さて、そうと決まったら行動は早い方がいい。 ヒカルは棋院に自分とアキラの仕事のキャンセルを連絡した。二人で食あたりしたので二、三日休むという何とも情けない嘘を伝え、再びあの黒猫に会うべく準備を始める。 アキラの耳を隠す深めの帽子。それからなるべく人目を避けるために公共の乗り物は使わず、一度自分のアパートに戻って車を持ってきたほうがいいだろう。 あれやこれやと動いていると、ふいに腹がぐうと鳴った。そういえば起きてから何も食べていない――腹を押さえたヒカルは、アキラもまた朝食をとっていないことに気づく。 アキラは相変わらず畳に転がって転寝をしているようだが、腹は減っているのだろうか。減っていたとして、まともな食事ができるのだろうか…… 「塔矢」 ヒカルはアキラに声をかけた。それが自分の名前だと分かっているかは微妙なところだが、アキラが声に反応してぴくりと耳を揺らす。 転がっているアキラの前にしゃがみこみ、頬をぴたぴたと叩いてやった。薄ら目を開いたアキラがぎょろりと目を向ける。 「お前……腹減った? 何か食うか?」 「にゃあ」 肯定なのか否定なのかも分からない鳴き声だが、とりあえず何か与えるべくヒカルはアキラの腕を引いた。 アキラは起き上がって、うーんと四つんばいで伸びをする。後ろに身体を伸ばしてから、前にも大きく伸びて、ヒカルを見上げて再びにゃあと鳴いた。 「お座り」の体勢で自分を見上げているアキラを微妙な気持ちで見下ろしたヒカルは、ついて来いと手振りでアキラを促す。アキラは四つん這いで器用にヒカルの後をついてきた。 足音がしない。指先を内側に丸め、本物の猫のように気配を殺して歩いてくる。 そのせいでヒカルはアキラがついて来ているか不安になって、何度も何度も振り返りながら台所へ向かうことになった。 何度も泊まった塔矢邸ではあるが、食事の支度などはアキラに任せっぱなしだった。 勝手に冷蔵庫を開けることに若干の抵抗はあれど、仕方がないと言い聞かせて中を物色する。両親のいないこの家の今の主がこんな状態なのだ、構わないだろう。 食材を一から調理するのは時間がかかるため、とりあえずすぐにも食べられるものをと取り出したハム、牛乳、卵。それから食パン。 パンを焼きながら、ヒカルの数少ないレパートリーである茹で卵を作ろうと湯を沸かして卵を放り込んだ。 牛乳を二人分コップに注いで、はたと気づく。 ……アキラはコップを握れるだろうか。 物は試し、とヒカルの動きを不思議そうに見守っているアキラの前にコップを置いてみた。 アキラはふんふんと鼻を寄せ、そのまま顔を近づける。まるで手にとる様子がないのを確かめたヒカルは、慌ててコップを取り上げた。 にゃあとアキラが不満げな声を漏らす。 「今やるから、待ってろ」 手で持つことができないのなら、コップでは飲みにくいだけだろう。平らな皿を探し出し、そこに牛乳を移して置いてやると、アキラはぺたぺたと舌で舐め始めた。 だらりと垂れ下がった黒髪が牛乳に入りそうで、ヒカルは渋々髪を押さえてやる。 床に這いつくばってミルクを飲む恋人の髪を押さえている自分が何とも哀れな存在に思える……ヒカルは今置かれている状況を深く考えるなと自ら暗示をかけた。 ホラ、よく見ればカワイイじゃないか。黒い耳がぴくぴく動いて、無理矢理開けたほつれた穴からするっと伸びている長い尻尾もぴょこぴょこと…… 「……カワイイか……?」 うっかり漏れてしまった本音の呟きに、ヒカルはいかんと首を振る。 カワイイ、誰が何と言おうとカワイイのだ。多少の愛着でもなければこれから先があまりに辛い。この男を連れて歩くのは他でもない自分しかいないのだから。 トースターから軽く焼いたパンを取り出し、アキラにも食べやすいように千切って、ハムを添えて皿に乗せてやる。それを牛乳の皿の横に置くと、アキラは再びふんふんと鼻をぴくつかせておもむろにパンに齧り付いた。 好みの味覚など分からないが、身体は人間なのだから同じものを食わせたっていいだろう……しばらく腕組みをしてアキラの食べっぷりを見守っていたヒカルだったが、特に問題がなさそうだと判断して自分も食事をとることにした。 一応こちらは心も身体も人間様だと肩を竦めたヒカルはきちんと椅子に座り、コップに注いだ牛乳を飲み飲みパンを齧る。 簡素な朝食をとりながら、綺麗に皿を舐め回しているアキラをため息混じりに見下ろして、今後のことを考えた。 ――食事が終わったら、一度俺のアパートに戻って車持ってきて。いや、コイツも連れてくべきか……? でもこの状態で地下鉄とか乗れる気がしねえし。ほっといても寝てるだけっぽいから、大丈夫かな、うん…… 食べ終わったアキラは自分の手の甲を舐めて、耳やら顔やらを擦り始めた。どうやら毛づくろいをしているようだが、一生懸命つくろっている肌にはほとんど毛がないのが皮肉なところだ。 満腹になったことだし、後はきっと寝るだけだろう……ヒカルはアキラの動向を気にしながらも一度キッチンを出て、アキラの部屋で鍵を探った。 この家の鍵らしきものを見つけ出したヒカルは、もう一度覗いたキッチンでアキラが静かに転がっているのを確認し、大人しくしてろよ、と念じて足早に塔矢邸を出た。 大急ぎで自宅に舞い戻り、そのまま車に飛び乗って再びやってきた塔矢邸。 何事もなければ良いが、と玄関でガチャガチャ鍵を開けていたとき、背後から別の車の音が聞こえてきた。 家の前で停まったらしいその音に嫌な予感を掻き立てられながら、恐る恐る振り向いたヒカルの目に、白スーツの眩しい噂話大好き男・緒方三冠が映ってしまった。 (さ、最悪だ……!) 何だってこんな時に現れるんだ――髪を掻き毟りたい気分をぐっと堪えて、とってつけたようなわざとらしい笑顔を見せる。 緒方はヒカルを見つけて少し驚いたような顔になり、そのまま真っ直ぐ近づいてきた。 「なんだ、お前食中毒で寝込んでるんじゃなかったのか?」 「な、なんでそんなこと知って……」 「棋院で話を聞いたんでな。アキラとお前が二人でダウンしたというから、とりあえずアキラの様子を見に来たんだ。……お前は元気そうに見えるがな」 ちらりと細い目で睨まれ、蛙のごとく身を竦めたヒカルだったが、ここで怯んではいけない。 緒方に今のアキラを見つけられたら大変なことになる。きっと死ぬまで脅しのネタだ。恋人の名誉のためにも何とか隠し通すしかないだろう。 ヒカルは開きかけていた扉の隙間を塞ぐようにさりげなく立ち、ひたすら笑顔で押し通そうとにっこり笑いかけた。その笑顔の不自然さを見て、緒方が奇妙に眉を寄せる。 「お、俺はもう大分いいんだ。でもアイツはまだ臥せっててさ、そう、上から下から出まくりで人に会える状態じゃないんだ。そんな訳で、俺からよろしく伝えておくからさ……」 「お前は良くて俺がダメだというのか?」 「そ、そういうんじゃないけど、でもマジでアイツくたばってっから、たくさん人に会うと疲れるだろ?」 「別に長居はしない。見舞いも持ってきたんだ、すぐ帰るからとりあえず中に入れろ」 ヒカルを脇に押しのけようとする緒方の腕をがしっと掴んだヒカルは、強張った笑顔のままぐぐぐと腕を押し返した。 「見舞いなら俺が渡しておくから」 「……結構だ。自分で渡す」 「だから、アイツは今面会謝絶」 「お前はアイツの主治医か? ……怪しいな。何を隠してる」 しまった、勘付かれた――目つきの変わった緒方を本格的に追い出そうと、ヒカルも遠慮なく力を込め始めた。 「何も、隠して、ねえよ」 「嘘をつけ、中に、何がある」 「だから、何も……」 しつこいオッサンだとヒカルが口唇を噛んだ時、ふと家の中からなにやらか細い声が聴こえてきた。 にゃ〜……にゃ〜…… ヒカルは青ざめた。――アイツ、こんな時に余計な鳴き声あげやがって! 案の定緒方の眉間の皺が深くなった。 僅かに開いた扉の隙間から覗き込もうと顔を近づける緒方を、必死でヒカルは押し留める。 「今、変な声が聞こえたぞ」 「き、気のせい! 何でもない!」 「猫の鳴き声みたいな」 「そ、そうそう猫猫、そのへんの野良猫だよ!」 「やけに低くて人間のような声だったぞ」 「人間臭い猫がこの辺住み着いてんだって!」 「アキラの声に似ていたような……」 ヒカルの精神力が限界を迎えた。 「何でもないっつってんだろ、この腐れ白スーツが! 塔矢は面会謝絶だ、いいから帰れってんだクソメガネ!」 |
またも白スーツが友情出演……
↑の台詞の後にヒカルから蹴り食らってます……