと不届き者はちらりと振り返ったが、足を止めずにそのまま走り続ける。 行き先も、その方向から何となく予想がついた。ヒカルは半ば呆れながら、しかしこの子供染みたアキラの行動にやれやれと諦めのため息をつく。 アキラは自室の襖を開けて、ヒカルを中に押し込んだ。乱暴な連れ込み方に文句のひとつでも言ってやろうとヒカルは声をあげかけたが、間髪入れずにアキラの身体がヒカルを押し倒して、それは言葉にはならなかった。 「塔矢っ……重っ……」 アキラの体重に和装のずっしりとした重みが加わり、ヒカルは呆気なく畳の上に転がった。 すぐに、噛み付くようなキスが降ってくる。 「んん――……」 ヒカルはぎゅっと目を瞑り、それでもどこか諦めたように身体の力を抜く。 ――全く、新年早々何をやってるんだこいつは。 心底そう思うのだが、荒々しくも情熱的なキスに図らずも理性がちりちりショートしかけてしまう。 口唇から伝わる熱と、潜りこんで来る滑らかな舌の感触。その性急でいじらしい動きにヒカルも応えながら、いつの間にかアキラの首に腕を回していた。 長い長いキスを交わして、ようやく口唇が離れた時、アキラは至近距離で熱のこもった目を潤ませて、 「……オレンジジュースの味がする」 なんて言って、笑った。 ヒカルがわざとらしく頬を膨らませてみせると、アキラは楽しそうに「ごめんごめん」と形だけ謝る。 「キミが外に出たのが見えたから。早く二人になりたくて」 「だからって便所出た後いきなり引っ張るなよ。俺が手ぇ洗ってなかったらどうすんだ」 「気にしないよ」 「気にしろって」 くだらないやりとりに二人は顔を見合わせて吹き出すように笑い、ちゅっと音を立てて小さなキスを交わした。 「あけましておめでとう、進藤」 「あけましておめでとう、塔矢」 ようやくヒカルはアキラの手を借りながら身体を起こし、改めて目の前で袴姿のアキラを見つめた。 正月だからって当たり前のようにこんなものを着こなしてしまうアキラは、たとえ相変わらずの猪でもやっぱり格好良いと思ってしまう。 ヒカルはとろんと緩みかけた目を慌てて見開き、浮かれっぷりがバレないように首を振った。 (ああ、やっぱカッコいいんだコイツ) 見蕩れるなというほうが無理だ。腰が据わって凛々しくて、いつの間にか太く成長した首が和装によく似合って。 浴衣姿も格好よかったが、どっしり構えた袴もいいなあ……ヒカルは再び緩みそうになる顔を無理やり引き締めるべく両手で押さえた。 「進藤?」 ――だってカッコいいんだもん。 初めて見た袴姿に、はしゃいでしまうのは許して欲しい。それでアキラを喜ばせてしまうのは少し癪だったりするけれど…… 「塔矢、ちょっと立って」 「え?」 不思議そうに首を傾げるアキラを立ち上がらせて、上から下までじろじろ眺めたり、一回りさせたり、遂には携帯のカメラに晴れ姿を納めたりしてみた。開き直ったヒカルは、アキラの袴を心行くまで堪能することに決めたようだ。 動くな〜と声をかけながらシャッターを切るヒカルに、アキラはほんのり頬を赤らめた。 「進藤、恥ずかしいんだけど……」 「だって、どうせこんなカッコ年に一回しかしないんだろ? 次に見れるの一年後ってことじゃん」 「……それって、もっと見たいってこと?」 アキラの浮かれた口調に、素直に頷けないヒカルは目を据わらせて黙り込む。が、その顔が真っ赤になっているのを見て、アキラは嬉しそうに微笑んだ。 「ボク、これ似合ってるかな」 「……うん」 「進藤が気に入ってくれたなら、ボクずっとこのままでいようかなあ」 「自惚れんな、バカ」 口唇を尖らせてそっぽを向くヒカルの言葉に、説得力は欠片もない。 アキラはにやにやとだらしなく顔を緩ませて、ヒカルの身体に腕を絡めてきた。 「嬉しいな。他の誰に言われるより嬉しい」 「あーもー、鬱陶しい」 「初詣に行く時は着替えようと思ってたけど、やめたくなってきたよ」 「あ、そうだ、初詣!」 再び口唇を寄せてこようとしたアキラの顎をぐいっと押しのけて、ヒカルは叫んだ。 キスを遮られてむくれた顔をするアキラに、ヒカルは「初詣、すぐには行けねーぞ」とため息混じりに告げる。 「え? どうして?」 「釘刺されたから」 「釘? ……誰に?」 「緒方先生。後で一局つきあえって言われた」 途端にアキラの顔が険しくなった。 「……緒方さんが?」 露骨に顔を顰めたアキラに、ヒカルのほうが驚いてしまう。 「いいよ、そんなの。緒方さんなんて放っておけばいい」 その上兄弟子に対してそんなことまで言い始めて、アキラにしてはやけに余裕のない反応にヒカルは困ってしまった。 「そんなわけにいかないだろ。俺、知らない間にいなくなんなって言われたんだぜ」 「どうせ酔っ払いだ。すぐに忘れる」 「緒方先生はそういうの忘れないと思うけど……」 「それでも構うもんか。酔っ払いの相手なんてごめんだって言ってやればいいじゃないか。キミが言いにくいならボクが言う」 鋭い目を吊り上げて次々に乱暴な物言いをする目の前のアキラに、ヒカルはすっかり呆れてしまった。 初詣にすぐ行けない、と言っただけだ。全く行けない訳じゃない。緒方相手に一局打って、それからいくらでも出かける時間はあるだろうに。 それなのに、このアキラの剣幕はどうだろう。何だか、緒方と聞いた途端に顔色を変えたように見えたのは気のせいだろうか。 「お前……緒方先生嫌いだっけ……?」 思わずヒカルがそう口にしてしまうような雰囲気だった。 ――緒方さんは、ボクが生まれる前から父に弟子入りしていたんだよ。 以前ヒカルにそう緒方のことを説明したアキラは、まるで自分の兄のことを話しているようなそんな穏やかな口ぶりだった。 今、ヒカルと向き合っているアキラの表情には何か鬼気迫るようなものが含まれている。緒方と何かあったのだろうかと、勘ぐりたくなるような分かりやすい変貌だった。 アキラはヒカルの問いかけに、少し躊躇いながらぽつりと呟く。 「別に……嫌いなわけではないけど」 「だよなあ。一緒に飯食いに行ったりしてたもんな」 「そんなのはどうでもいいんだ。とにかく、今キミが緒方さんに付き合う必要はない、そうだろ? あれだけたくさんのプロが集まってるんだから、誰とでも打てばいいじゃないか」 「そんなこと言ったって。緒方先生、わざわざ俺を捕まえて言ったんだぜ。逃げたら後で何言われるかわかんねえし」 「ボクはキミと緒方さんを打たせたくないんだ!」 アキラが強い力でヒカルの腕を掴む。 見開いた瞳の真っ直ぐな懇願にヒカルは気圧された。 「塔矢……?」 ――一体どうしたというのだろう? ひょっとして、嫉妬でもしているのだろうか? その割には感情表現がやけにストレートで、甘くて苦いやきもちの匂いがあまりに薄い。 しかしそれ以外考えられないと判断したヒカルは、すっかり興奮してしまったアキラを宥めるべく、その頭にぽんと手を置いた。 「心配すんなって。お前が言った通りどうせ酔っ払いなんだから、対局だってすぐ終わんだろ。ちょちょっと相手してやったら緒方先生も満足すっから」 「……でも……」 「大丈夫! なるべく早く終わらせて、お前と初詣行けるようにすっから。な?」 大サービス、とばかりにアキラの額にちゅっと口付けてやった。 アキラはぱちぱち、と何度か瞬きして、ほんのり赤らんだ頬を隠すように少し俯く。その様子を見て、ヒカルはようやくほっとした。 「な、そしたら早く戻ろうぜ。俺らがいなくなったの見て探しに来られたら困るし。」 「……分かった」 心からというわけではなさそうだが、ヒカルの言葉にやっと同意したアキラにヒカルは満足し、動きの鈍いアキラを促して立ち上がらせた。 ふいに、ヒカルに真顔を向けたアキラは、そっと目を伏せて口唇を近づけてくる。 ヒカルは目を閉じた。それから間もなく、口唇は柔らかく塞がれた。 先ほど部屋に入った時に強引に交わしたような乱暴さはなく、夜に何度も落とされる、優しい愛撫のようなキスだった。 僅かにヒカルの中の雄が煽られる。胸の炎の揺らめきをぐっと堪えて、口唇が離れた後、アキラの肩口にこつんと額を置いた。 「……すぐ済むって。」 「……うん……」 思わず息が上がりそうになった。 同じ屋根の下に、同業者たちが溢れるほど訪れている。こんなところで情欲に溺れるわけにはいかない。アキラだってそんなことは充分に分かっているだろう。 ふざけ半分でこんなキスを仕掛けてきたのならヒカルも怒れたのだが、アキラの目を見ると何も言えなくなってしまった。 ――なんでそんな心配そうな顔してるんだ? 何となく尋ねられないまま、少し気まずい雰囲気を纏って二人は部屋を後にした。 こうなったら、何が何でも緒方との対局をさっさと終わらせてしまわなければ。ヒカルは拳を握り締めた。 そうしないと、アキラに笑顔が戻らないような、そんな気がした。 |
やっとアキラ出て来ました。
しかしへたれている……