BABY DON'T CRY






「ありがとうございました」
「……ありがとうございました」
 対局者に向かって頭を下げたヒカルのこめかみから、一筋の汗が滑り落ちた。
 今まで息をするのを忘れていたかのように、半開きの口唇から深く細いため息が漏れる。
 胸の辺りに何か塊がつかえているように、息苦しい。そんなヒカルの様子を見た周囲の誰も、この後の検討を持ちかけようとはしなかった。
「すいません……俺、退席していいですか……」
「そ……そのほうがいいよ。帰って休みなさい」
 王座戦本戦トーナメント三回戦、対局相手の峰崎八段が腫れ物に触れるかのような声色でそうヒカルに告げた。
 ヒカルは峰崎と、対局の様子を見守っていた人々に一礼して、ふらつく足取りで部屋を後にする。
 相手が不調で助かった、と思った。
 三回戦、ヒカルは予想していた時間より数時間早く、中押しの勝利を手にしていた。


 廊下で見知った顔がヒカルを待ち構えていた。
「……和谷」
 ヒカルがその名前を呟くと、廊下の壁に背中を凭れさせ、腕組みをして目を閉じていた和谷が顔を上げる。
 ヒカルを見つけて微かに笑みを浮かべたようだった。
「よう、おつかれ」
「……ああ……」
「なんだよ、辛気臭え顔しやがって。……勝ったのか?」
 ヒカルはようやくぎこちない笑顔を作る。
 頭がくらくらして、本当は早く棋院を立ち去りたかった。
「ああ、中押し」
「やったじゃん。これで次は緒方先生か」
「……うん……」
 和谷の明るい声が無性に胸に痛みを与える。
 きっと、和谷に対して後ろめたい気持ちがあるからだ――ヒカルがちょうどそんなことを思った時、まさに和谷がヒカルが触れて欲しくなかったことを口にした。
「お前……しばらく研究会来てねえな」
「……ああ……」
「まだ……あんまり調子よくねえのか?」
 ヒカルは軽く口内の肉を噛んで一瞬押し黙り、すぐに笑顔を作って見せた。ヒカルとしては、笑顔のつもりだった。
「ああ、最近ちょっと……疲れやすくて。悪いな」
 和谷の言う通り、ヒカルはしばらく研究会に出席していなかった。
 森下の研究会だけではない、芹澤の研究会にも顔を出していない。帰国後のアキラに二度ほど誘われたが、いろいろな理由をつけて断った。
 今は、研究会で複数の人間の意見を聞くのは怖かった。佐為に近づけていた意識に違うものが取り入れられそうで、「佐為」が自分から離れてしまいそうで。
 最近のヒカルは、棋院で必要最低限の義務をこなしたら、真っ直ぐ帰宅するのが常になっていた。実際身体の調子が悪いのも本当だが、様々な人に触れるとそれだけ雑念も多く入り込む。
 何より、こうして親しい人たちの近くにいると、気持ちが和らいでしまってどうしようもなくなる。
 あの、棋譜だらけの部屋に帰りたくなくなってしまう。
 そんな理由で、あまりアキラとも顔を合わせていなかった。
 メールのやりとりは多いものの、直接逢うときっとアキラはヒカルを心ごと引っ張ってしまうだろう。
 強く引かれたら、抵抗できないことをヒカルは分かっていた。
 そうしたら、二度と佐為に戻れない。
「……そうか。調子よくなったらまた出て来いよ。森下先生も、待ってるから……」
「……うん」
 ヒカルはできるだけ自然に微笑んでみせて、 じゃあ、と和谷の前を通り過ぎようとした。
 今日は手合い日でも何でもない。自分に会うためだけに和谷がここで待っていてくれたことを分かっていながら、ヒカルはそれに気づかないフリをした。
 ――ごめん、和谷。
 和谷が自分を心配してくれているのは痛いほどよく分かっている。こんな嫌な空気を纏った自分に話しかけてくれるのは、アキラを除けば和谷くらいのものだった。
 でも、モタモタしている時間がない。こうしている間にも一分一秒が着実に過ぎていく。
 できるだけ早く、佐為を自分のものにしてしまわなければ――
「――進藤!」
 背中を呼び止める和谷の声に、ヒカルはぴくりと身を竦ませた。
 振り返ると、和谷が少し泣きそうな笑顔でヒカルを見ている。
「……お前、碁、嫌いになったりしてないよな」
「え……?」
「俺ら碁打ちなんだ。……楽しんで打とうぜ!」
 そう言って歯を見せて笑った和谷の前で、ヒカルは目を大きく見開いた。

 ……楽しんで……?


 ――ヒカル、ねえ、打ちましょうよ。打ちましょうってばあ。


 ねえヒカル。囲碁は素晴らしいでしょう?――







 ……楽しんで……









 帰宅して、ヒカルはまず居間に携帯電話を置く。
 電源は切らないが、音は消してマナーモードにしておく。最近はそれが日課になっていた。
 部屋に持ち帰ると、ふいに着信があった時に集中が途切れる。かといって、常に電源を落としていれば、かけてきた人間――特にアキラが訝しがらないはずがない。
 とりあえず電話やメールを受けておけば、後からかけ直したり遅れて返事を送ることはできる。電話を取り損なった、ちょっと寝ていたなどと言い訳すればいい。
「ヒカル……帰ったの?」
 台所から顔を出した母親にちらりと視線を向け、ただいま、と告げた。
 何か言いたいことがあるだろうに、以前ヒカルが母親の注意に対して声を荒げてからはあまり口を出してこない。しかし、こんなふうに、様子を伺うように見られているのもまた苦痛だった。
「部屋で少し打つから……。声、かけないで」
 ヒカルがそれだけ言って背中を向けると、母親はもう何も言わない。
 今では、ヒカルが不機嫌になるため夕食に声をかけてくることもなくなっていた。
 不思議と食欲がなかった。集中しすぎているせいか、身体をほとんど動かしていないせいか、胃の周りにどんよりと重たい感触だけがあってすっきりしない。食べ物を入れるということを考えたくないような、不快な重さだった。
 そうして今日もヒカルは碁盤に向かう。
 佐為の一手を極めようと、碁盤を睨んで心を研ぎ澄ませる。
 並べ続けた数々の棋譜を部屋中に敷き詰めて、佐為が何故この手を打ったのか、この手は何処を見据えて打ったのか、佐為の意識を感じながら……


 ……楽しんで打とうぜ……


 和谷の声が頭の中で反響している。

(アイツはいつも……楽しそうに打っていたっけ……)

 ――ヒカル、もう一局! ああ〜、寝てしまわないで! ヒカル!

(いつもいつも、打ちたくて仕方ないって感じだった)

 ――もっともっと打ちましょう! まだまだ! これからですよ!

(アイツ……碁が大好きだったから)

 ――ねえ、碁は楽しいでしょう?

(今の俺は……?)


 佐為の碁を求めているはずなのに。
 佐為の気持ちに近づこうとしているはずなのに。
 あんなに楽しんで打っていた佐為の碁が、
 ……辛くて仕方ない……




 カタリと、ドアの外で物音が聞こえた気がした。
 はっと意識を現実に引き戻されたヒカルは、何度か瞬きをして、無意識に額に手をやった。額は汗で濡れていた。
 そしてドアを見やる。眉間に皺が寄るのが分かった。
 余計な物音で集中力が途切れた――そんなことを思いながら、ヒカルは重い荷物を呼吸を溜めて持ち上げるように、ゆっくり立ち上がった。
 のろのろとドアに近づいて、ノブを握る。開いたドアの隙間に人影は見えず、廊下にぽつりと何かが置かれていた。
 盆の上に、おにぎりを乗せた皿が置いてある。包んでいるラップが薄ら曇っているそれは、まだ温かそうに見えた。
 ヒカルは言葉を失った。振り返って部屋の時計を見る――午前一時。いつのまに、こんなに時間が経ってしまったのだろう。
 そのまま茫然とおにぎりを見下ろして、ヒカルは呆けた表情で立ち尽くしていた。
 やがて、下口唇をぎりと噛み、ヒカルは屈みこんで盆を手に取った。棋譜を掻き分けて、碁盤の横に置く。
 棋譜にまみれた室内で、ヒカルは静かにおにぎりを口にした。
 温かくて、口の中ですぐ解れる。……母親はこんな時間まで起きて待っていたのだろうか……
 久しぶりの温かい食べ物に、胃がぎゅうっと縮み、異物が刺し込むような違和感を感じた。それでもヒカルは違和感を堪えて皿の上のおにぎりを全て食べた。
 鼻の奥が、妙にジンと痛んだ。








ヒカルは何処を目指して走ってるんだろう。