「お前の、言う通りだ」 ヒカルはもう一度繰り返し、自分に言い聞かせるようにじっと目を閉じた。 「俺は……自分のために、人の生活に入り込んでた。俺の……幸せだった、あの一週間が……俺の、全てだったんだ……」 微かに震えているヒカルの指を、アキラは咄嗟に握り締めた。抵抗はなかった。 ヒカルは少し俯いたまま、目を閉じたまま話し続ける。 何かを思い出しているように。その瞼の裏に、恐らく十年前のあくる日が浮かんでいる―― 「俺、ガキだったから。佐為の凄さも知らないで、アイツに纏わりついてた。俺のじいちゃん、囲碁やるんだけどさ。じいちゃんの持ってた新聞に載ってたアイツの写真見て、一目惚れしたんだ。マセガキだろ?」 ヒカルの口元が自嘲気味に綻ぶ。 「棋院にまで押し掛けて、俺に囲碁教えてってうるさくついて回って。とんでもねぇガキだよな。アイツは囲碁界の宝だったんだ。それなのに、アイツも根負けしたのかだんだん俺につきあってくれるようになって……」 ヒカルがアキラの指を握り返したような気がした。アキラは息を飲み、ヒカルの手のひら全体を包むように指を広げる。 「アイツに時間がある限り、打ってもらったよ。でも俺、バカだから、それだけじゃ満足できなかった」 ヒカルの口唇が震えている。俯いたせいでだらりと垂れ下がった金の前髪が、その明るさと裏腹にヒカルの顔に影を落としている。 「アイツの一番になりたいって……何度もねだって、アイツ、ようやく……頷いてくれたんだ……」 ぱた、と床に落ちた雫がどこから零れたのかすぐには分からなかった。 アキラは隠れたヒカルの顔と床を交互に長め、苦し気に眉を顰めて嘆息する。 「嬉しかった。すげえ嬉しかった。バカだよな、ホント。アイツは俺を傷つけたく無くて、我慢してガキの相手してくれてただけなのにね……」 「進藤」 アキラは遂に腕を伸ばした。 ヒカルの身体を抱き寄せると、ヒカルの額がアキラの肩に落ちる。 シャツの肩口に、じんわり涙が染みていくのが分かった。 「その一週間後に……アイツは消えたんだ……」 アキラは口唇を噛み、強くヒカルを抱き締めた。 「俺は……、俺は、あの最後の一週間、夢見てるみたいに幸せだった! でも、アイツには何にもしてやれなかった! 俺みたいなガキの面倒見させられて、あんなに早く逝っちまったアイツに、俺は何一つ幸せを分けてやれなかったんだ!」 「違う!」 アキラは掠れた声を絞り出した。 ヒカルの頭を胸に押し付け、弱々しく震える身体を強く強く抱き込んだ。 ヒカルと出逢い、唐突に始まったヒカルとの一週間を過ごしたアキラには、写真でしか顔を見たことのない佐為の気持ちがよく分かるような気がした。 小さな頃のヒカル。芦原が語ったように、金の前髪を靡かせて蝶のようにひらひらと佐為の周りを舞っていたのだろう。その無邪気な笑顔は人の心に深く残り、優しく暖める。……今のアキラがそうであるように。 「……藤原先生は、きっと幸せだったよ」 太陽みたいに眩しいヒカル。纏わりつかれても突き放せなかったのは、きっとその笑顔が愛しかったからだ。 純粋に佐為を恋い慕う可愛らしい少年が、きっと愛しくてたまらなかったからだ。 佐為がヒカルを受け入れたのは根負けしたからじゃない。……気付いてしまったのだ。 「キミが幸せだった一週間、きっと藤原先生も夢のように幸せだった」 「あ……」 「彼はきっと、きちんとキミのことを……愛していたよ」 そう、青空を突き抜けるような明るい光の前で、気休めの嘘なんかつけるはずがない。 愛していたのだ。親子ほども年の離れた少年のことを。 アキラはそっと腕の力を抜き、ヒカルの肩を支えて二人の間に空間を空け、その涙で濡れた顔を覗き込んだ。 『お前は、ずうっと怒ってばっかだな』 『でも、お前も誰かを元気づけたい時は笑うだろう?』 その通りだね。 アキラはヒカルの目を見つめ、慈しむように微笑んだ。 途端、アキラの細めた目を凝視したヒカルの瞳に見る見るふっくらとした雫が盛り上がり、ぐしゃっと顔が崩れた拍子にぼたぼたと地上を濡らし始めた。 ヒカルはしゃくりあげる不規則な呼吸を押さえ切れず、カタカタ歯を鳴らしたまま肩を揺らす。アキラはヒカルの髪を撫で、自分も少し泣きながら、その瞼に口唇を寄せた。 遂にヒカルは大声を上げて泣き出した。 何かを喚き散らしながらわんわん泣くヒカルを、アキラはしっかり抱き締めた。 泣いていいんだ。泣いていいんだよ。――ヒカルの耳に心を込めて囁き続けた。 キミはずっと笑ってきた。たとえキミの一週間がキミのために用意されていたとしても、たくさんの人がその笑顔に救われていたはずだ。 悲しい時も寂しい時も、キミはずっと笑ってきた、だからもう泣いていい。 たくさん泣いて心の中を洗い流したら、キミのことだから、その後はもっと素敵に笑えるはずだろう……? カーテンも閉めないまま、薄暗い部屋で二人身体を寄せあって。 ただ、時が過ぎるのを何もせずに過ごしていた。 もうすぐ最後の一日が終わる。夢のような一週間。甘くて苦い七日間。 ふと、ヒカルがすっかり乾いて上下貼り付いてしまった口唇を開き、ヒカルを背中から抱いているアキラを見上げるように顎を上げて問いかけた。 「……塔矢。……俺、もう一日だけ……ここにいてもいい……?」 アキラはその提案に目を見開き、すぐに苦しそうに眉を寄せて、「勿論」と囁いた。 ヒカルは前に向き直り、少し恥ずかしそうに肩を竦めた。 「俺……一週間以上、誰かの家にいたことないんだ……」 「進藤……」 アキラはぎゅっとヒカルを包む腕に力を込めて、その髪に顔を埋めた。 「一日だけじゃなくていい。もっと……ずっとここにいていいんだ」 「塔矢」 「ボクは、キミと……一緒にいたい」 「塔矢……」 アキラを呼ぶヒカルの声は、ゆらゆら揺れる陽炎のようにとりとめがなく、甘やかだった。 ヒカルは自分の身体を抱くアキラの腕にそっと触れ、その存在を確かめるように優しく摩り始める。 そうしてふふっと小さく笑う声がアキラの耳をくすぐった。 「俺ね、怖かった。この部屋、碁盤があるから。碁盤のある部屋に一人でいるの、怖かった」 「……そうだったんだ」 「明日はねえ……、特別な日なんだ……」 「特別……?」 ヒカルの髪に頬を擦り寄せながら、アキラは明日の日付けをぼやけた頭で思い出そうとした。 そうしてぱちっと目を開く。 ――九月二十日。 (……明日は、彼の……) 何かの資料で見た、藤原佐為の……命日。 「明日は……、俺の、誕生日なの」 「え?」 ヒカルの口から予想と違った言葉が出て、アキラは思わず聞き返した。 ヒカルの誕生日。……佐為の命日。 (そんな……) 「塔矢、震えてる」 「……明日は、藤原先生の……」 アキラがそこまで言うと、ヒカルもまたはっとしたように身体を強張らせた。 しかしそれは一瞬だった。 「……知ってたんだ」 ヒカルはすぐに身体の力を抜き、それまでのようにアキラに体重を預けて来る。 アキラの鎖骨にこめかみを擦り付けるような仕種を見せて、ヒカルは再び目を閉じた。 「十年前……、佐為と約束したんだ……。誕生日を一緒にお祝いするって……」 ヒカルは十年前、という単語に自分で少し驚いたようだった。もうそんなに時間が経ったのかと、少し苦笑しているようでもあった。 「アイツ、律儀だよなあ……。対局終わって、真直ぐ俺ん家目指してたんだ、きっと。結構そそっかしいとこあったからさ、急ぎ過ぎて周りあんまり見てなかったのかな?」 からかうようなヒカルの口調に、涙声が混じり始める。 「どうしてあんなところで撥ねられたんだろうって、関係者が首傾げてたって。普段絶対行かないような場所で、なんでそんなとこに行ったのかって……」 「進藤」 また震え出したヒカルを優しく抱きながら、アキラはそっとヒカルを立ち上がらせた。薄暗い室内を、何かにぶつかったりしないように誘導しながら進んで行く。 十年前、誕生日の日に大切な人を失ったヒカル。 幸せだった一週間。――ヒカルは誰かにそれを「癒し」として分け与えることで、自分への幸せな日々を再現していた。 ヒカルを、その儚くも切ない一週間の呪縛から解放してあげよう――アキラはヒカルを寝室に招き入れ、ベッドに座らせた。 腰を屈め、顔を近付けて向かい合う。薄闇に慣れた目が互いの輪郭と、時折瞬きする睫毛を捕らえていた。 アキラはすっと目を細めて、緩やかに口角を持ち上げた。ヒカルが眩しそうに眉を顰める。 「キミのくれた一週間……ボクは本当に幸せだったよ」 「……とうや」 「今度は、ボクがキミを幸せにしたい」 ヒカルは少し笑った。気を抜くとまた涙が転がり落ちそうな、そんな危うい笑顔だった。 「お前、笑うとすげえキレイ」 アキラが軽く歯を見せる。 「佐為もね、綺麗だったんだよ」 潤んだ瞳の水面を震わせて、ヒカルはアキラの笑顔を懐かし気に見つめていた。 アキラは、もう自分と佐為を比べられても苛立ちを感じたりしなかった。 「アイツ、俺の前でいつも笑ってた。……ホントに、幸せだったのかな」 「きっとね」 「俺も、幸せになっても、いいのかな」 「ああ」 カチリ。 二人が気付かない内に、時計の針は十二時を過ぎる。 ヒカルが伸ばした腕を、アキラはそっと受け止めた。 そのまま二人の身体はスローモーションの美しい映画のように、ゆっくりゆっくりベッドに倒れて行く。 アキラの首に腕を回して、ヒカルがそっと囁いた。 ――ホントはね。 ドキドキしてたんだよ。 お前のキレイな顔。 怒るとちょっと子供っぽくなる顔。 碁盤に向かう真剣な顔。 酔っ払った時の色っぽい顔。 初めて見た笑った顔。 お前は優しくて一生懸命で、俺が大好きだったアイツを思い出させた。 でも、それだけじゃないって信じさせてくれる……? 月の灯りに照らされて、おずおずと衣服を脱いだヒカルの肌が、琥珀色に輝いていた。 戸惑いを隠せない辿々しい動きに、アキラは「怖い?」と首を傾げる。 すると、ヒカルは少し口唇を尖らせた後、悪戯っぽい笑みを作って上目遣いに呟いた。 「言ったじゃん。……誰とでも、こんなことしないって」 誰にも、こんなことさせないって。 アキラは穏やかに微笑んで、胸の下で微かに震えながら、鮮やかに笑うヒカルの無垢な笑顔に見蕩れた。 ――なんて楽しそうに笑うんだろう。 静かに口唇が重なると、ヒカルの止まっていた時間が動き始める。 アキラも、ただの囲碁漬けの不器用な人間ではなくなる。 「大切にするよ。うんと、大切にする」 十年の時を経て、ようやく訪れた、幸せな新しい一日―― 「誕生日おめでとう、ヒカル」 零れる笑顔にちょっとやそっとの翳りなんかじゃもう太刀打ちできない。 ――ボクは天使を手に入れた。 |
ヒカル HAPPY BIRTHDAY !!
せっかくのお誕生日記念になんかもうとりとめないものでごめんなさい……
後半に進むにつれて駆け足から全速力に変わる様がよく伺えます……。
ホントいろんなこと反省するお話になりました。
小悪魔玉砕。ヒカルの背景も謎だらけですがもう降参。
教訓:やるなら計画性を持って!そして最初の設定を貫け!
ちなみにバンビーナの男の子バージョン「バンビーノ」もありますが、
バンビーナの歌詞や響きが好きなのであえてこちら使ってみました……!
(BGM:バンビ−ナ/布袋寅泰)