DRIVE ME CRAZY






 研究会が終わり、和谷は相変わらず一人きりの狭いアパートの部屋でぼんやり棋譜を眺めていた。
 そういえば、最近ここで一緒に打たなくなった。ヒカルが忙しくなってきたせいもあって、仕事や手合いで顔を合わせない限り、会う時間を作ることを怠っていた。
 伊角や本田、小宮たちと騒ぎながら打っている時のヒカルは、いつも笑っていた。お互い勝ったり負けたりを繰り返して、時に真剣に、時にふざけて打ち合っていたあの頃、ヒカルは楽しそうだった。
 今のヒカルは、碁を楽しむ余裕さえないように見える。
 真剣勝負の世界で何を甘ったれたことをと蔑まれるかもしれない。そんなマイナス思考が頭をちらつけば、自分で自分が嫌になってもう何も言えない。
 でも、元々自分たちは碁を打つのが好きで碁を始めたんじゃなかったのかと、問いかけてしまいたくなる。
 遥か遠くに駆け抜けるヒカルの背中を見ているだけの自分が、そんなこと言う資格なんてないのかもしれないけれど……
 和谷はふうっと息をつき、棋譜を手にして裏返した。すっかり頭に入ってしまった石の並び。saiのような完璧さ。
 きっと多くの人間がこの棋譜を目にして、驚嘆するだろう。それが誇らしいのに、何故か胸に不安が広がる。
 何を不安がることがあるのだろう。伊角も門脇も、この対局を絶賛していた。出版部でも皆興奮していた。きっと他の誰が見たって……
「……あ、そうだ」
 和谷はふとある人物の顔を思い浮かべた。
 去年の北斗杯前にひょっこりやってきた関西の棋士は、やけに熱心にヒカルの棋譜を調べていたっけ。
「アイツにも送ってやるかな」
 和谷は携帯に手を伸ばし、電話帳の「や」行を呼び出す。
 表示された「社清春」の名前を確認して、通話ボタンを押した。
 五回……六回……、……十回……
 なかなか出ないな、と和谷がかけ直しを検討し始めた時、ふいにコールが途切れて『もしもしっ!?』と慌しい社の声が大音量で響き渡った。
 思わず携帯を耳から遠く離してしまった和谷だが、すぐに引き戻して慌てて声をかける。
「や、社か? 俺、和谷だけど――」
『すまん和谷、ちっと手え離せんのや! 三十分したら掛け直す! 悪い!』
『春兄ぃの負け〜ぎゃははははは』
『うるさいっ! お前はだーっとれ!』
 社の声に混じって、小さな男の子の豪快な笑い声が聞こえてくる。
 そのけたたましい様子に圧倒されつつも、和谷は社の折り返し電話に承諾し、通話を切った。
 途端に静かになる室内。
「……アイツ、そういや弟いるって言ってたっけ」
 ぽつりと呟いた和谷は、大坂の空の下の社に何となく同情し、心身共に老け込むようなため息をついた。





 ***





「だーっ! もう、やめややめ!」
 小一時間ほど握らされていたコントローラーを、社はついに投げ出した。
「なんやあ、春兄ぃの根性無し」
「生意気言うな。もう付き合ってられんわ」
 社は隣で胡坐をかいていた小さな頭をがしがしと掻き回した。まるで社を小型化したようなツンツンヘアーにぎょろりと釣りあがった目。むすっと突き出した口唇はまだ子供っぽく、彼が社と並んで対峙していたゲーム画面もまた子供が好みそうな虫同士の対戦ものだった。
「あんなあ、兄ちゃんは忙しいんや。今日はもうやめや」
「春兄ぃのケチ!」
「なんやとコラ、豊秋!」
 社がわざとらしく拳を振り上げて怒鳴ると、豊秋と呼ばれた少年はきゃっと嬉しそうな奇声を発し、社に向かってファイティングポーズを気取って身構えた。
 いかん、と社は拳を下ろす。これではまた新しい遊びが始まってしまう。この元気いっぱいの弟に付き合っていたら、体力がどれだけあっても足りない。
 背中を丸めて弟の部屋から退散しようとすると、目の前のドアがノックもなく乱暴に開かれた。ギリギリ鼻先を掠める寸前のドアの動きを、ひん剥いた目で凝視しながら息をとめた社は、ドアを開け放った張本人を睨みつけた。
「危ないやないかい、美冬!」
「豊秋、はよお風呂入り! あんたがいつまでたっても入んないからお母さん怒ってんで!」
 社の抗議を完全無視した美冬と呼ばれる少女は、真っ直ぐ豊秋を見据えて高い声を張り上げた。
 髪こそ肩まで伸びたストレートだが、目つきは社に共通して鋭い。年の頃は中学生くらいだろうか、あどけない顔立ちながらも小さな弟を睨みつけるその目には妙な迫力があった。
 社は半眼で気の強い妹を睨む。豊秋も頬を膨らませながら、姉の言いつけに従うべく風呂に入る支度を始めたようだ。
 自分よりも威厳のある妹を恨めしく思いながらも、社は部屋を出ようとした。豊秋がそんな社の淋しい背中に声をかける。
「春兄ぃ、風呂上がったら続きやろ〜」
「阿呆、俺は勉強すんのや」
「何の勉強? 学校? 碁?」
「両方や!」
 面倒になった社がそう返すと、真ん中で二人の様子を見ていた美冬が盛大なため息をついた。
「春兄ぃが学校の勉強なんかするわけないやろ。碁、碁、って毎日毎日鬱陶しい。兄貴が碁打ちなんて恥ずかしくて友達に言われへんわ」
「何やと、美冬」
 片眉を上げて凄んだ社に、きっと振り返った美冬は社以上の強い目線で兄を打ち抜いた。
「碁なんてオッサンのやるもんやろ!」
「何抜かす! 今の囲碁界は若いもんが引っ張っとるんや!」
「若いもんって、春兄ぃの友達なんかみんなもっさりしたオッサン顔やないか!」
「お、お前なんちゅうこと言うんや! 年齢的にはまだピチピチやで!」
 社は関西棋士たちの顔を思い浮かべて、確かに美冬の言うことも一理あると一瞬考えてしまった。先輩棋士の津坂など、まだ二十歳だというのに顔だけ見たら三十代後半だ。
 しかしすぐにぶんぶんと首を振る。顔は老けてても心は青春真っ只中。共に泣き笑いしながら碁を打つ大切な仲間たちだ。
「何がピチピチや。気持ち悪い! 碁打ちなんてみんなオッサンや!」
「お前なあ、よう言うわ。塔矢や進藤の顔も知らんくせに」
「碁打ちなんか興味ないわ。豊秋、ぼけっとしとらんでさっさと入り! 姉ちゃん伝えたからね!」
 美冬はそれだけ早口にまくし立てると、わざわざ社の身体を突き飛ばすように肩を怒らせて、自分の部屋へとどすどす消えていった。
 あんなんで彼氏できるんかいな。社は我が妹ながら可愛げがないと肩を竦める。
 弟と妹の台風に振り回され、社もよろよろ自室へ辿り着いた。この部屋は落ち着く。愛すべき碁盤がある、家で唯一の安心できる場所だ。
「結構時間たってしもたな」
 社は時計を見ながら、ベッドに腰を下ろして携帯を取り出した。
 ちょうど三十分ほど前、和谷から電話がかかってきた。滅多に電話が来ることはないから何か大事な用事なのだろうとは思ったが、何分弟にゲームの相手をさせられていてすぐにかけ直せなかった。
 高校に通い、帰宅後は家の手伝いをさせられ、おまけに弟・豊秋の面倒まで見させられる。弟はまだ十一歳、来年はいよいよ中学生になるとはいえ、まだまだ体力自慢の立派なお子様だ。マトモに相手をしていては身が持たない。
 そして社の目の上のたんこぶ――というのも妙な言い方だが――、妹の美冬。兄が碁打ちというのが彼女にとってはとんでもないことらしく、碁の話を持ちかけようものなら先ほどのような厳しい釣り目で散々にけなされる。取り付く島もないとはこのことだ。
 碁打ちになりたいと直談判した当時に比べ、母はかなり理解を示してくれているように思う。特に応援してくれるわけでもないが、あからさまに反対することはなくなった。
 しかし父は相変わらず碁の話をすると渋い表情に変わる。社の高校の成績が褒められたものならまだ対応は違ったのかもしれないが、どうしても碁の勉強を優先してしまう社は毎回赤点と大の仲良しになっていた。
 高校生活も残りあと一年ちょっとだが、このままでは無事に卒業できるのかも怪しい。高校は立派に出てみせると断言した手前、それだけは何とか死守するつもりでいるが、その後についての話し合いが目下社の悩みの種だった。
「……そろそろ言わんと」
 三年に進級したら、すぐに面談が始まる。卒業後の進路について話し合うためだ。
 社は、今度こそ碁一本でやっていくことを親に認めてもらいたかった。
 碁打ちとして、社会に出て完全に一人立ちしたい。そして、そのことを親に理解してもらいたい。反対を押し切って、ではなく、納得して送り出してもらいたかった。
 プロと呼ばれるようになってからすでに二年以上、何度も行った話し合いはいつも平行線だった。しかしあと数ヶ月で十八歳になる自分が、いつまでも親を納得させられないなんてあまりに情けない。
 自分の夢ひとつ、胸張って親を説得できんで何が夢や――握り締めた携帯がミシ、と小さな音を立て、社はようやく自分が電話をかけようとしていたことを思い出した。
 これ以上待たせたら悪いと、社は和谷の番号を呼び出して通話ボタンを押した。数コールの後、すぐに和谷の声が聞こえてくる。
『もしもし?』
「和谷か? さっきはすまんかったな」
『いや、いいよ。なんか忙しかったみたいでこっちこそ悪かったな』
「なんも忙しくないんや。で、なんや。珍しいな電話なんて」
『ああ、それがさ……』
 和谷の話をフンフンと頷きながら聞いていた社は、ふいに目を大きく見開いて鼻息荒く携帯を握り締めた。
「なんやて!? 進藤、勝ったんか! アイツやりよったなあ!」
『う、うん。それでさ、棋譜が手に入ったんだけど、お前もいるかなって思って』
「い、いるいる! くれ! めっちゃ見たいわ!」
 社は目を輝かせて、遠く離れた東京の空の下で自分のことを思い出してくれた和谷に心から感謝した。
 和谷には去年の北斗杯前に散々世話になったのだ。本当なら行われないはずだった事前合宿が、和谷の心遣いによって開催されたことを社は一生忘れないと胸に誓っている。
『そう言うと思った。お前ん家ってファックスある?』
「おお、あるで。感熱紙やけど」
『じゃあさ、明日棋院からファックス送るよ。俺ん家携帯しか電話ねーからさ。番号教えろよ』
「おう、いいか? 番号言うで?」
 和谷に自宅の電話番号を伝え、何度も礼を言って通話を終える。
「そうかあ、勝ったんかあ、進藤……」
 二回戦の相手が倉田というのは、週間碁の記事を見て知っていた。
 ついにアキラと並んでトーナメント入りしたかと思っていたのが去年の話、それがあっという間に三回戦進出とは。今年はノッているのだろうか。
 去年の今頃のヒカルの棋譜は酷かった。例のアキラの身代わり疑惑に惑わされ、自分の碁を見失ったヒカルは哀れむくらいに無謀な碁を打ち続けて、そして北斗杯の結果は散々なことになってしまった。
 だが、今回はやってくれるかもしれない。ヒカルはどんな碁を打っているのだろう。気になる。気になる。
「ああ、はよ棋譜見たいなあ」
 社はベッドの上でごろごろ転がりながら、明日自宅に届くだろうファックスを待ち望んで雄叫びを上げた。
「和谷、ほんまええヤツやー!」
「春兄ぃうるさいッ!!」






長男清春(17)、長女美冬(14)、次男豊秋(11)。
こんな何の捻りもない弟妹の名前を考えるのに
ほぼ丸一日費やしたのは秘密です……