時折左手首の時計を確認しながら、ゆっくりと辺りを見渡す。 とうに陽は暮れて、くすんだ夜空の雲の上には星が輝いているのだろう。 二月の夜風は身に染みるような冷たさだった。 せめてマンションのエントランスの中に入ってしまえばいいのかもしれない。しかし植え込みの傍でじっと立ったままの影は、そこから動こうとしなかった。 どのくらいそうしていたのだろう。 やがて、駐車場に一台の車が戻り、そのドライバーがいつものようにマンションのエントランスに向かってきたところで、ふと寒空の下に立っている男を認めて足を止めた。 「……これはこれは。俺のマンションに何の用だ? アキラ」 「……お疲れ様です、緒方さん。お待ちしていました」 丁寧な言葉とは裏腹に、厳しく細めた目でじっと自分を見つめる弟弟子に緒方は苦笑した。 「こんなところで待っていたのか? 連絡をくれれば迎えにいったのに」 「お忙しい緒方さんの手を煩わせるのは忍びなかったので。お話があります。中に入れていただいてもよろしいですか」 慇懃無礼な態度を堂々ととるアキラに、緒方はとうとう吹き出した。アキラが更に目を細める。 「いや、悪い。いいぞ、入れ。いつからいたんだ? お前は本当に強情だな」 緒方に背中を押され、アキラは緒方を先導するようにエントランスを潜ることになった。落ち着いたデザイナーズマンションの十二階、アキラが緒方の部屋に入るのは一体何年ぶりになるのかすぐには思い出せない。 余計なものが少ないリビングで、アキラは促されるままソファに腰掛けた。緒方がコーヒーを運んでくるが、アキラは手をつけずにじっと緒方を見据える。 緒方はそんなアキラを見て、堪えきれないというように肩を震わせた。その茶化すような緒方の態度が、ますますアキラの眉間に皺を深く刻ませる。 「……緒方さん」 「そう怒るな。で? 話ってのは何だ?」 アキラに向かい合って座った緒方は自分で淹れたコーヒーを口に運びながら、未だ緩んだままの目尻で尋ねてくる。 アキラは胸に沸き起こる苛立ちを押さえきれる自信がなかった。まだ、緒方が持ってきたものがコーヒーだったから良かったものの、これで酒でも持ち出されようなら怒鳴りだしていたかもしれない。 「分かっているはずです。何故ボクがここに来たのか」 「……進藤か」 緒方の口から確信していた名前が出て来た時、アキラは言い様のない不快なものが胸をむかつかせるのを感じた。元より厳しかった顔を更に険しく引き締めて、細めた目で緒方を真直ぐに見据える。 「進藤と対局した時、貴方が何か言ったはずだ。あれから進藤はおかしくなった。ご存知でしょう? 倉田さんとの一局、貴方はすでに棋譜を見ているでしょうから」 緒方はコーヒーをそっとテーブルに戻す。ガラスのテーブルに陶器のカップがこつりと当たる音がした。 カップの傍に置きっぱなしのラークの箱に手を伸ばし、取り出した一本を緒方は口に咥える。静かな室内に、今度はライターに火が灯る音だけが響いた。 「……棋譜は見た」 「だったら、ボクの言いたいことが分かるはずだ」 ふうっと紫煙を吐き出して、緒方はゆっくり足を組んだ。 「俺が進藤をおかしくしたとでも言いたいのか?」 「それ以外に考えられない!」 「ああなったのはアイツの意志だ。まあ、きっかけは確かに俺が言った言葉にあるのかもしれんが」 アキラの頬がカッと熱くなった。どれだけ射抜くような視線を向けても、緒方は飄々として悪びれる様子もない。 少し顔を紅潮させたアキラを見て、緒方は煙混じりのため息をつく。 「その様子ならお前も棋譜を見たんだろう。どう思った?」 「どうっ……て……」 アキラは口ごもる。 質問していたのはこちらのはずなのに、逆に質問し返されて面白くないのは勿論だが、それ以上に緒方の質問の回答は答えにくいものだった。 倉田との対局の棋譜を見た時――アキラは全身が総毛立つのを感じて身震いした。 まだ自分のものにし切れていないのか、それとも倉田の巧みな手に翻弄されて思うようにいかなかったのか、所々甘い手は見られるものの、あの石の並びはかつてネット上で見た棋士のものと同じ。 そしてアキラは確信した。ヒカルが何故、勝った碁に落胆していたのか。 ヒカルはsaiになろうとしている――あの一局は、saiになりきれず悔いが残った一局だったのだ、と。 『俺はアイツがsaiに変わるのを待っているのかもしれん』 もう疑いはなかった。 緒方が、ヒカルにsaiの話を持ちかけたのだ。 あの棋譜は雄弁だった。あれはヒカルの碁ではない。あれではまるで…… 「saiのなりそこない、か」 ふいに緒方が口開き、俯きがちに口唇を噛んでいたアキラがはっと顔を上げる。 「アイツはどうやらドツボに嵌ったみたいだな」 「緒方さん……」 「俺が言った言葉はこうだ。『お前の碁は何かに取り憑かれたモノマネだ』」 「!」 目を見開くアキラを前に、緒方は表情を変えずに続ける。 「アイツはその言葉を履き違えて、どうやらホンモノを目指そうとしているみたいだな」 「……履き違えた?」 「そういう受け取り方をするとは思わなかったが」 アキラは何度も瞬きして、目の前の緒方をまじまじと見つめた。 緒方は嘘をついているようでも適当にごまかしているようでもない。 「俺が言ったのはそういう意味じゃあなかったんだが……どうやらまだ気づいていないようだ。心配いらない、そのうち気づくさ」 「そのうちって……!」 「アイツがあと一局王座本戦トーナメントを勝ち抜けば、次に当たるのは俺だ。心配するな、目を覚まさせてやる」 アキラはキッと緒方を睨みつける。 王座戦のトーナメント二回戦で、アキラは芹澤に中押しで敗北していた。その芹澤の三回戦の相手が緒方である。緒方の言葉は、正しくは「芹澤を倒せば次に当たるのは」、だった。 アキラを破った芹澤に当然のように勝つつもりでいる目の前の男のふてぶてしさが憎たらしい。 「芹澤先生との対局は明後日でしたか。せいぜい頑張ってください」 「激励有難く受け取っておこう。まあ、その前にアイツが潰れないとも限らんがな」 「……緒方さん」 「そう怖い顔をするな。……大丈夫だ。お前が思ってるほど深刻な状況じゃないさ」 緒方は軽く肩を揺らして笑いながら、新しい煙草をもう一本取り出す。口に咥えてライターの火を近づけると、炎の光が眼鏡を反射させて緒方の表情が読めなくなった。 「正月にアイツと打った時、アイツがsaiを持て余していることに気づいた。それを指摘されたアイツがここまで極端なことをするとは思わなかったが、今頃違和感に苦しんでるところだろう。いずれ気づく。人は、他の何者にもなれないと」 アキラは目を見開き、そして瞬きする。 (他の……何者にもなれない……?) ごくりと唾を飲み込んで、緒方の言葉の意味を理解しようと思考を巡らせた。 「時間がかかろうと、気づくさ。あいつもそこまで馬鹿じゃない」 「で……でも……!」 アキラは膝の上で両の拳をきつく握り締め、振り絞るような声を出した。 「緒方さんは言った! 進藤がsaiに変わるのを待っていると……! あれは、あの言葉は何なんですか!? 矛盾している、そんなの……」 「アキラ」 煙と共にアキラの名前を呼び、緒方は真っ直ぐにアキラへ視線を向けた。 「……お前も進藤と同じだな。そのうち分かる……」 「そのうちって!? 緒方さんはいつもそうだ! 肝心なことをはっきり言ってくれない! ボクは今すぐ本当のことが知りたい!」 「焦るな。進藤は大丈夫だ。お前が思うようなことにはならないさ」 「その保証はどこにあるんです! 仮に緒方さんの言った通り……待っていれば進藤が元に戻るとしても、もうボクはこれ以上あんな進藤を見ていたくない!」 そう吐き捨てたアキラは勢いそのまま立ち上がり、脱いでいたコートを手に緒方に背を向けた。 「お邪魔しました」 「送るぞ」 「結構です!」 間髪入れずに返ってきた鋭い返事に、緒方はくつくつと笑った。 乱暴にドアを閉める音が聞こえてくる。――なんとまあ、激情家に育ってしまったものだ。 「心配するな、アキラ」 緒方は口元に笑みを浮かべながら、小さい頃から見守ってきた一直線の青年の面影に目を細める。 ヒカルの変化はあまりに分かりやすく、緒方も若干眉を顰めていた。五月を待たずに自ら変わろうとしたヒカルは、もうしばらく苦しい時を過ごすことになるのだろう。 (だがな、進藤) お前にとってのsaiと、俺たちにとってのsaiの存在が同じものだとは限らないんだぜ―― 緒方は吸いかけの煙草を灰皿に押し付けた。 すでに冷えたコーヒーをぐっと飲み干し、対面に置かれている一口もつけられていないカップを見た。 saiが何者で、ヒカルにどのような関わりがあったかは知らないが、大きな存在であったのに違いないのだろう。 時間はかかっても、いつか気がつく。 人は大きな存在に憧れこそすれ、そのものに取って代わることなど不可能だということを。 追い続ける存在に追いついてしまったら、そこから何処にもいけなくなってしまうということを。 (俺はな。お前が、俺にとっての「sai」になるのを待っているんだ) ――俺に背中を見せてみろ。 俺に、お前の背中を追わせてみろ―― 「何十年かかるかは分からんがな」 ぽつりと呟き、緒方はふっとため息をついた。 ヒカルのことは心配ない。根が素直な分思い込むとタチが悪いが、ひとつきっかけがあればすぐにいろいろなことに気がつくだろう。 どちらかというと、心配なのは…… 緒方はもうひとつ、今度は大きなため息をついた。 空のカップをテーブルに置くと、向かいでぽつりと取り残されたコーヒーカップの中で、黒い波紋が小さく広がった。 |
緒方さんに噛み付いてみたアキラ。
しかし相手にならない……