「さよなら」 抑揚のない冷たい声は頭上から聞こえて来た。 俯きがちになると肩まで伸びた黒髪が邪魔をして視界を遮る。物音で、ついさっきまで向かいの席に座ってコーヒーを飲んでいた人が立ち去ったことを察する。 しばらく顔を上げることができなかった。更にそこから少しの時間を要して、じんわり痺れを感じる頬に気がつき、ようやく打たれたことを思い出した。 そっと左の頬に触れると何故だか苦笑が込み上げて来た。 全く、馬鹿馬鹿しい結末になってしまった。 最初から、大したことはできないとあれだけ忠告しておいたのに。 それでも彼女がどうしてもと言うから、形はどうあれつき合うことを渋々承諾したのだ。 不本意とは言え、名目としては恋人同士となったのだから、できる限りのことはしてあげようと思った。週末の電話にはなるべくつき合ってやったつもりだし、長い髪が好きだと言われてしばらく切ることをやめていた。 悪戯に家に押し掛けられてもきつくは咎めなかったし、我が儘も許してきた。欲しいと言われたプレゼントだってそれなりに買い与えた。 だと言うのに、やはり彼女が自分にとっての囲碁の存在を越えられなかったのがそんなにも不満だったのだろうか。 「馬鹿馬鹿しい」 はっと短く息をつき、口元に笑いを滲ませる。 あれだけ忠告した。そう、最初に断っておいたはずだ。 それでもいいと彼女は言った。なのに、悪者は何故か自分ということになったようだ。 散々振り回された。あまりに振り回されて、我が儘な態度にもそろそろ慣れてきた頃だった。 ……好きになりかけていた頃だった。 堪え症のない彼女は、長くは待ってくれなかったらしい。 苦笑にため息が混じり始めた頃、ようやく塔矢アキラは顔を上げた。 鬱陶しい長い髪を乱暴に耳にかけ、前を向いた表情はすでに引き締まっている。 とんだ通り雨だったと思えばいい。それが四ヶ月も続いた、それだけのこと。 これで明日からは今まで通りに囲碁に集中できる。興味のない映画につき合わされることもない。邪魔な髪も以前と同じ長さまで切ってしまおう。 そう心の中で呟くと、アキラは憑き物が取れたようにふっと肩の力を抜き、彼女が触れもしなかったレシートを手にした。話が終わった以上、飲む気分じゃなかった紅茶を最後まで飲む必要はない。 立ち上がろうと足に力を入れようとした時、その声は唐突に背中にかけられた。 「お兄さん、フラれちゃったの?」 浮かしかかっていた腰がぴたりと動きを止めた。 振り返りかけて、かけられた言葉の中身を反芻し、胸の中に燻った煙のような気分の悪さが広がった。 聞いたこともない、不躾な声の相手に、いちいちつき合ってやる必要は無い。アキラは背後に目線を合わせないように立ち上がった、それなのに声は追って来た。 「ねえ、お兄さんてば。聞こえてる? 髪の長いお兄さん」 不必要に大きい声は、その周囲に髪の長い男性が自分一人しかいないと分かっているアキラを酷く苛立たせた。黙らせるつもりで、鋭く釣り上げた目をきっとその方向に向けた、視界に映った金色の髪。 鮮やかな金の下でぱちぱちと瞬きする大きな目、ほんのり赤らんで見える頬にあどけなく半開きの口唇。きょとんとした子供っぽい顔が、振り返ったアキラと目を合わせた途端、腰が砕けるような眩しい笑顔に変わった。 「あ、やっと気付いた」 アキラは毒気を抜かれたように呆然と彼と向かい合った。その無邪気とも表現できる真直ぐな瞳の光に、不覚にも目を奪われていた。 立ち上がりかかっていたためおかしな体勢のままで、背凭れを掴んで体重を支えていた腕がぶるぶる震える。はっとしたアキラは背凭れから手を離し、きっちり椅子の傍に立ち上がって改めて青年を見た。 歳の頃は十代後半といったところだろうか? 少なくともアキラより年下だろうとの予想は疑わなかった。膝が破れたジーンズに着古したパーカーの彼と、スーツ姿のアキラとの対峙は端から見ると酷く違和感があっただろう。青年はアキラの真後ろに座り、椅子をアキラに向けて、背もたれに乗せた左腕に更に顎を乗せ、楽しそうな上目遣いでアキラを見上げていた。 「……なんだキミは」 相手にするつもりはなかったのに、彼の悪気ない様子につい尋ねてしまった。 青年はにこにこと屈託なく笑い、「ねえ、フラれちゃったの?」と不名誉なことを再び聞いて来る。 話すだけ無駄か。そう判断したアキラが青年を無視して通り過ぎようとした時、青年は無遠慮にアキラの腕を掴んで来た。 「ね、俺癒してあげようか。」 「はあ?」 突拍子も無い言葉に思わずアキラの眉が寄る。 「俺、癒してあげる。一週間だけ限定で。ね、傍に置いてみない?」 新手の商法だろうか。アキラはうんざり肩を竦め、彼の腕を振り解く。 「押し売りなら他を当たってくれ」 「あ、待ってってば」 後ろからついてくる青年に耳を貸さず、アキラはまっすぐレジへ向かう。差し出したレシート通りの金額が告げられ、財布を開いて金を払う間にも、青年はしつこくアキラの傍から離れない。 「変な商売とかじゃないよ。お金とかいらないし。一週間俺を傍に置いてよ、癒したげる」 「断る」 「信用してないだろ。俺ってホントに癒し系……」 「何処の誰が初対面の怪しい男を信用するんだ!」 あまりのしつこさに思わず声を荒げる。店を出てから駐車場まで、ぴったりくっついて来て妙な戯言を囁く青年にすっかりうんざりしてしまった。 青年はアキラの剣幕で少し驚いたように目を丸くしたが、大して動じた様子は無く、めげない笑顔を向けて来る。 「騙されたと思って、試しに傍に置いてみない?」 「騙されると分かってるものに手を出す趣味はないんでね」 なんでこんな怪しい青年の相手を真面目にしてやらなければならないんだろう。アキラは車のキーを取り出す間ももどかしく、運転席を乱暴に開けて無情にもドアを閉める。 青年はとんとんと窓を叩いて来た。全く、なんてしつこさだ。アキラは呆れたように呟き、外の訴えには構わずにエンジンをかけた。シートベルトをきっちり締めて、サイドブレーキに手を伸ばす。 ふと、ノックが止まった。ちらりと窓を見ると青年の姿がない。ようやく諦めたか、と辺りを見渡しても、何処にも彼が見当たらない。つい先ほどまでいた人間が目の届く範囲から消えたことを不審に思い、思わずアキラは窓を開けてその下を覗き込んでしまった。 「お、おい!」 よせばいいのに、アキラは覗き込んだその先に声をかけてしまった。 彼は地面に転がっていた。というのが、アキラが表現し得る実に的確な事実だ。 ざらついたコンクリートの地面にうつ伏せて、横に向けた顔は苦しそうに歪んでいる。つい先ほどまでにこにこと笑っていたのが嘘のようだった。 仕方なく、アキラは彼にぶつからないよう慎重にドアを開けて、車を降りる。倒れたままの青年の背に手を置き、軽く揺さぶった。 「おい……大丈夫か」 「……」 「おい、聞こえてるか?」 青年は力なく首を縦に振った。息遣いが荒い。アキラは少し躊躇って、それでも彼の額に手を伸ばしてみた。どうやら熱があるようだ。初めて見た時に頬が赤いと思ったのはそのせいだったのだろうか。 「起きれるか?」 病人では仕方ないと、アキラは彼の脇に手を差し込んで身体を起こすのを手伝ってやった。青年はまた力なく頷いた。アキラに掴まりながら、なんとか立つことはできるようだ。 「病院に行くんだな。救急車が必要なら呼んでやる」 「お兄さん家がいい……」 「馬鹿なことを言うな」 まだそんなことを言っているのか。アキラは心底呆れて、腕に掴まる青年を振り解こうとしたが、頼り無くふらふら身体を揺らしながら縋るような目を向けて来る彼の様子に何故だか言葉が詰まる。 困っているのはこちらだと言うのに、どうしてそんなに寂しそうな顔をして見上げて来るのだろう。 ぎゅうっとスーツの袖を握りしめて来る青年に、普段なら見知らぬ他人がどうなろうと何ら関心を示すことのなかったアキラが、ついに根負けした。 「……分かった、病院まで送ってやる。隣に乗れ」 その言葉に、苦しいというよりは悲しそうに眉を歪めていた青年の表情がぱっと輝いた。 途端、掴んでいたアキラの袖から手を離し、いそいそと車の助手席側へ回って行く。その素早さにアキラは呆気に取られ、すぐに呆けた自分にはっとして、眉間に皺を寄せた。 「おい、元気じゃないか」 アキラの言葉も聞かず、すでにロックが外れていた助手席のドアに手をかけて、青年はちゃっかり乗り込んでしまった。シートベルトをいそいそと締める様子が開けっ放しだった窓から見えて、アキラは深く長いため息をつく。 声をかけてしまったのは自分なのだから、仕方ない……。観念したアキラは、渋々運転席に戻った。隣の青年は相変わらず赤い頬をしているが、悪びれない笑顔は確信犯としか思えない。 「近くの病院で下ろすからな」 「病院はダメ。俺保険証持って無いし」 「後から持っていけば差額は返金してもらえる」 「持って来て無い、じゃなくて持ってないの。それにお金もこんだけ。しかも全財産!」 青年はポケットを探り、手のひらに並べた500円玉と100円玉三枚、二枚ずつの10円玉と1円玉をアキラに自慢げに見せた。 アキラはこめかみを押さえ、怒鳴り出したい気分も指先の力に合わせてぐっと抑える。 「じゃあ、何処に行けと言うんだ」 「だから、お兄さん家」 「何の義理があってボクの家に病人を連れて行かなければならないんだ!?」 我慢は長くは続かなかった。いけしゃあしゃあと図々しい提案を寄越す青年は、そんなアキラを見ても怯んだ様子は無い。それどころか、ふにゃりと笑った後、シートに後頭部を預けて目を閉じてしまった。 「俺、少し寝るね。着いたら起こして……」 「お、おい、寝るな」 ぎょっとしたアキラが彼の肩を揺するが、くたりと力の抜けた首が揺さぶりに合わせてぐらぐら動くのみ。彼はほんの数秒の間に眠りに落ちてしまった。 アキラは自分の迂闊さを心から後悔した。一言だって相手にすべきではなかったのだ。 見たところそれほど小汚い格好でもないが、家出少年か何かなのだろうか。だとしたら厄介なものを拾ってしまった。おまけに病人だ。 病院に捨ててきてしまえばいい。いつものアキラなら、例え彼がほぼ文無しだろうがそうしただろう。 しかしこの呆れるほどの強引さが、やけにアキラの神経を麻痺させているような気がする。 『俺、癒してあげる』 きっぱりと、アキラの目を見て彼が告げた迷い無い言葉。 ほんの数十分前には、その席に彼女が座っていた。 「……」 馬鹿馬鹿しい。彼女が去った直後に呟いた台詞を再び口にする。 初対面の怪しい青年を信用したつもりなどさらさらないが、相手は病人だ。そう邪険にするのも気の毒かもしれない。 おおよそ普段の思考からは掛け離れた生温い答えを胸に、アキラはハンドルを握った。 ――フラれちゃったの? そう、自分はフラれたのだ。フラれて少し自棄になっている。 我が儘な女性に振り回されて、そうしてひょっこり現れた得体の知れない青年にまで振り回されて。 そんな惨めな状況のせいで、気紛れを起こしたくなっただけだ。気紛れ。生真面目としか言われたことのない自分には、酷く似つかわしく無い、小気味のいい言葉に感じる――アキラは自嘲した。 「癒してあげる、ね」 ――面白い、癒してもらおうじゃないか。 やや乱暴に踏んだアクセルのせいで、車は少し前のめりに発進した。 |