CAT NAPにコテンコテン






 ようやく締め切った扉の内側、へたへたと座り込んだヒカルは頭を抱えた。
 天下の緒方三冠をあろうことか蹴り出してしまった――あまりに怖いもの知らずな事を堂々と果たした自分の大胆さが呪わしく嘆かわしい。
「くそう……俺が棋界にいられなくなったらお前のせいだからな……」
 報復は恐ろしいが、やってしまったものは仕方がない。多分白いスーツに足跡がくっきりついただろう……。
 奥の部屋からはヒカルを悩ませる張本人の悲痛な鳴き声がひっきりなしに響いてくる。
 なんだ、何やらかした――ヒカルはどすどすと足を踏み鳴らし、怒り肩で声の出所を探しに行った。
 アキラは自室に戻っていた。
 いや、ひょっとしたら家中をうろつきまわってたどり着いた、というのが正しいのかもしれない。
 起床直後から混乱続きでばたばたしていたため、布団は敷きっぱなしだった。その布団の上にアキラが丸くなって物悲しい声をあげている。
 その腹の下に抱き込んでいるものに見覚えがあったヒカルは、あちゃあと頭を押さえた。アキラが敷物にしているのはヒカルのジャケットだ。
 とにかく急いで車を取りに行かねばと家を飛び出したせいで、上着を着るのも忘れていた。そのジャケットを抱え込んで、にゃあにゃあと鳴いていたアキラが戸口でげんなりしているヒカルに気がついた。
「にゃあ〜」
 軽やかにく四つん這いで走り寄って来たアキラは、ヒカルの足に絡みつくようにして頭を摺り寄せてきた。
 どうやら置いてきぼりにされて淋しかったらしい。にゃあにゃあと甘ったれた声に若干の寒気を感じながらも、ヒカルはアキラの頭をぽんぽん叩きながら布団に近づき、ジャケットを拾い上げた。
「うわあ……」
 何をどうやったのか、ジャケットはボロボロになっていた。引っ掻いたのか噛み付いたのか……まさかと思ってアキラを見下ろすと、指先に尖った爪が鎮座しているのが分かる。
「お前、爪もか……」
 しゃがんでアキラの左手――今は前足と言ったほうが良いかもしれないが、お手をするように手を取ると、確かにずらりと先端の鋭利な爪が並んでいる。右手もまた同じで、人間だった頃は磨り減っていた人差し指の爪でさえ他の爪と同じように伸びていた。
 朝はこんな爪をしていただろうか? ヒカルに一抹の不安が過ぎる。
「……まさか、まだ変化途中、ってこと……ねえよな」
 自分の呟きがあまりに恐ろしくて、何としてもあの黒猫を見つけなければと立ち上がろうとした時。
 膝の上にどさりと重たく乗っかる輩がいた。
 アキラはヒカルの膝に上半身を預け、眠りの体勢を取ろうとしている。
「こ、こらっ、こんなとこで寝るな! 重い! つうかキモイ!」
 ようやくヒカルが戻ってきて安心したのか、ちゃっかり落ち着こうとしていたアキラを引き剥がし、にゃあにゃあと不満げに鳴く猫男の腕を掴む。手を引かれるとうまく歩けないのか、二足歩行を嫌がるアキラはもがいた。
 仕方なく四つん這いで歩かせて、ヒカルは後ろを振り返りながら廊下を進む。アキラは尾をぴんと立ててきちんとついてくる。
 人間だった頃の記憶があるかどうかは分からないが、ヒカルを気に入っているのは間違いないのだろう。たまに歩調を速めるとアキラも急ぎ足でついてきて、ヒカルを見失わないようにじっと釣りあがった瞳を向けているのが分かる。
 アキラに無理矢理靴を履かせ、ヒカルは玄関から首だけ出して辺りを見渡した。緒方がまだいたらどうしようかと思ったが、姿は見当たらず、どうやら諦めて帰ったらしい。
 後の報復を思うと気が重いが、今は考えないでおこう。ヒカルはアキラを呼び、アキラが出た後の戸に鍵をかけた。
 アキラは外の世界にきょとんとしている。こんな時でもお座りのポーズなのが痛々しい。緒方に見つからなくて本当によかった。
「こっち来い。車乗るぞ」
 ヒカルが呼べばアキラはすぐに駆け寄ってくる。ヒカルは周囲に気を配り、誰もいないことを確認して、塔矢邸前に横付けしていた愛車の後部座席のドアを素早く開いた。
 一瞬躊躇したアキラを無理矢理中に押し込んでドアを閉める。そして自らも運転席に乗り込み、急いでシートベルトを締めた。
 後部座席でアキラは物珍しそうに車内を見上げ、ふんふんと鼻を動かしている。尻尾が随分勢いよく動いていることから興奮しているようだが、嫌がって暴れるということはなさそうなのでヒカルはほっと胸を撫で下ろした。
 とにかく急いであの宿に向かわねば。途中で高級な猫缶でも買って行ったほうがいいだろうか。ぶつぶつ呟きながら発進した車の中で、アキラは不思議そうににゃあと小さな声を漏らした。




 ***




 出発して約二時間、アキラは後部座席にだらりと横たわってすうすう眠っている。
 大人しく寝ていてくれて助かった――ヒカルは赤信号の度に振り返ってアキラの様子を見ていたが、特に騒ぐこともなくここまで来れたことにほっとする。
 しかし道のりは遠い。新幹線ならあっという間でも、車となると何倍も時間がかかる。これは到着は夜になるなと見当をつけたヒカルはがっくり肩を落とした。
 おまけにそろそろ腹も減ってきた。時間的にも昼食時だが、まさかこのアキラを連れてレストランに入るわけにもいかない。
 ヒカルはコンビニを見つけて車を停めた。そっと後ろを振り返るが、アキラはよく眠っている。
 大人しくしてろよ、と祈りながら静かに車を下りて、ダッシュでコンビニに駆け込んだ。
 パンや牛乳、アキラのための紙皿と、陳列しているもので一番高い猫缶を守り神用に購入してコンビニを出ると、近所の主婦らしき二人組みがヒカルの車を遠巻きに眺めてひそひそと耳打し合っていた。
 見ればアキラが車内からがりがりと窓ガラスを引っ掻いてにゃあにゃあ喚いている。そのまま回れ右したくなったヒカルだが、勇気を奮い立たせて運転席に飛び込むと何もかもを振り切らんと車を急発進させた。
「ちょっと買い物してただけだろ! すぐにゃーにゃー喚くなっつうの!」
 今にも湯気が出そうな真っ赤な顔でハンドルを握ったヒカルが怒鳴った途端、ふいに後ろからひゅっと何かが振り下ろされ、空気が頬をかすっていった。
 運転中だというのに思わず後ろを振り返ったヒカルは、アキラがある一点を爛々と光らせた目でじっと見つめているのに気がついた。右手を不自然に持ち上げ、「構え」のポーズをとって。
 アキラの視線をそのまま追うと、……ハンドルに虫が止まっている。
 虫はおもむろに飛び上がった。
「ニャー!」
「ギャー、あ、アブねえ! やめろ塔矢〜!」




 危険極まりない蛇行運転の末、なんとか停車した噴水のある公園。
 車が少なくて良かった……ヒカルは遠い目をしつつも命があることに感謝した。
 あのまま万が一事故でも起こしたら大変なことになるところだった。――囲碁の棋士、変態コスチュームプレイで心中!?――そんなゴシップ雑誌の見出しを免れてヒカルは心底安堵する。
 随分と広い公園で、平日の真昼間のせいか幸運にも人通りはない。ベンチにぐったり凭れるヒカルの足元で、アキラはぺたぺたと皿に注がれた牛乳を舐めていた。
 人の気も知らないで――恨めしく睨みつけても、猫のアキラはまったく我関せずといった様子だ。
 千切って牛乳の隣に置いてやったパンをハグハグ這いつくばって食べているのを、泣きたい気持ちで見守った。
 いつもしゃきっと伸びた背筋はすっかり猫背……精悍だった顔つきは食べ物にありつけたことへの喜びのためか満足げに緩んでいる。
 カッコ良かったお前を返せ、とヒカルはひっそり涙ぐんだ。第一これでは碁も打てないではないか。
 エッチはしつこかったけど、凛々しくて、優しくて、でも碁では妥協しなくて、何よりヒカルのことを力いっぱい愛してくれた大切な恋人なのに。あの猫に会えば元に戻るのかも分からないし、もしずっとこのままだったらどうしよう。
 ぐす、と心細く鼻を啜るヒカルを知ってか知らずか、アキラはゆっくりと食後の毛づくろいを始めた。だから毛なんてないくせに、と呆れ顔でアキラを見下ろしていたヒカルだったが、アキラはやけに念入りに顔を拭う。
 口周り、頬から次第に位置が上に移動して、耳の前、それから耳の裏まで丁寧に何度も何度も毛づくろいを繰り返す。
 ――あれ、そういや猫が顔洗うのって……
 ヒカルの頬にひたりと冷たい感触が落ちてきた。
 はっとして天を見上げると、ぱらぱらと雨が降ってくる。
 慌てて立ち上がったヒカルは、アキラがニャアと声をあげるのも構わずに抱え上げ、しかし重みで持ち上げ切れず半ば引きずるようにして車へ急いだ。
 多少濡れはしたが、なんとかアキラと共に車内の後部座席に避難したヒカルはふうと一息つき、同じく濡れてしまったアキラの頭に手を伸ばした。
 アキラは水分を嫌がってかぶるぶる頭を振る。じっとしてろと声をかけて、ハンカチで髪と耳を拭いてやった。
 先ほどまで少し空に雲がかかっていた程度だったのに、今はすっかり薄暗くなってしまった。
 まいったな、長引くかなと窓から外を不安げに見上げたヒカルが再びアキラに目を向けて、ぎょっとした。
 アキラの瞳の中央、金色に光る細いラインが黒目を縦断している。ぱちぱち、と瞬きを繰り返すたびにその三日月のような金色が如実に輝き、ヒカルは思わず背中に寒いものを感じた。
 ――お前……、どんどん猫に近づいてる……?
 そういえば家にいた時よりもずっと、佇まいが猫らしくなってきている気がする。
 なだらかな肩のシルエット。アキラの体格は決して貧弱ではないのに、やけに細身に映るのは何故だ?
 声も、朝聞いてたような人間に近い声から、猫のものと言って違和感のない音に近付いている。
 元から釣り目気味だったとは言え、暗闇で爛々と光る金色の目の形は明らかに猫だった。
 ヒカルはごくりと生唾を飲み込み、余裕なく運転席に移ってシートベルトを締める。
 急がなくては。早くしなければ、アキラが本当に猫になってしまうかもしれない――
 ヒカルは汗ばんだ手でハンドルを握り締め、アクセルを踏み込んだ。






ジャケットはたぶん本能で「このニオイボクの…」とか思ったんだと思います。
猫が顔洗う云々は、地域によっては真逆(晴れ)のところもあるらしいですね。
しかし私にゃんこと暮らしたことないので、ひょっとしたら
動きにわんこが混じってるかもしれない……!すいません!