BAMBINA






 車が停まっても、助手席で眠りこける青年はすぐには目を覚まさなかった。
「おい、起きろ」
 声をかけても反応が返って来ない。焦れたアキラは苛立たし気に、全体重をシートに沈めてぐっすり眠っている青年の頬をぺちんと叩いた、つもりだった。
 頬に触れた瞬間、その熱さに思わず手を離す。
「……おい」
 さっきまでへらへら笑っていたのに。
 随分熱が高くなっている――アキラは仕方なく運転席から降り、外から助手席のドアを開けた。ぐったり身体から完全に力が抜けている青年を引き摺るように外に出し、腕を肩に担ぐ。せめて目を覚ましてくれればいいものを、意識が離れているものだから抱える身体が重くてたまらない。
「なんで、ボクが、こんなことを」
 青年を引き摺りながら、呼吸の合間に情けない文句を途切れ途切れに呟く。
 とんでもないものを拾ってしまった。何が癒してあげる、だ。
「……これじゃあべこべじゃないか」
 何とか辿り着いた部屋で、きっちり整えられていた自分のベッドの上に青年の身体をどさっと落とす。
 これだけ衝撃を与えても目を開けようとしない。驚きは感心に変わりつつあった。
 薄ら額に汗をかいて、金色の鮮やかな前髪がぺたりと皮膚に張り付いている。アキラは渋々タオルと自分のパジャマを取り出し、青年の服に手をかけた。
 男の服を脱がす趣味などこれっぽっちも無いが、薄汚れた格好のままでベッドに横たわられるのは気分が悪い。なるべく視線を逸らしながら、事務的に服を着替えさせる。自分よりも細い身体をしている青年には、パジャマは少し大きいようだった。
 着替えが終わり、身体をきちんと布団の中に収めてやって、目に見える汗を軽く拭いてやった。それから別室に足を向けて体温計を持ち帰り、脇の下に挟んでやる。体温を測っている間、冷凍庫を覗き込んで氷の数を確かめた。
 氷枕を作って寝室に戻ると、ちょうど体温計が測り終わった合図の電子音を鳴らしていた。手に取った体温計の表示は、38度。アキラは思わず目を丸くした。
 布団が足りないと、ありったけの毛布を上からかけてやる。それから水分が必要だ。何か栄養のあるものは――
 甲斐甲斐しく動き回り、彼の苦しそうだった寝顔が穏やかな表情を取り戻した頃、アキラは安堵でベッドを背凭れにしながら船を漕ぎ始めた。
 眉間に皺を寄せ、少し唸りながらアキラは眠りに身を委ねる。その夜、アキラは悪魔が世界を侵略しにやってきた夢を見た。



 ***



 どれだけ遅く床に就いても、毎日決まった時間には必ず目が覚める。
 それはアキラの日常的な習慣として身体に根付いていた。
 今朝も同じように、その時間が近付くにつれ眠りが解けてきた。なんだか嫌な夢を見ていたな、と軽く寝返りを打ちながら、もう少し頭が覚醒するのをぼんやりと待つ。
 いつも通りの朝。のはずだが、少しずつ目覚めてきたアキラの鼻が、何か慣れない匂いを嗅ぎとっていた。
「……?」
 薄ら開いた瞼の間から見える景色は、紛れも無く自分の部屋だった。しかし何か違和感がある。何故こんなに身体が疲れているんだろう――アキラが上半身を起こしながら何の気無しに見下ろした自分の格好は、ジャケットこそ脱いでいるものの、スーツ姿のままだった。
「!」
 がばっと飛び起きて、ベッドから降りる。ベッドの傍らに山のような毛布が積まれていた。
 徐々に昨日の出来事を思い出し始めたアキラは、様々に浮かんで来た疑問を頭の中だけで対処しきれなくなり、行動に移すことにした。
 寝室を飛び出して、匂いの出所と思われる居間の奥の台所まで駆け出して行く。
「あ、おはよ〜」
 そこには、夢でも幻でも無い、昨日アキラがうっかり拾ってしまったおかしな青年が立っていた。
「お前ん家、ろくなもんないんだな。大したもの作れなかったから、今日は買物行っていい?」
「き、き、キミは」
「あ、熱? 下がった! 看病してくれてサンキュな。お礼に張り切ってうまいメシ作ろうと思ったんだけどさ〜、冷蔵庫もっとマシなもん入れとけよ」
 あっけらかんと告げた青年は、その格好はアキラが嫌々着せたアキラのパジャマ姿のままで、アキラの元彼女が置いて行った調理器具なんて手にしながら、にこにことキッチンに向かっている。
 アキラはぱくぱくと口を空振りさせ、何か怒鳴りたくても何も頭に浮んでこず、その妙な光景をひん剥いた目で凝視し続けた。
 何とか頭を整理しようと最大限に努力する。そう、この男を連れて来てしまったのは他でも無い、自分自身だ。それは認めよう。おかしなことを抜かす青年だったが、熱の高い病人だったため、仕方無しにここまで連れて来てしまったのだ。
 そうして心から実感する。――なんて馬鹿なことをしてしまったんだろう!
「さ、さ、テーブル座って! 俺のお手製の朝御飯、召し上がれ〜」
 語尾にハートマークを飛ばしていそうな甘ったれた声で彼はそう告げて、まるで自分の家のように食器を取り出しはじめる。
 ふわりと漂った久しぶりの味噌汁の匂いに、不覚にもアキラの腹がくうと音を立てた。



 目の前に並んだ料理はどれもほかほかと湯気を立てて、できたての存在感が抜群だった。
 白い御飯に味噌汁、中のいくつかの具材が冷蔵庫に入っていたことも知らなかったアキラは素直に驚いた。それからプレーンオムレツに恐らく手製と思われるトマトのピューレソースが美しく彩りを添え、小鉢には珍しいキャベツのお浸しが乗っている。
「サラダにしようかと思ったんだけどさ、いまいち新鮮そうじゃなかったから」
 というのが、彼の弁だった。
 それはそうだろう。これらの材料がアキラの家の冷蔵庫にあったのなら、それは一週間以上も前に元の彼女がここで食事を作った名残なのだから。
 見知らぬ人間に用意された食卓だが、アキラは怪しみながらも手をつけ始めた。昨日この青年の世話をしてやったのは事実なのだし、彼がお礼と言うならまあそれでもいいだろう。何より、自分では作ることができない久しぶりの和食に腹が素直に空腹を訴えている。
 口にしてみると、味付けは料理に慣れた人間が作るそれで、嫌味なく美味しいと思えるものだった。別段凝ったものが並んでいるわけではないが、シンプルな食事は朝から胃に優しくてちょうど良い。
 そうして(何故か)向かい合って食事をしながら、アキラはぽつぽつと謎の青年に質問をし始めた。当たり前のことだろう、アキラは目の前で自分の作った食事をもりもり食べている彼のことを何一つ知らないのだ。
「俺、ヒカル。進藤ヒカル」
「……進藤か」
「も〜、ファーストネーム強調してるのにそれかよ。ま、いいけどさ。お兄さんは?」
「……塔矢アキラ」
「塔矢アキラね。ふふ、俺も真似して苗字で呼ぼっと。よろしく、塔矢」
 相手が名乗った以上、自分も名乗り返すのは当然の礼儀だと思ったまでだが、よろしくされる謂れはない。
 アキラが憮然としているというのに、ヒカルは気にも留めていないようだ。
「塔矢っていくつ?」
「……キミこそいくつなんだ」
「俺、21だよ」
 アキラは口に運んでいた味噌汁を吹き出しかけた。会ったばかりの人間の前で醜態を晒す訳にはいかないので、ぐっと押さえ込んだ衝撃が喉で暴れて咽せてしまう。
「おい、大丈夫かよ」
「に、21だって……?」
 未成年じゃなかったのか。それも驚きだが、何より驚いたのはアキラと同じ年だということだ。
 塔矢はいくつだとうるさいヒカルに、渋々自分の年齢を伝えたら、「な〜んだタメじゃん!」とそれまでも無礼だった態度が更に輪をかけて無礼になった。
「お兄さんじゃなかったんだあ。お前老けてるなあ」
「……うるさい」
 二人ですっかり平らげた食事、空になった皿をヒカルは満足そうに眺めて、意外にもさっと椅子から立ち上がり後片付けをし始めた。かちゃかちゃと手際良く皿を重ねて行くヒカルに驚いたアキラが目を丸くしていると、ヒカルはおもむろにアキラを振り返った。
「ねえ、お前何の仕事してるの? 時間はいいのか?」
「あ」
 アキラは時計を見た。いつも通りに目覚めたのだから特に支障はない時間とは言え、そろそろ支度を始めなければ間に合わない。考えたら自分は皺くちゃのスーツのままだった――アキラは自分の格好を見下ろしてため息をつく。
 そんなアキラを見て、ヒカルはなんだか気まずそうに笑った。
「悪い、お前床に座ったまま寝てたからさ。俺がベッド取っちゃったんだろ? とりあえずベッドで寝かせようと思ってずり上げたんだけど、服のことまで考えてなかった」
 ごめんな〜、と大して悪いように思っていない調子で笑われて、何だか釈然としないアキラだが、あまりヒカルの相手をしていると本当に遅刻してしまう。ふうと息をついて、後片付けはやる気充分のヒカルに任せることにした。
 踵を返しかけたアキラに、ヒカルが焦ったように声をかけてくる。
「あっ、ねえねえ、だから何の仕事してんのって」
「……棋士」
 言っても分からないだろうと思ってアキラは答えた。
 ところが、少しの間を経て、ヒカルの口から意外な言葉が出て来た。
「……棋士……って、ひょっとして……碁の?」
「え?」
 アキラは振り返ってまじまじをヒカルを見つめた。
 空の皿を持ったまま上目遣いのヒカルは、アキラを探るような少し頼り無い目をしている。
「キミ……碁、詳しいのか?」
 思わずそんなことを尋ねていた。
 普通、このくらいの年齢の、しかもヒカルのようなちゃらんぽらんな青年が、「棋士」と言われてすぐに囲碁を連想できるとは考え難い。
 ヒカルは少し戸惑ったようにアキラから視線を逸らして、後片付けの続きを始めた。
「……知り合いが、ちょっと囲碁やってて」
「……ふうん」
「ってことは、今日手合い?」
「……、いや、今日は指導碁だ」
「ふうん、早くしないと遅れるぞ〜」
 とってつけたような少し不自然な笑顔を向けて、ヒカルは皿を抱えてキッチンへと消えた。
 アキラはヒカルの残像を目で追い、数回瞬きする。
 ――手合いだって?
 知り合いが囲碁を齧った程度で「手合い」なんて言葉が出てくるとは思えない。
 知り合いというのは、プロ棋士の誰かなんだろうか……
「……まあいい、とにかく支度だ」
 独り言を呟いて、アキラは着替えるために寝室へと戻った。


 アキラが支度を終えた頃、ヒカルもまた使用済みの食器を綺麗に洗った後で、戻って来たアキラを見て「お、今日は昨日と違うスーツだな」なんてソファのクッションをいじりながらにこにこ笑っていた。
「……キミはこれからどうするんだ」
「どうって? 部屋の掃除でもして、夕飯の買物行って来るかな〜」
 あー、でもこの部屋あんまり散らかって無いから掃除すぐ終わるかも。そんなことをさらりと言って、ヒカルはごろりとソファに転がった。
「ふざけるな!」
 遂にアキラの堪忍袋の緒が切れた。
「何でキミにうちの掃除や食事を世話してもらわなければならないんだ! お断りだ!」
「なんだよ、最初に一週間傍に置いてって言ったじゃん!!」
「それを承諾した覚えはない!」
「ここまで連れて来たくせに!」
「成りゆき上仕方なく連れて来たんだ!」
 クッションを抱えたままむうっと頬を膨らませるヒカルは、とてもアキラと同い年の成人には見えなかった。
 アキラは時計とヒカルを交互に睨み、募る苛立ちを隠すことなくヒカルからクッションを取り上げる。
「ともかく、熱が下がったんならもう帰ってくれ。これ以上キミの面倒を見る義理はないんだ」
「お前が俺の面倒見るんじゃないの、俺がお前を癒してあげるの! フラれて落ち込んでたくせに!」
「なっ……!」
 カアっと頭に血が昇り、再び何か怒鳴り付けてやろうと深く息を吸い込んだ途端、がばっと起き上がったヒカルがアキラの横をすり抜けて走り去った。
「おいっ……」
 アキラが止める間もなく、ヒカルはトイレに駆け込んで内側からガチャンと鍵をかける。
「おい、進藤!」
 アキラが乱暴にドアをノックするが、聞こえて来るのは小憎らしいヒカルの声ばかりだった。
「早く行かないと指導碁遅刻すんじゃないの? いってらっしゃい」
「その前にここから出ろ!」
「お前が行ったらちゃんと出るよ」
「〜〜〜!」
 なんて悪餓鬼だ――! アキラは心底扉一枚隔てた先の正体不明の青年に呆れ果てた。
 腕の時計を見る。そろそろ本当に家を出なくては、約束の十分前に予定の場所に辿り着くのは難しい。これまで仕事には一分たりとも遅れたことのないアキラにとって、遅刻だなんて不名誉なことが許されるはずがなかった。
 それから少しの間トイレでの間抜けな押し問答を続け、ヒカルが全く出て来る気がないことが分かると、アキラは今にも血管の切れそうな鬼のような表情で居間へ戻った。棚から普段は使うことのない合鍵を取り出すと、乱暴にテーブルに叩き付ける。
「おい、進藤! 鍵はここに置いておく! いいな、とっととここから出て、鍵は郵便受けに入れておけ!」
「ほいほ〜い」
 人を馬鹿にしたような返事が聞こえて来て、アキラは再び頭の天辺に血が昇って行きそうになるのを実感したが、ぐっと堪えて鞄を手にした。
 ――全く、とんだ悪魔を拾ってしまった。合鍵だなんて、昔の彼女にも渡したことがなかったというのに……
 アキラは眉間にくっきり浮かんだ皺もそのままに、慌ただしく玄関に向かって靴に足を突っ込む。部屋を出る前にもう一度振り返って物音を確認したが、トイレのドアが開く様子は感じられなかった。
 小さく舌打ちをして、部屋を出た。閉めたドアにしっかりと鍵をかけて、時計を確認しながら足早に仕事先へと向かう。