BAMBINA






 午後になると二日酔いの症状は完全に抜けて、棋院からの帰路を昨日置いていった車を運転して帰るのに問題はなくなっていた。
 アキラは帰り着いたマンションの自室で、開いた扉の向こうからいつものように「おかえり〜」と明るい声で現れるヒカルを見つけて、ほっとしたと共にやりきれない気持ちが胸に広がっていくのを思い知らされる。
「? 塔矢?」
 ヒカルはそんなアキラの雰囲気を敏感に感じ取ったらしい。
 笑顔はそのままだが、少し様子を伺うように、軽く小首を傾げてアキラの名前を呼ぶ。
 アキラは指先がすうっと冷えていくのをどこか他人事のように感じていた。
「塔矢……何かあった?」
「……進藤」
 アキラは鞄を下ろし、ジャケットを脱ぐ。普段ならそのまま寝室にもって行くそれを、無造作に床に落とした。
「キミが言っていた、幸せな一週間をくれた人って……恋人?」
 ヒカルが微かに眉を寄せたのが分かった。
 少し顎を引いて何事か考える素振りを見せたヒカルは、思った以上に長い間を経て「……そうだよ」と呟いた。
「それが、藤原佐為?」
「!」
「……図星みたいだね」
 ヒカルは顔を真っ赤に染め、その眉間に似つかわしくない皺を刻んだ。
 笑顔ばかりだったヒカルのそんな顔を見るのは初めてだった。
 ――佐為がそんな顔をさせているのだと思うと、また心の中の汚い感情が皮膚を食い破って外に出ようともがき始める。
「……なんで……?」
「自覚ない? キミ、酔った夜に彼の名を呟いてたよ」
 ヒカルがぐっと口唇を噛む。アキラを睨みつけるその目が、微かに潤んで見えるのは気のせいだろうか。
 ヒカルは少し目線を泳がせて、自嘲するように軽く口角を持ち上げる。その仕草がやけに大人びて見えて、アキラは切なげに目を細めた。
「……やっぱ同じ棋士じゃ……知ってても仕方ないか……」
「……、キミ、その頃まだ小学生だろう。彼の人格を疑うね」
「違っ……」
「何が違う? 今、キミが自分で恋人だったって言っただろう。二十も年の差があって、しかも相手は男だ。まともな人間のやることじゃない」
「やめろ!」
 ヒカルの叫びは、悲鳴にも似た響きがあった。
 アキラがはっとしてヒカルに瞠目すると、ヒカルは僅かに身体を震わせて、アキラから顔を逸らすように俯き、搾り出すような声でぽつぽつと口を開く。
「……俺が、そう思ってただけだ……」
 ヒカルはぐっと右手で自分の左腕を抱いた。
「俺が、勝手に追っかけてたんだ。あいつは……俺に振り回されて」
 少しだけ顔を上げたヒカルの目が、そこにはない遠い過去を見つめているようにぼんやりうつろな色を映して、苦い笑みをふっと口元に貼り付ける。
「お前と同じ……アイツは優しすぎた」
 アキラはしばし呼吸を忘れて、ヒカルから目を逸らせずにいた。
 こんなヒカルは初めて見た。ヒカルと暮らした僅か六日間、いつも太陽より眩しい笑顔を浮かべてアキラを見ていたその目が、今は違う存在を思って苦しげに歪んでいる。

 ――笑っていればねえ、楽しいことは後からやってくるんだよ……

 あの台詞は、自分のためのものだったのだ。
 哀しいのに苦しいのに、ヒカルはそれを打ち消すために、いつも笑って今日まで生きてきた。
 ひょっとすると……、ヒカルの言う、「癒し」の一週間というのは……
 ヒカルは親指の先でぐいと目尻を拭い、嫌なものを吐き出すようにふっと短いため息をついて、不自然ながらも僅かな笑顔をアキラに作って見せた。
「さ、お前疲れてんだろ。夕飯、支度できてるから……」
 そんなことを言ってアキラに背を向けるヒカルが、どうしようもなく憎らしくなる。
 彼の笑顔は、外敵からの防御でもあるのだ。
 関係のない人間から、本心を隠すための。
 他人を中に立ち入らせないよう、笑顔という名の拒否で不躾な人間を弾くための――
「……ボクを……拒否、するのか……?」
「……塔矢?」
「ボクに立ち入るなと、そう言いたいのか!?」
 アキラは我を忘れてヒカルに腕を伸ばした。
 アキラの行動を予期していなかっただろうヒカルは、傲慢な腕に捕らえられて呆気なく床に転がる。
 アキラは上からヒカルを押さえつけて、その身体を強く拘束した。
 至近距離で顔を突き合わせ、睨み合う二人は酷い形相だった。
 ヒカルの目には恐怖が。怯えと戸惑いが。
 アキラの目には怒りが。哀しみと、それを消化できないもどかしさが浮かんでいる。
「……ボクでは駄目なのか」
 ヒカルはよく聞き取れないというように眉を顰めた。
「ボクでは駄目……? ボクでは、キミを癒せない……?」
 ヒカルの目が見開き、困惑に揺れた。
「な……に、言ってんだよ……」
 アキラはもがくヒカルの手首をきつく握り締め、その目を逸らさずに震える口唇を開いた。言葉を出す前に、勝手に涙が頬を伝ってくる。
「離せ」
「嫌だ」
 離したら、ヒカルはこの腕の中から逃げて行ってしまう。
 離したくない、今頃分かった、こんなに愛しくてたまらない。
 悔しい、悔しい、悔しい!
 この胸には彼のあどけない微笑みがくっきりと刻まれているのに、彼の中に自分の居場所がないなんて!
「キミの……一週間というのは、キミのための時間なんだろう?」
「……!」
 アキラの言葉に、ヒカルがはっきりと顔色を変えた。
 驚愕に見開いた目で真っ直ぐアキラを捕らえながら、ヒカルはゆっくり首を横に振る。
「キミの幸せだった時間を、再現したいだけなんだ」
「……やめろ……」
「誰かを癒すためじゃない、キミ自身への「癒し」の一週間なんだ!」
「やめろお!」
 ヒカルは振り絞った力でアキラの拘束を振り解き、そのまま自分の耳をきつく塞いだ。
 笑顔に囲まれた、唐突にやってくる一週間の「癒し」――……
 そこにあるのは、血の通わない、表面だけの幸せな生活。
 夢のような一週間が終わったら、彼はまた別の誰かに癒しを求める。
 自分の中に抱えた思い出を、大切に守るために。大事な記憶を壊さないように。
 一週間と言う制約を守れば、誰も彼の特別な存在を超えることはない。
 その笑顔の下に、彼はたった一人で生きている。
 アキラは腕に力を込め、ヒカルの身体を強く掻き抱いた。
「……キミが好きだ」
 ビクリとヒカルの身体が竦んだ。衣服越しに伝わる衝撃に、アキラは腕の力を更に強める。
「キミが好きだ。離したくない、ずっと傍にいて欲しい」
「……塔矢……」
「ねえ、ボクでは駄目? ボクはキミを癒したい」
「……でも……」
 ヒカルの視線が救いを求めるようにアキラから逸れた。
 その反応を拒絶と受け取ったアキラは、自分の理性を引き裂いて獣染みた欲望が飛び出してくるのを抑えることができなかった。
 ヒカルの手首を再び強引に掴み、驚いた表情のままのその顔に無理やり顔を近づけた。意図に感づいたヒカルが怯えたように顔を逸らす。
 その動作のひとつひとつが、興奮に我を忘れたアキラの感情を逆撫でしていった。
 無言のせめぎ合いが永遠に続くかとも思われた。
 遂にアキラの中で溢れ出したものが爆発する。
「心だけじゃなくて身体も出し惜しみするのか……?」
 言ってはいけないと僅かな理性が警鐘を鳴らすのに、アキラは自ら迷いを振り切った。
「いろんな男の元を転々としてるんだ、これくらいサービス済みなんだろう!?」
「……!!」
 その瞬間、目元に散った火花が何なのかすぐには気づけなかった。
 じんじんとした痛みが後から頬を襲ってきて、アキラの下で歯を剥いたヒカルが震える拳を握り締めていて、ああ、殴られたのだとようやく理解した。
「俺は……、誰とでも、こんなことしねえっ……!」
 涙を溜めた意志の強いヒカルの目に射抜かれて、すとん、と身体から悪いものが落ちたような気がした。ヒカルを拘束していた腕を緩めると、ヒカルはアキラを突き飛ばすようにしてその手の中から逃れる。
 やけに可笑しかった。下卑た笑いが込み上げてきた。
 恐怖だろうか、震えるヒカルを見て、自分が取り返しのつかないことをしたのだと悟った。
 可笑しくて可笑しくて、……苦しかった。
「……キミは悪魔だ」
 涙交じりの声が、自分を嘲笑って揺れている。
「人の心を攫う、悪魔だ……」
 次から次へと溢れる涙を、どうにも止めることができなかった。
 濡れ続ける頬を拭いもせず、呆然と膝をついて項垂れていると、
「……そうだよ」
 ヒカルの、乾いた砂が風に消えるような微かな声が聞こえてきた。
「俺は、……佐為を殺した悪魔だ」
 アキラが顔を上げるより早く、足音は玄関へと消えていった。
 扉の閉まる音を確かに耳で拾ったアキラは、これで本当に終わったのだと床にくずおれた。
 もう二度と、ヒカルは帰ってこないだろう。
 笑顔に包まれた夢のような日々も、これで終わり――……







 ***







 ……何もする気にならなかった。



 泣きすぎてすっかり枯れたと思っていた涙は、ヒカルのことを想うだけで再びじんわりと滲んでくる。
 突然嵐のごとくアキラの前に現れて、当然のように居座って。
 料理が旨くて強引で、無理矢理持たされた弁当の甘くない卵焼きが美味しくて。
 普段はあんなに子供っぽいのに、酔っ払ったらやけに色っぽくて。
 にこにこと笑っている屈託ない様子に、怒る気がどんどん削がれて、それどころか恋い焦がれて。
 あんなことをしたいんじゃなかった。
 せめてもっと、大切に抱き締めてやるのだった。
 太陽のようにその笑顔を見せてくれた日から、ずっとアキラを癒し続けてくれた彼を、もっと大切に包んでやるのだった……


 ピンポーン……


 どこか躊躇いがちに響いたその音に、ソファに横たわっていたアキラの身体が跳ね上がった。
 転げるように玄関へと足を急がせ、もどかしく外した鍵と、乱暴に開いたドアの向こうに、気まずそうに上目遣いをしたヒカルが立っているのを見た瞬間、アキラの目から尚も涙が溢れてくる。
「……進藤……」
「……ひでえ顔」
「戻ってきてくれたのか……」
「……約束、まだ一日あるから」
 ヒカルが言葉を言い終わるか終わらないかのうちに、アキラは無意識に躾のなっていない腕を伸ばしてしまっていた。
 しまった、と思った時にはヒカルの身体を抱き締めていた。また暴れられるかと思わず腕に力を込めたが、予想に反してヒカルは動かなかった。
 ヒカルはアキラの腕の中で、ぐいと中に押し入るように一歩踏み出して来る。ドアが閉まり、灯りもつけずに玄関に走って来たアキラのせいで、二人は真っ暗な中に取り残された。
「……中、入っていい?」
 ヒカルがぽつりと呟く。アキラは慌てて頷き、名残惜しくはあったがヒカルから手を離した。
 ヒカルはアキラが腕を離すと、そのまま靴を脱いで奥へと入って行く。アキラはその背中を眺めて、夢ではないかと目を擦った。
 ヒカルが戻って来た。……あんなに酷いことを言ったのに。
 戻って来てくれた。もう二度と逢えないと思っていた。ヒカルが……
 ヒカルを追ってアキラが居間に辿り着くと、振り向いたヒカルがアキラを見て苦笑する。
「もー……お前、泣き過ぎだよ……」
 ヒカルはぐっとパーカーの袖を伸ばして、アキラの顔をぐいぐいと拭った。乱暴に顔を拭かれても、アキラはぼんやりヒカルを見つめたまま動けない。
「今日、仕事は?」
「……休んだ」
「しょうがないヤツ」
 ヒカルが微笑む。柔らかい、穏やかな微笑みだった。もう見ることはないと思っていたヒカルの笑顔。
 御飯は、とのヒカルの問いに、アキラはただ首を横に振った。食事なんかどうでもいい。ヒカルが戻って来てくれた、それだけで心はこんなに満たされて、そのくせ千切れてしまいそうに引き攣れる。
 ヒカルはそんなアキラを、困ったような目で見つめながら笑いかけてくれていた。アキラがあんまりぼんやりしているせいか、ヒカルはアキラの袖を引いて、そのまま床に座らせる。
 アキラとヒカルは向かい合い、しばらく黙ってお互いの目に見入っていた。

 どのくらいそうしていたのだろう。
 ヒカルが、おもむろに口を開いた。

「――お前の言う通りだよ」

 アキラの目が僅かに揺れた。