雨の中、緊張しながら薄暗い空の下を走り続け、太陽も落ちてすっかり暗くなってから更に一時間、ようやくヒカルはつい昨日宿泊したばかりの宿に辿りついた。 少し前に雨は上がったが、舗装が完全ではない狭い駐車場は泥濘んでいる。そんな中でもアキラは四つん這いで歩こうとするので、仕方なくヒカルはアキラを背負った。 背中にずっしり乗った重みにふらつきながらも宿の玄関を潜ると、女将が驚いた顔で出迎えてくれた。 「まあ、進藤先生? どうなさいました、忘れ物でも?」 「い、いや、ちょっと……」 「まあまあ、後ろにいらっしゃるのはひょっとして塔矢先生ですか? まさかどこかお怪我でも……」 「い、いえ、違います、大丈夫です」 苦しさ全開で何とかごまかしつつも、これから一泊したい、部屋は空いていないかと尋ねた。 女将は少し申し訳なさそうな顔になり、あることにはあるんですが、と前置きをして言った。 「今夜は離れのお部屋しか空いておりませんの。少々ご足労頂きますが」 案内はいらないと断って、部屋に入ってアキラを下ろし、ふうと大きなため息をついたヒカルは畳にどっかりあぐらをかく。 「逆にラッキーだったな、この部屋」 女将の躊躇は場所が遠いだけでなく、言外に部屋の値が張ることを表していた。 遠くても高くてもなんでもいいからとその部屋に泊まることを決め、フロントから歩くことしばし。 確かに他の一般客室からは随分距離があるようで、周囲には人気がなく実に静かだった。つまり、こちらの(というよりアキラの)奇行も見つかる心配が薄れるということだ。 アキラは畳の感触が気持ち良いのか、早速ごろりと転がってうにゃうにゃ口を動かしている。 お前は気楽でいいなあ……幸せそうなアキラをため息混じりに眺め、これからどうするかを思案していた時、ふいに扉をノックする音が聞こえてきた。 「! は、はいっ」 ヒカルは慌てて扉に急ぐ。そっと隙間を開けると、仲居らしき女性が遠慮がちに立っていた。 「あの、お食事どうなさいますか? 今からでもご用意できますが……」 「あー……、そ、そうっすね、お願いします」 「広間で召し上がられますか? それともお部屋にお運びしましょうか」 「あ、できれば部屋で。……その、ここまで持ってきてもらえればいいです。俺、自分で中に運びますから」 「はあ……」 仲居は妙な顔をしていたが、一応は承知してくれたらしくそのまま下がっていく。 いっそ食事はいらないと言ってしまえば楽だったかもしれないが、昼だってスカスカのパンくらいしか食べていないのだ、夕食ぐらいきちんと腹に入れておきたい。 それにここの夕食、めちゃめちゃ美味かったもんなあ……ヒカルは楽しかったつい二日前の夜を思い出してまたひとつため息をついた。 アキラは相変わらず背中を丸めてごろんと転がり、呑気な顔でニャアと小さく鳴いていた。 それから少し後にぞくぞく運ばれてきた料理を、手伝うという仲居の申し出を丁寧に断って必死で部屋に運び入れ。 ようやくテーブルに並んだ料理を前に、ヒカルは人心地つく。 アキラはお頭つきの鯛の刺身に興味津々のようだ。頭ごと齧り付かれるのは困るので、刺身だけ全て皿に移してアキラの前に置いてやった。 上品な味付けのお吸い物を啜りながら、久しぶりの暖かい食事にほっと息をつき、それでも頭はこれからのことを思ってうだうだと悩み続ける。 この時間と暗さでは、あの猫を探すのは無茶だろう。土地の人間ならともかく、ろくに宿の裏の様子も分かっていないヒカルが闇雲に探したところで迷子になるのがオチだ。 捜索は明日の早朝。今日はひとまず身体を休めることに専念しよう。幸いこの部屋には小さいが露天風呂がついている。アキラを気にせず風呂にも浸かれるし、疲れを洗い流してぐっすり眠るんだ…… やっとすっきりした結論を出せたヒカルは、それならいつまでも悩んでいるのは勿体無いと、食事を平らげることに専念し始めた。 傍らのアキラにちょこちょこと食べやすいサイズのおかずを分けてやりながら、突然宿泊を決めたにしては豪勢な夕食に舌鼓を打った。 「ニャー! ニャー!」 「観念しやがれ! おら、こっち来い!」 裸にひん剥いたアキラを浴室に引きずり込み、格闘すること数分。 どうやら水を怖がっているらしく、風呂場に足をつけるのも嫌がるアキラを無理に引っ張り、何とか湯船に突っ込もうとヒカルも汗だくである。 今日一日いろんなところで転がっていたせいか、アキラはすっかり薄汚れていた。 これは徹底的に綺麗にしなければと、夕食後、お互い腹が落ち着くのをのんびりと待って、いざ風呂に連れて行こうとしたら力一杯抵抗された。 ニャアニャアと耳障りな悲鳴をあげるアキラを羽交い締めにして、ヒカルは小さいが掃除の行き届いた客室露天風呂へアキラを閉じ込めた。 腕を掴まえて湯をかけてやると、びょんと飛び跳ねたようにアキラが身を竦め、それは酷い勢いで暴れ出した。 「こら、大人しくしろって……ぶっ!」 べしんと尻尾で顔を叩かれた上、持っていた手桶の湯を被らされて服を着たままだったヒカルはずぶ濡れになる。 アキラを洗ってからゆっくり一人で風呂に入ろうと思っていたが、こうまで濡れてはほぼ自分も風呂に入ったようなものだ。 ヒカルは手早く着ている服を脱ぐと、アキラの尻尾を遠慮なく掴んだ。 「フギャー!」 痛いのか不快なのか、アキラはとにかく大きな悲鳴を上げた。 「来いっつってんだろ! 手間かけさせんな!」 アキラの頭を下げて首を抱えるように腕を回すと、アキラは身動きが取れなくなってじたばたと手足だけ動かしている。ヒカルはそのままアキラを強引に引き摺り、えいっと一気に湯舟に放り込んだ。 「〜〜〜!」 声にならない叫び声を上げたアキラは、続いて自らも湯舟に入ったヒカルにしがみつき、そのままばりばりと爪を立てる。 「いっ……!」 やめろ、と思わず暴れるアキラを抱き締め、自分の胸で押さえ付けた。アキラはまだもがいていたが、やがて湯の怖さと腕の中の息苦しさよりも呻くヒカルが気になりだしたのか、鳴きやんでヒカルの様子を伺い始める。 ヒカルは胸に感じるじんじんとした痛みに涙目になって、アキラを押さえ付けたままじっと熱が引くのを堪えていた。 こわごわ見下ろした胸には、斜めに四本、見事な爪痕が残っている。一番深い傷からは血も滲み出ていて、アキラが手加減なしに引っ掻いたことがよく分かった。 「……ったあ……、お前、勘弁してくれよ……めちゃめちゃ痛かったぞ……」 「……ニャー」 「おら、なんも怖くねえだろが。大人しくしてりゃ全然大丈夫だってのに、暴れんなよ〜……」 こんなことなら服のまま相手をするべきだったか。いや、シャツを破かれて同じ目に遭ったかもしれない。 こりゃしばらく痛むな、とヒカルがつけられてしまった傷の存在を諦めた時、ざり、と不思議な感触がして胸の傷がぴりりと染みた。 驚いて顔を下ろすと、ヒカルに抱き締められたままのアキラが舌を見せてヒカルの引っ掻き傷に這わせている。緩く瞼を伏せてざりざりと傷を舐めるアキラの舌の動きを目にして、不覚にもヒカルの身体がぴくりと反応した。 「お、おい……」 暖かくて滑らかだったはずの舌は、まさに猫のごとくざらついていて、舐める度に傷を擦り新たな痛みを生み出す。そんなことは理解していないだろうアキラは、罪滅ぼしのつもりなのか四本の爪痕に懸命に舌を這わせていた。 以前に比べて唾液の湿り気は極端に少なく感じられる。そのため余計にざらざらした舌が傷口を擦って痛い。 「塔矢、いいよ、大丈夫だ」 アキラはヒカルの言葉など耳に入らないように舐め続ける。 四本の爪痕を、ざりざり下から上へ、舐め上げながら顎も一緒に上下に動かし、目を細めている様子はどことなくうっとりとした恍惚の表情にも見えた。 「……塔、矢」 つけられたばかりの傷をささやかに抉られているというのに、じわじわヒカルの身体の奥で熱い疼きが生まれ始める。 舐めるたびにピクピクと揺れるビロードの黒い耳。しどけなく口を開いて、その隙間に覗くざらついた舌が自らつけた傷を舐めていると思うと、頭を擡げかけた昂りがどうにも耐え切れなくなってきた。 「……っ、もう、いい……っ」 たまらずにアキラの頭を押さえつけるように抱き締める。苦しいのか、腕の中でニャアと小さな声が漏れた。 しかしもうアキラは暴れることなく、ヒカルの胸に鼻面を擦り寄せてごろごろと喉を鳴らしている。どうやら湯の恐怖は克服したらしい。 すっかり頭に血が昇ったヒカルは、舐めるのをやめたアキラを腕から解放すると、手のひらで団扇のように顔を扇ぎながら立ち上がった。 ほんの少し浸かっただけなのにのぼせてしまった――中途半端な煽りのせいで。 アキラが湯船を出たヒカルの後を追ってくる。とん、と前足ならぬ両手から床に下りたアキラは、四つん這いの尻の上で黒い尻尾をゆらゆらと揺らしていた。 濡れそぼった艶やかな尾の艶かしい動きに、ヒカルは知らず顔を赤らめる。ぶんぶんと首を振って邪念を頭から追い出し、呼び寄せたアキラを綺麗に洗うことに専念した。 アキラはそんなヒカルの身体の内側の葛藤など知る由もなく、時折ニャアと怯えた声をあげながら竦んだ身体を洗わせていた。 |
離れの部屋って一泊いくらくらいするんだろう……
事前に予約した場所以外に当日いきなり宿泊する人って
お金あるだけじゃなくて度胸もあるなあと憧れます……
今回は色気が全然ないので気持ち程度の濡れ場(?)を……