DRAMATIC? DRASTIC!






「あーもうっ!」
 棋院からの帰り道、先ほど終わった手合いを思い出しながら、ヒカルの顔は不機嫌に歪んでいる。
 今日の手合いはひどかった。結果としては勝ったが、途中までまったくとりとめのない碁を打って、慌ててした後半の修正が間に合ったものの、相手が高段者だったら立て直す余地なんて与えてくれなかったに違いない。
 あまりに納得がいかなくて何度も検討を繰り返し、すっかり暗くなってしまった。
『相手の打ち方が下手だったからだ』
 以前アキラに言われた言葉を思い出す。全くその通りで、今日のヒカルならば言い返すことはできなかっただろう。
「俺って進歩ねぇー……」
 アキラのいる碁会所に行かないと決めて早一ヶ月、つまり北斗杯の予選までは残り三ヶ月。ヒカルに微かな焦りが生じる。
 情けないことに、アキラとの碁が恋しくなってしまっていた。
 お互い待ちきれなかったかのような再戦の後、何度となく碁を打ち続けていた相手だ。僅かな時間とはいえ、常に密度の濃い重要な時間だった。
 打ち合うたびに喧嘩になっても、理不尽なものではない。アキラの指摘は的確で、ヒカルにとっても学ぶことが多いのはよく分かっている。本当は、北斗杯予選通貨のためにはアキラと打ち続けるほうが成長の近道だということも、頭では理解していた。
(でもアイツ、まだ何にも言ってこねぇ)
 アキラが何も言ってこない以上、自分からふっかけたものを引っ込めるのはバツが悪い。
 このままなかったことにされてしまったら、あの日のキスは何処へいってしまうのだろう。
(俺がこんなに悩んでるのに!)
 バカ塔矢!
 半ば声に出しかけた時だった。
 その、バカ塔矢の姿が視界に入った気がした。
 ヒカルは思わず、駅に向かう途中で混雑している繁華街の真ん中で立ち止まり、辺りを見渡す。あの髪型、滅多に間違うものじゃない。
(いた)
 きょろきょろと見回したヒカルの目が、喫茶店から出てきたところらしいアキラの姿を捕らえる。思わず見つからない場所に隠れようとして、ヒカルは目を疑った。
 アキラの両隣に見知らぬ女性がぴったりついている。どう考えてもヒカルやアキラより年上と思われる二人の女性は、まあまあ美人の分類に入るのではないだろうか。
「な……」
 ヒカルは電信柱に隠れながら絶句した。
 今まで女性の影すらチラつかせたことのないアキラが、突然なんて羨ましいシチュエーションに見舞われているのだろう?
 清潔そうな白いシャツのアキラと、華やか過ぎるターコイズブルーと黒の服を身に纏う女性二人組とは、あまりに雰囲気が合わない。前々からの知り合いにはヒカルにはどうしても思えなかった。
(大方逆ナンでもされたんだろ)
 でもそんなのについていくようなヤツじゃないと思ってたのに!
(俺にキスしたくせに!)
 ムカムカと胃の辺りが重苦しくなって、無性にアキラが気になったヒカルは、一定の距離を保ちつつ三人の後を追った。所々で店の影や看板の後ろに隠れるヒカルを不審げに振り返る人もいたが、ヒカルはそんなこと気にしていられなかった。
 三人は小綺麗な居酒屋に入っていった。
(あいつ未成年のくせに)
 自分だって隠れて和谷たちと酒盛りしたこともあるが、何事にも真面目で大人受けのいいアキラがやるのは気にくわない。ヒカルはそんなふうに勝手に腹を立てたが、三人が中に入ってしまった以上どうすることもできなかった。
 しばらく店の前でぼーっと様子を伺っていたが、三十分ほど経過しても出てくる様子はない。もし中で食事や酒が出ているのなら、それは当たり前のことなのだろうけど、ヒカルは出てくるのを今か今かを待ってしまっていた。
 北斗杯予選三ヶ月前。すでに出場の決まっているアキラにとって、この期間はどうでもいいと言うのだろうか?
(俺が必死でお前に負けないように毎日毎日頑張ってるのに)
 たった一ヶ月アキラと碁が打てなかっただけで、すっかり寂しくなってしまっている自分のことなんてどうでもいいんだろうか。
(そもそもお前がキスなんかするから俺があんなこと言うハメになったんだろが!)
 人通りも少なくない店の前、道を挟んで向かいの植え込みの傍でしゃがむヒカルは一人ぶちぶちと雑草を抜いていた。
 もうさっさと帰ってしまおうと誘う自分もいるのに、あと五分だけ様子を見ようとする自分も強い。ずるずると気づけば一時間、いい加減ヒカルの脚も腰も痛くなってきた頃、例の店の開いた扉から見知った頭が出てきた。
「!」
 弾みで立ち上がりかけて、慌てて引っ込む。
 間違いなくアキラだった。相変わらず両脇に女性がいるのは変わらないが、どこか足取りのおかしい、まるで抱えられているように真ん中でふらふら歩くアキラの様子は、捕らわれの宇宙人といえなくもなかった。
「アイツ……何やってんだよ〜」
 なんだか嫌な予感がして、ヒカルは再び尾行を再開させる。
 あんなアキラは初めて見た。未だ十五歳という年齢のせいか、酒を飲むのはもちろんのこと、女っ気もまったくないストイックな印象が強かった。それが年上の女性にフラフラにされているなんて、正直ヒカルはアキラのそんな姿を見たくはなかった。
 ヒカルは腕時計を見る。針は午後の十一時を指そうとしていた。塔矢先生が心配してるんじゃないか――ヒカルはどんどん3人の後を追って、あっと息を飲む。
 ホテルのネオン煌くどう考えてもアヤシイ路地に、三人は向かっていった。
(ちょ、ば、バカ、まずいだろ!)
 年頃の少年にとってこれほどオイシイシチュエーションはそうそうない。あれがヒカルだったらラッキーと思いながらほいほいついていってしまったかもしれない。
 だけどあそこに居るのは塔矢アキラだ。碁馬鹿で他に興味を持たない塔矢アキラなのだ。
 ヒカルは面食らって少しの間その場に立ち尽くしていたが、気を取り直して後を追う。なんだか塔矢の父である行洋に酷く申し訳ない気持ちになった。ヒカルがこんなことを思っていると知ったらアキラは怒りそうなものだが、感情や行動が極端なアキラは時々とても危なっかしく見えてしまうものだ。
 ヒカルは眩しいネオンがチカチカ輝く路地を、心臓をドキドキ鳴らしながら小走りに駆けた。ヒカルにとっても慣れなくて、不似合いな場所だ。
 もしかしてもうすでにどこかのホテルなんかに入っていたら――ヒカルは自然と荒くなる呼吸を抑えて、首を左右に回し続ける。
 その視線が、どこかのホテルの入口脇で止まった。
 あの黒いおかっぱ頭。
「塔矢!」
 今度は声に出していた。
 アキラは無機質なホテルの壁に背中を寄りかからせて、項垂れたように座り込んでいたのだ。
 アキラに駆け寄りながら、ヒカルは先ほどの女性たちを探す。どこにも居ない。アキラだけが取り残されている。
「おい、塔矢、大丈夫かよ」
「……」
 アキラから不似合いの酒の臭いがする。
(こいつどんだけ飲まされたんだよ)
 ヒカルはアキラの前に膝をついて、その両肩を掴んで揺すった。
「おい、おい塔矢! しっかりしろって」
「……しんどう」
 ゆらりと顔を上げたアキラの目はしっかり据わっていて、焦点もどことなくずれている。だめだこりゃ、と呟いたヒカルはアキラを立ち上がらせようとした。
「お前ホントバカ、何やってんだよ。ほら、立てって」
「……」
 アキラの腕を引くが、ヒカルよりも長身の彼を起き上がらせるのは至難の業だ。
「こんなとこで座ってたって仕方ないだろ。行こうぜ、ホラ早く……」
「……疲れた」
「バカ、こっちだって疲れてんだよ!」
 ヒカルは顔を真っ赤にさせて、無理やりにアキラを立ち上がらせる。アキラはよろよろと覚束ない足取りのため、ヒカルは渋々肩を貸してやった。
 こんな格好悪い塔矢アキラ見たことねぇ。ヒカルは情けない気持ちでため息をつく。
「オラ、歩くぞ。こんなとこ早く離れようぜ」
「……うん」
「さっきの女の人たちどうしたんだよ」
 ヒカルはうっかり、かなり前から様子を伺っていなければ分からないようなことを言ってしまった。まずいと口を押さえるが、酔ったアキラには特に気になる質問ではなかったらしい。
「帰ったんじゃないかな……怒って……」
「怒って? お前……怒らせたのかよ」
「気持ち悪いって言ったら怒ったみたい」
「……お前」
「酔いに任せたらなんとかなるかなって思ったけど、やっぱり気持ち悪くて」
「……」
「そしたら怒ってあそこに捨てられた」
「当たり前だろ、そりゃあ……」
 ヒカルの肩を借りながらよたよたと歩くアキラを横目で見つつ、ヒカルは呆れたように何度もため息をつく。
 歩みは遅かったが、ようやく如何わしい路地から抜け出ることができた。どこから見ても未成年な二人がふらふら歩くだけで違和感のあった景色が、居酒屋に囲まれた賑やかな通りに来て大分目立たなくなる。それだけでヒカルは少しほっとした。
「なんでついてったんだよ」
 駅を目指して、ヒカルはアキラを引き摺り続ける。
 一ヶ月ぶりの再会(とは言っても棋院で姿を見てはいたが)がこんな形になるとは思いもよらなかったが、泥酔したアキラのおかげで気まずい空気がちょっと違うものになっている。
「お前、あーゆーの得意じゃないんだろ」
「……ムシャクシャしてる時は女がいいって」
「はあ?」
 アキラからあまりに不似合いな言葉が漏れ、ヒカルはつい大声を出した。すれ違った何人かが振り返り、ヒカルは慌てて俯きがちに視線を落とす。
「すっきりしない時は女の人が一番だって、言ってた」
「……誰が」
「緒方さん」
「〜〜〜、あのなあ、そりゃ緒方センセーは大人だからそうだろうよ! お前十五歳だろ、似合わなさすぎ! そんなことも分かんねーほど酔っ払いなのか? おい」
 ツッコミどころ満載すぎるアキラの姿に、ヒカルはこの一ヶ月の寂しい気持ちを返せと怒鳴りたくなる。
 天才棋士塔矢アキラ。囲碁界のサラブレッド。本当はそんなネームバリューを良しとせず、常に努力で上を目指している男だと分かっているからこそ、この失態がどうにも信じられなくて泣きたい気持ちになってきた。
 ようやく辿り着いた駅で、そのままアキラとバイバイしても良かったのだが、この様子では無事に帰り着くかも分からない。
 こんな酔っ払った息子を塔矢家に帰していいものかヒカルは心配したが、アキラから「両親は海外で留守だ」という言葉を聞いてほっとした。
「お前、電車無理だろ。タクシー呼べよ」
「……タクシーはいい。電車で帰る」
「どうやって帰るんだよ、そんなべろべろで。素直にタクシー呼べって」
「……金がない。さっきの女の人たちに、食事代払ったから」
 ヒカルは次の言葉を失った。
 アキラのことだ、無理やりお金を取られたというよりは律儀に自分で払ったのだろう。折角のお誘いを断ったせめてもの罪滅ぼしとして、恐らく正確な金額より多めに。
 ヒカルは自分の財布の中身を思い浮かべる。……あまりに心もとない。
「仕方ねえなあ」
 大きな人形のようになってしまっているアキラを抱えて、ヒカルは渋々塔矢家への道のりを付き合うことにした。このまま放っておいてもアキラが自力で帰れるとは思えない。それどころか、誰も家にいないというのだから、誰もアキラを迎えにくることがないということだ。
(もう、俺だってお母さんに怒られちゃうよ……)
 ヒカルは時計を恨めしげに睨んで、アキラを抱える手に力を込めた。





ベタな展開ですが……
若先生は酒が極端に強いか弱いかのどっちかがいいなあ。
むちゃくちゃに強い話もちょっと書いてみたい。