ヒカルと一ヶ月、まともに口を聞いていなかった。 碁会所に来ないと言った以上、そこでいくら待っても無駄なことはよく分かっていたものの、棋院などで見かけた時すらヒカルはわざとらしくアキラを避ける。 その原因が自分にあることは理解しているが、それでもあからさまな態度に胸の奥がブツブツと燻り続けていた。 思わずキスしてしまった、そのことを黙殺しようとしたからヒカルは怒っている。では、なんて説明すればいい? (キミが好きだ、なんて言えるわけないだろ) きっと気味悪がられる。その上夢の中でヒカルをいいように撫で回してるなんてことが分かったら、二度と口もきいてくれないかもしれない。 (ボクが誰かに言われても卒倒するな) 自分から仕掛けたというのに、理由を言わずに、なかったことにしようとする。それがどれだけ虫のいい話か分かっていたが、ヒカルと変わらず碁を打ち合う仲でいるにはそれしかないのではないかと思ったのだ。 ――だって自分の言葉で想いを伝えたら、次はその想いを叶えたいと思ってしまう。そうなったら今のままでなんていられるわけがない。 アキラにとって唯一の相手をこんな形で失いたくない。ヒカルが必要以上に自分を避けるのは耐えられなかった。 ヒカルと口をきかない間、何度かヒカルの棋譜を見てみたが、彼らしからぬ落ち着きのない手合いがひとつやふたつではなかった。もしかしなくても自分のせいだと思い、何とかしたくてもヒカルは自分を見もしない。 自分で蒔いた種とはいえ、アキラをジレンマが襲う。 ヒカルと話したい。でもあのことには触れてほしくない。 都合のよい話はうまくいかない。アキラは悶々と日々を過ごしていた。それこそ夢の中のヒカルに思わずひどいことをしてしまいそうになるほど。 気持ちを少しでも落ち着けたくて、棋院からそれほど離れていない喫茶店でコーヒーを飲んでいた。誰も居ない家に真っ直ぐ帰ると、一人きりでもてあます気持ちのやり場がどこにもない。見知らぬ人の姿に縋ろうと、アキラは他人の気配の中に身を置くことで自分を守ろうとしていた。 定石の本を手にしても、いつしか指はページをめくるだけ、目は文字を追うだけになり、内容なんて頭には入ってこなかった。 こんなにひどい状態になるなんて、自分でも信じられなかった。自覚してからの転がり方が速過ぎる――アキラはこれまでまともに恋などしたことのない、経験の少ない自分を呪う。 そんな時、見知らぬ女性たちが声をかけてきたので、こんなのもアリだろうかと誘いにのってしまった。 普段の自分なら絶対! ありえない話だったと思う。身も心もすっかり腑抜けてしまっていたのかもしれない。 ほいほい連れて行かれて、飲めもしない酒を飲まされ、そのままなだれ込むことも努力すればできたのだろう。 だが生理的な嫌悪のほうが勝った。彼女たちのグロスで光る口唇にキスするなんて考えられない。特に、ヒカルの柔らかな感触を知ってしまった後では。 そのまま怒った彼女たちに野良猫みたいに捨てられて、ヒカルに見つけ出されるまで、冷たい地面に尻をついてじっと蹲っていた。 自分でも馬鹿げたことをやったと思う。すでにプロ棋士として仕事を持つ身であるというのに、こんなことが表に出たら棋院にも迷惑をかけるどころではないというのに。 ヒカルが来てくれなければ、ずっとああして座っていたのだろうか。まるでいつもアキラが見る夢みたいに、なんだか当たり前のように現れてくれて、すぐに顔を上げることができなかった。 他の何かで気を紛らわせようなんてできるはずがない。情けなさに泣けてくる。 自分がこんなに頼りなくて浅ましい人間だと思わなかった。そして、こんなに酒が弱いんだということも初めて知った。 酔いのせいにした二度目のキスは、苦い酒の味がした。 もうなかったことになんかできない。――アキラは実は酔いの覚めた頭で、今掴んでいるこの腕をどうしたら離さずにいられるかを考えていた。 いいや、やはりまだ酔っ払っているのかもしれない。夢の続きを現実に求めようとするなんて。短絡的というか、衝動的というか。 おまけに瞼が重たくて仕方ない。後頭部がずんずん脈打ち、そのリズムに身を任せると身体の力が抜けていく。 この手を離したくない。意識が闇に落ちる。この手を離したくない。 *** 案の定、受話器の向こうから聞こえてきたのは超音波クラスの金切り声だった。 ヒカルは劈かれた耳を押さえ、鼓膜まで食らってしまったダメージを少しでも和らげようと受話器を遠ざける。 しかし慌てて受話器を耳に戻すと、必死で弁解を始めなければならなかった。 「だ、だからさ、昨日塔矢が具合悪くなって、それで、」 再びヒカルが受話器を遠ざけた。何を言ってるかまでは分からないが、充分外にも声が漏れ、傍でその電話を聞いていたアキラはなんとなく状況が分かっていた。 「連絡しなかったのは悪かったよっ! ホント反省してるって、ゴメンナサイ!」 ヒカルも負けじと怒鳴り返すので、言葉と裏腹にまるで反省が感じられない。しかし全ての責任があるアキラは、ひとつため息をつくと、立ち上がってヒカルの手から受話器を取り上げた。 「あ」 ヒカルが驚いてアキラに振り向くと、アキラはすでに受話器を耳に当てていた。 「もしもし、お電話代わりました。塔矢アキラと申します。ボクのせいご心配をおかけして本当にすいません。昨日進藤くんが遊びにきてくれたんですが、そのままボクが熱を出してしまって……いえ、連絡を入れさせなかったボクが悪いんです。本当にすいませんでした。」 ヒカルは目を据わらせ、優等生ボイスで丁寧に謝罪するアキラを鼻で笑ってしまった。 ――何が熱を出して、だっ! 昨夜は結局、アキラがヒカルに無理やりキスした後、腕をがっしり掴んでそのまま眠りこけてしまったのだ。 ヒカルはなんとかその腕を振り解こうとしたが、異常なまでの馬鹿力は眠ってしまっているのにまったく緩まない。半べそをかきつつ、アキラと向かい合って床に座り込んだ状態で朝を迎えるはめになった。おかげで足腰がぎしぎし痛む。 すっかり朝日が昇り、ほとんど一睡もしていないヒカルと、ようやく泥のような眠りから目を覚ましたアキラがの目が合ったとき、第一の雷が落ちたのだ。 「お前は何考えてんだー!」 怒りが頂点に達したヒカルが爆発し、しばしお説教時間が訪れた。アキラも今回ばかりは全ての責任を感じ、黙って正座で項垂れていた。 「ふざけんな! もう朝になっちまったじゃねーか!」 ヒカルはひとしきり喚き終わった後、ぜいぜい息をついていたかと思うと、突然また「あー!」と大声を出して髪を掻き毟る。 「お母さんに怒られる……!」 そうして朝イチの謝罪電話を塔矢家からかけるハメになったのだが、やはりというか、一晩中連絡のない息子を心配していた母美津子の第二の雷が落ちてしまった。 (全部全部、塔矢のせいじゃねーかっ!) ヒカルは柔らかい声で母親と話をするアキラを睨みつける。 こんな酔っ払い、拾うんじゃなかった。こいつがひょこひょこ女についていかなければ、自棄酒なんか飲まなければ、いや、そもそもヒカルにキスなんかしなければ。 「はい、本当にすいませんでした。今度お詫びにお伺いします……はい、ええ、ありがとうございます。それでは失礼します。」 アキラは深々と頭を下げ、そうして受話器を置いた。 「……なんでお前がお詫びに来るんだよ」 「言葉のアヤだよ。本当に伺っても構わないけど」 しれっとして答えるアキラに、先ほどから何度も切れているヒカルの血管がまた一本切れた。 もう俺脳細胞全部死んじゃうんじゃないの!? 朝っぱらから大声ばかり出して酸欠気味である。塔矢家があまりに広く、大声を上げようが近隣の迷惑にならないことだけが救いだった。 「絶対来んなっ!」 「進藤のお母さんは是非遊びに来てくださいっておっしゃってたよ」 騙されてる! ――ヒカルは日頃の母・美津子の台詞を思い出す。 『この塔矢くんて子、ヒカルと同い年? 綺麗な子ねえ。しっかりしてそうだし。碁も強いんですってね。あんたもこんなふうに育ってくれればねぇ』 お母さん、こいつはとんでもないやつなんです! 酔っ払って女の人に連れまわされて、おまけにあなたの息子にキスまでしてきたんです! 「とりあえずボクのせいだって言っておいたから、帰ってもお咎めなしだと思うよ。……悪かった」 アキラは再び床に正座し、今度はヒカルに向かって深々と頭を下げる。ヒカルといえばすっかりふてくされた様子で、胡坐をかいて腕組みを決め込んだ。 「本当に悪いと思ってんのかよ」 「思ってる。……元はと言えば、ボクがこの前あんなことしたから……それでキミは怒ってるんだろ?」 ヒカルの口がぐいっとへの字に歪んだ。 近いが、ちょっと違う。 すると、アキラはそんなヒカルの雰囲気を察知したのか、苦々しげに口唇を噛んだ。 「分かった、謝る! ボクが何も言わないから怒ってたんだろう!?」 「分かってんなら最初っから白状しやがれ!」 「誰もいないならまだしも、人がたくさんいる碁会所で説明なんかできるわけないだろ」 「しらばっくれんな! お前、全部なかったことにしようとしたくせに!」 しっかり見抜いていたヒカルに、アキラはつい言葉に詰まった様子を見せてしまった。 「ホラ見ろ!」 アキラは図星を指されて口唇を噛むが、すぐに開き直ったように顔を上げる。 「最初はそう思った。なかったことにしようとしてごまかそうとした」 「そうだろ、お前ヘーキな顔で碁会所来るんだもんな」 「でももうごまかさない」 「そう、もうごまかすな……って、え?」 気づけばアキラはヒカルの目の前に立っていた。胡坐をかいたままぽかんと頭上のアキラを眺めて、昨日のよれた姿とは打って変わった強い眼差しにごくりと唾を飲む。 アキラはヒカルの傍で膝をついてしゃがみ、真っ直ぐな目でヒカルを見つめてくる。 「もうごまかさない。昨日言ったことがボクの全てだ……キミが好きだ」 「と、塔矢」 「キミが好きだからキスしたかった。今だってそうだ」 「ちょ、待て待て待て!」 なんだか今にも顔を近づけてきそうなアキラの前に腕を突っ張り、ヒカルは尻で後ずさりする。広がった距離はすぐににじり寄ってくるアキラに埋められ、ヒカルの背中に壁が当たったところで地味な追いかけっこは終わりになった。 「お前、まだ酔ってんのか?」 「酔ってないよ。真剣だ」 「……」 もう次の手がない。一気に投了したい気分だが、敗けたら敗けたでこの身がどうなってしまうのか考えるのが怖かった。 「キミといつまでも碁を打ち続けたい。だから気持ちを伝えるべきじゃないと思っていた。でももうキスしてしまった、ボクはこれ以上押さえることができない」 「そ、そんなの、お前の勝手な都合じゃねーか……」 声を出して初めて分かった、少しだけヒカルの身体が震えている。 これまでもアキラとは相当な紆余曲折があったのだけれど、今回のようなパターンは想像していなかった。一体どこをどうしたら自分に惚れたなんてことになるのか。 ヒカルは無意識に心の声に助けを求めていた。当然返事はないのだが、それでも何かに縋っていたかった。 (俺の知ってる塔矢じゃない。助けて、佐為) アキラは目を逸らさない。 「キミを失いたくなかったから、なかったことにしようとしたんだよ。それはキミのお気に召さなかったようだ。だから方法を変える」 「方法を?」 「キミを手に入れて、一緒に碁を打ち続けたい」 ヒカルの顎がぱかんと開いて、まさに絶句に相応しい表情で固まってしまった。 そんな間抜けな顔にも怯むことなく、アキラはそっと右手でヒカルの顎に手を添えると、優しく持ち上げて顎を閉じさせた。そのまま目を閉じたアキラの顔が近づいてくる。 「〜〜〜〜〜!」 三度目のキスは、ヒカルの勝利だった。 舌を噛まれたアキラが口を押さえる前で、ヒカルは混乱した頭を抱えてぜいぜいと肩で息をしていた。 |
若先生、へたれなんですな。