「おい、塔矢。次どっち?」 「……右」 糸の切れた操り人形を支えて、ヒカルは暗い道を進む。 アキラは電車の中で眠りこけ、降りる時に起こすのも一苦労だったし、曲がり角でも無反応のアキラをいちいち促してここまで来るのはかなり大変だったのだ。 もうすっかり午前零時を過ぎた時刻、きっと家では母親がカンカンになっているだろう。終電も終わってしまった。 タクシーを捕まえて、家でお金を払ってもらうしかないだろう……その時の母親の様子を想像して、ヒカルは身震いする。 「なあ、お前んちまだ?」 「もうちょっと」 「さっきからそればっかじゃん」 うんざりしつつも、アキラを捨てて行く訳にもいかず、ヒカルは半泣き状態で歩き続ける。ふいにアキラの足が動かなくなり、ヒカルが引き摺ろうとしても完全に止まった脚がびくともしなくなった。 「おい、塔矢!」 「……ここ」 「え?」 小さな呟きにヒカルが顔を上げると、屋敷と形容したほうが相応しい大きさの、古風な日本邸宅が目の前にあった。 「これぇ?」 でっけー、とヒカルが塔矢家を上から下まで眺めていると、これまで自分の意志でほとんど動かなかったアキラの身体が前に出た。 「どうもありがとう」 ぽつりと言ったアキラはそのまま家に入ろうとする。あ、あ、とヒカルが口ごもっていると、ふらふらと玄関の鍵をいじっていたアキラが、引き戸を開くと共に派手な音を伴って中に倒れこんだ。 「と、塔矢っ!」 顔面から玄関の中に突っ込んでいったアキラに慌てて駆け寄り、ヒカルが身体を起こしてやる。ヒカルはアキラの顔を見てゲッと顔色を変えた。 「おま、鼻血!」 ヒカルはそのまま呻くアキラを室内へと引き摺っていった。 「まったく……お前ほんとありえねえ」 顔面強打の割に、鼻血以外の大きな傷はなかったため、ヒカルはタオルを濡らしてアキラに渡すだけで応急処置を終えることができた。 もっと酷い怪我をしていたら、知識のないヒカルではおろおろするばかりだっただろう。脳震盪とか起こしてなくてよかった。ヒカルは胸を撫で下ろす。 アキラは居間に置かれたテーブルにぐったり背中を凭れさせて、ヒカルから渡された濡れタオルを鼻に当てている。ぼーっとしたその顔には、普段囲碁の手合いで見せる震えるような鋭さはまったく影を潜めている。 「もういいだろ? 俺帰るからな」 こんな時間になってしまったのだから帰るのも怖いが、少しでも急がなくてはならない。何しろ今日は家になんの連絡も入れていないのだ。 ヒカルがアキラに背を向けた途端、背中のシャツをぐっと掴まれる。振り向くと、アキラがぼーっとした顔のままヒカルのシャツを握り締めていた。 「な、なんだよ、離せって」 「帰るな」 「ええ?」 「帰らないでくれ」 ヒカルの瞬きが激しくなる。 アキラははっきりと顔を上げないので、どんな表情なのかが見えない。本気なのか冗談なのかも分からず、どうしたらいいか分からないヒカルはとりあえず怒ることにした。 「ヤだよ! もう日付変わってんだぞ、俺お母さんにメチャクチャ怒られる!」 「ボクが電話する」 「電話って……お前、何言ってんの?」 今顔打ったショックで変になっちゃった? 尤も今日はずっと変なのだけれど。 アキラの手が力なくシャツを離した。 ヒカルが少しだけ心配になって、数歩戻ったアキラの傍で屈んで顔を覗き込む。 床を睨んでいたアキラの目は、ぼーっとしてなんていなかった。思わず息を飲んで後ずさりかけたヒカルの腕を、ぐっと掴んだアキラの力強さに身体が怯む。 「と、塔矢」 「頼むから……帰らないで」 「……」 「キミに会えない寂しさを紛らわせる方法を探していた」 汗ばんだ手のひらが空気の中をもがく。 ヒカルの腕を掴んだままのアキラは力を緩めない。バカ、血ぃ止まっちゃうじゃん。なんて軽い口でも叩ければよかったのだが、ぼそぼそと話すアキラの低い声を聞き取るのがやっとで、ヒカルはただ何度も瞬きを繰り返している。 「酒は飲んだことなかったけど、気が紛れるかと思って。女の人も知らなかったけど、いくらかは夢中になれるかと思って。どっちも失敗だった」 「塔矢……」 「キミ、酷いよ。本当に来てくれない。ボクがどれだけ、キミを待っていたか」 その台詞にヒカルがぐっと口唇を噛んだ。怯んでいた気持ちが急に怒りで大きく立ち上がる。 「ひどいだって!? 元はと言えば誰のせいだよっ! お前、俺にあんなことしておいて……」 結局自分からふってしまった話、あの日を思い出してヒカルの耳が赤くなる。 「あ……あんなこと」 初チューだったんだぞ、バカやろう。 ヒカルの語尾が小さくなり、やがて黙り込んでしまった。 アキラが言い返してくれなければ、ヒカル一人で頑張れない。 だってキスしてきたのはアキラだから――ヒカルは弱まることのないアキラの腕の力、痛みを感じて眉を寄せた。 「キミが好きだから」 その囁きは、ヒカルが口に溜まった唾液を飲み込んだのと同じ瞬間だった。そのせいでよく聞こえなかったヒカルがもう一度聞き返そうとする前に、 「キミが好きだから、キスした。今も……キスしたい」 顔を上げたアキラの熱っぽい目に縛られ、動けなくなる。 あっという間に掴まれた腕ごと引き寄せられ、ヒカルは大きく目を見開いたまま、あの日のように口唇に熱い感触が押し当てられるのを、呆然と感じていた。 |
最初若先生が凭れているのはソファだったのですが、
漫画読み直したら塔矢家にはソファなんてなかった……
テーブルだと凭れたらそのままずれて
ガタン!って倒れると思うんですが、もう深く考えるのやめました。