CHANGE YOURSELF !






 和谷からの指定通り、先に電車に乗ったアキラがぼんやり窓の外の景色を眺めていると、発車直前になって車内に入って来る見覚えのある青年の姿が目に映った。
 和谷くん、と呼び掛けて、慌てて言葉を飲み込む。
 ヒカルは確かこの青年の事を呼び捨てにしていた。こういう細かなところに気をつけなければいけない。
「悪い悪い、遅くなったあ〜。あー、間に合ってよかったー!」
 アキラの隣にどっかり腰を下ろした和谷は、額に浮かんでいた汗を拭った。
 アキラは和谷に対してどのような声をかけたら良いか分からず、曖昧に微笑んだ。
 和谷は自分の呼吸を整えることで精一杯なのか、そんなアキラの不自然な様子には気付いていないようだった。ふと、和谷は手に持っていたペットボトルをアキラに差し出して来た。
「これは?」
 思わず聞き返すと、和谷はにっこり笑いかけた。
「待たせたお詫び。まー、飲めよ」
 アキラはまじまじとペットボトルを見る。ヒカルの好きな炭酸飲料だ。
 ありがとう、と素直に礼を言うが、正直アキラはあまり炭酸飲料が好きではない。しかし和谷の好意を無にするのも悪いので、仕方なくキャップを回した。
 ……途端、ブシュッと派手な音を立てて中身がアキラの顔目がけて噴き出して来た。
「ぎゃははは! 引っ掛かったな!」
 隣で大笑いする和谷に本気で殺意が芽生えた。
 和谷は腹を抱えて笑いながら、目尻の涙を拭き拭きこんなことを言った。
「ざまーみろ。この前の仕返しだよ。あん時思いっきり振りやがって、今回は控えめにしてやったからありがたく思え」
 アキラは沸き起こる怒りの鉾先を恋人に変更する。
 ――進藤、キミのせいか……! 何故キミの罪滅ぼしをボクが受けなくてはならないんだ……!
 重いリュックを開いてハンカチを探るが、それらしいものが見当たらない。仕方なく、底のほうでよれよれになっていたポケットティッシュ(しかも使いかけ)を見つけてそれで顔を拭った。
 勢い良く噴き出したペットボトルの中身は3分の1ほど減ってしまったが、何だか悔しくてアキラはぐいっと中身を煽る。久しぶりに飲む炭酸が喉を刺激して、思わず咳が漏れた。
「何咽せてんだよ。俺にも貸せ」
 アキラが何か答える間もなくその手からペットボトルを取り上げた和谷は、何の躊躇いもなく口をつけて一口飲み干した。アキラはその様子を唖然と眺め、それからワナワナと震え始める。
 この慣れた感じを見ると、和谷とヒカルはしょっちゅう回し飲みをしているのだろう。
 ――こ、こんな……間接キスじゃないか……! 進藤、キミはいつもこんなことをしているのか……!?
 恋人の浮気現場を目撃してしまったかのような錯覚に襲われ、アキラは口唇を噛んで肩を落とした。和谷がペットボトルを返してきたが、喉は渇いていないと首を横に振る。正直、もうそのペットボトルに口をつけたくはなかった。
 和谷はそんなアキラの様子に首を傾げながらも、特におかしなことだとは思わなかったらしい。電車が目的地に到着するまで、今日休むことになった本田の話や、本日のイベントの話、それから森下門下の研究会での話なんかをひっきりなしにまくしたてていた。
 アキラは仕事の移動中は静かにしていることがほとんどだったため、この攻撃、もとい口撃には辟易した。いつしかただ頷くだけになったアキラを見て、さすがの和谷も心配そうな顔を向ける。
「進藤、お前なんか今日変じゃねえ?」
「えっ……? そ、そんなことない、ぜ。ちょっと風邪気味で……」
「そうなのか? 本田さんもかなり辛そうだったからなあ、お前も気をつけろよ」
 俺に移すなよー、とからかい調子の和谷に引き攣った笑みを返す。
 これは想像以上に大変なことを引き受けてしまったのではないだろうか……。
 アキラはイベントに向かう移動中で、すでにヒカルと仕事を入れ替えたことを後悔し始めていた。





「ここのスミが甘い。まずこちらに手をつける前にここを補強しなければせっかくの厚みが生かされずに終わってしまう。大体この左辺の形は……」
「お、おい、進藤……」
 隣で指導碁を行っていた和谷が、恐る恐るといった様子で声をかけてきた。
 アキラは指導碁の最中に話しかけて来た和谷を訝し気に振り返り、何か? と首を傾げてみせた。
 和谷は奇妙なものを見るようにアキラを上目遣いに眺め、
「お前、今日……ちょっと言い方きつくない?」
 そっと小声で囁いて来る。
 言われてアキラは初めて対面に座る指導碁の相手をまじまじと見た。
 小学生の低学年程度の年だろうか、口唇を真一文字に引き締めて、目を真っ赤にして泣き出すのを堪えているようにブルブル震えている。アキラはしまったと口を押さえた。これだけ小さな子の指導碁を行った経験がほとんどなかったため、加減が分からなかったのだ。
 今日のイベントは子供向けの囲碁教室がメインで、多少腕に覚えのある子はこうしてプロの指導碁を受けることもできる。相手が子供ばかりということもあり、呼ばれたプロもほとんどが年の若い十代や二十代の棋士で構成され、特に和谷やヒカルは子供ウケがいいため主催側から是非にと要望があったらしい。
 しかし普段のアキラは堅苦しいイメージが付きまとうせいか、こういった笑顔が一番のイベントに呼ばれることは全くと言っていいほどなかった。
 今も、目の前にいる小さな少年相手に真顔でビシビシと欠点を指摘し、それを疑問にすら思っていなかった。アキラとしては、中途半端に甘やかすよりもきちんと悪いところを説明して、その上で最善の一手を説明するほうがずっと子供のためになると考えていたのだが……
 小さな子供を泣かしてしまってはよろしくない。おまけに、中身はアキラでも見た目はヒカルなのだから、ヒカルに怖いイメージがついてしまうのも良いことではないだろう。
 アキラはなんとか子供を宥めて、引き攣った作り笑いを見せながら、優しい指導碁への転換を試みた。しかし一度強張った少年の顔はそう簡単には緩んではくれなかった。



「お前、大丈夫か? 具合悪くて余裕ねえんじゃねえ?」
 休憩に入り、声をかけてきた和谷に、アキラは曖昧に肩を竦めてみせた。
 やはり口を開くと違和感は隠し切れない。そもそもヒカルとアキラは性格も行動も好みも喋り方も全て違うのだから、無理があるのは仕方がないのかもしれない。
「びっくりしたぜ、さっきのお前。お前いっつも子供相手にニコニコしながらやってんのにさ、なんか塔矢が座ってるみてえだったぞ」
 アキラは思わず口にしていた紙コップのコーヒーを吹き出す。盛大に咳き込むアキラの背中を和谷がとんとんと叩いてくれた。
「むすっと仏頂面してさ、愛想のひとつもねえ辺りそっくりだったぜ。お前やべえぞ、一緒に暮らすうちにアイツに似て来たんじゃねえか?」
 本人を前にそうと気付かず悪口をずけずけ言う和谷に、アキラは口唇の端を引き攣らせた。
「大体さ、お前も前から言ってたけど、アイツは可愛げってもんがなさすぎんだよ。お前よくあんなのと一緒に寝起きできるよな。まあ、生活だらしないお前には丁度良いのか? 目覚まし時計代わりだって言ってたもんなあ!」
 がはは、と笑う和谷に対しアキラは凍り付くような冷笑を浮かべるのみだった。
 ――進藤……! キミはそんなことを和谷くんに言っていたのか……!
 ブルブルと震え出す拳を必死で押しとどめ、悪気のない和谷に表向きは笑顔を、しかし心の中で磔獄門の刑に処しながら、せめてもの憂さ晴らしに空になった紙コップを握り潰した。
 そんなアキラの内心吹き荒れるブリザードなど気付きもせず、ふいに和谷は辺りを見渡して誰もいないことを確認し、そっとアキラに耳打ちするように顔を寄せた。
「それとな、お前塔矢に言っとけよ。首んとこ……ついてるぞ」
 アキラは初め和谷の言っている意味が分からず、きょとんと目を丸くしていたのだが、やがて何のことか思い当たって左のうなじをがばっと押さえた。
 そうだ、夕べはちょっとハメを外し過ぎた。普段なら見えるところに跡を残さないよう気をつけているというのに。
 出かける時にヒカルも何も言わなかったのは、それだけお互いパニック状態を引き摺っていたからだろう。アキラは自分の失態に顔を赤らめた。
 和谷が少々うんざりしたような顔で背を逸らして腕組みする。
「お前さあ、塔矢甘やかしすぎじゃねえ? 毎晩しつこくてしんどいって、いつも愚痴聞かされる俺の身になってみろよ。たまにはガツンと勇気出して断ってみろ!」
「へ、へえ……ボ、……俺、そんなこと言ったっけ……」
「はあ? 何すっとぼけてんだよ、あんだけ愚痴っといて! この前だって酔っ払っていかに夜の塔矢がしつこくてねっとりして粘っこいかを力説してたじゃねえか」
 ――これは仕置きが必要だな。
 和谷に関係がバレたという話は随分前から聞いてはいたが、そんな告げ口をしていたとは……。アキラは普段ベッドの中で可愛らしく自分におねだりしてくるヒカルを思い浮かべながら(若干惚れた欲目のフィルターがかかっていることは気がついていないようだ)元に戻ったらどうしてくれようと悪魔的な想像力を逞しく働かせた。
「おっとそろそろ休憩終わりだな。お前、午後はもっとスマイルだぞ、スマイル」
 その言葉にニヤリと笑ったアキラの顔を見て、和谷は何やら背筋に寒いものが走ったように顔を強張らせた。






まずはヒカルになったアキラのほうから。