DRAMATIC? DRASTIC!






 形は古いが、よく手入れされて清潔なキッチンで、アキラはお湯を沸かすべくやかんに水を注いでいた。
 ここしばらく両親は留守がちだ。この大きな屋敷は一人きりだと手に余るほどだが、今は丁度よかった。
 親の前では、どんなに隠しても微妙な変化が悟られてしまうかもしれない。
 ガスの火をつけ、やかんの尻を炙る赤と青の炎をじっと見つめていた。
(――進藤)
 キスをしてしまった。
 白昼夢のようだった。橙色に染まったヒカルの姿が、夢の中のヒカルと同じようにきらきら輝いて、とても口付けしたい衝動にかられてしまった。
 ヒカルが好きだ。
 いつからそう思い始めてたのかは知らないが、自分の夢を思い出せば出すほどそのことを否定することができなくなる。
 いつだってアキラは彼に振り回されていた。彼の行動ひとつひとつに一喜一憂し、他の誰とも違う感情に名前をつけることができなくて悩んだこともある。
 はっきりと自分の気持ちを認めざるを得なくなったのは、やはりあの久しぶりの一局だった。
『いつかお前には話すかもしれない』
 彼はいつも思わせぶりで、こちらは変な期待をしてしまいそうになる。
『お前には』
 自分はヒカルにとっての特別な存在になっているのだろうか? 甘い期待を振り払おうとしても、心はざわざわと自分を誘う。
 ――自分がヒカルを特別に思っているくせに。
 友人として好きになり始めていたのかと思った。だが、夢の中の自分はヒカルに触れたくて仕方がないのだ。触れてキスしたい。抱き締めたい。それら全てをヒカルは許してくれる。夢の中だけのひととき。――そんなの、友情としてはちょっとはみ出すぎている。
 それが、眩しい光の中で夢と現実がごちゃ混ぜになってしまった馬鹿な自分のせいで、あんなことをしてしまった。ヒカルは目を丸くしていたと思うが、はっきりと顔を見ることはできなかった。
 自分といえば、合わせた口唇があまりにも柔らかくて、そのまま離すことができなくなって。いつまでもああしていたかったけど、現実世界には夢の続きなんかない。
(でも、それだけじゃない)
 一度でも触れてしまえば、そのまま止まらなくなってしまいそうな自分が怖かったのだ。だから今まで夢の中だけで我満していたのに、ほんの少し理性が途切れた瞬間、眠らせていた獣がちらりと顔を上げた。たった一度のキス、だけどきっとそれ以上も求めてしまう。
 夢が、最後の砦だったのに。
『もうここには来ねぇよ』
 そう吐き捨てて碁会所を出て行ったヒカル。
 きっと自分の態度に苛々したに違いない。彼だってとても困ったはずだった。あれは彼なりの精一杯の挑発だったのだろう。
(向き合って碁を打てるだけで幸せだったはずなのに)
 なんて欲張りなんだろう。夢だけでは飽き足らなくなっている。
 北斗杯まで4ヶ月――果たしてそれまで彼と向き合わずにいられるだろうか?
「自信ないなんて、ボクって最悪……」
 お湯はとっくに沸いていたが、この静かな屋敷で唯一の音をすぐには消したくなくて、吹き零れる寸前まで鳴き喚くやかんを見つめていた。




 それから3日間、アキラは僅かな望みをかけて碁会所に訪れてみたが、やはりヒカルの姿はなかった。
 ヒカルのことだ、来ないと言ったら来ないだろう。北斗杯に向けて自分なりに勉強を重ねているに違いない。
 でも、自分がいたら、と思ってしまう。
 自惚れではなく自分の棋力はヒカルよりも上だ。教えてあげられることも少なからずある。そしてヒカルのことは、たくさんいる院生の友人たちよりも、誰よりもよく分かっている。
(それが自惚れだって言うんだよ)
 ヒカルに教えてあげられる人間なら自分以外にもたくさんいる。
 それがじりじりアキラを焦らせる。
 碁会所からの帰り道、アキラはすれ違う恋人同士たちを横目で追っていた。手をつないで、腕を組んで、楽しそうに仲睦まじげに。
 ヒカルは小柄だが女性的ではない。まだ幼さは残るものの、碁盤に向かう真剣な眼差しは、普段のヒカルよりも彼を幾分男前に見せてくれた。
 だからアキラは、まるでヒカルを女性のように抱き締めたいわけではなかった。子供っぽいけどはっきりとした男のヒカルが好きなのだと、碁盤に向かう彼を見るたびに思い知らされる。
(ボクはホモなんだろうか)
 アキラは今度はすれ違う男たちを訝しがられない程度に見て歩く。
 年上、年下、同じくらいの背格好、綺麗な顔立ち、無骨な顔立ち、優しげな人、疲れた表情……たくさんの男性が通り過ぎても、当然ながらアキラの心を掻き立てるような人が現れるはずがなかった。
(男だから好きなんじゃない)
 性別なんて考える間もないほど、ごく自然に頭の中に住みついた彼。
(進藤だから好きなんだ)
 それが余計にアキラを苦しめる。
 ヒカルだから好き。つまりヒカルではないとダメ。
 暖めてきた思いは気づけば溢れんばかりになっていて、中途半端に気持ちを伝えることなんてできない。できればこのまま殺してしまいたかったのに。
 恋心とはなんて厄介なんだろう……アキラは空を見上げ、グレイに曇る肌寒い空気に眉を顰める。
 今日は夕焼けが見えない。彼の色が雲に覆われて、アキラには届かない。





この話書く前に何本かアキヒカSSを書きかけたのですが、
そのほとんどの話で若先生が台所に立つ時
決まってやかんで湯を沸かし続けていました。
若先生はやかんで湯を沸かすくらいしかできないと思っているらしい。