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 タクシーを降りたその位置で、遠ざかっていくエンジン音を背中に聞きながら、門の向こうに聳えるベージュ色の爽やかな外壁を見上げてため息ひとつ。
 顎まで伸びた黒髪を軽く手櫛で整えて、スーツをきっちり着込んだ男は左手首の時計を確認する。
 予定の時間五分前――丁度良い頃だろう。
 きりっと顎を上げた男は背筋を伸ばして歩き始めた。その凛とした横顔に、すれ違う制服姿の生徒たちが思わず視線を奪われる。
 塔矢アキラ二十五歳。職業プロ棋士。
 その道を多少なりとも齧った者であれば、彼がどれほど将来を期待されている天才棋士であるか知らないはずがないだろう。
 十代前半からプロとして日本棋院に所属し、数々の最年少記録を塗り替え、現在は二つのタイトルを保持、その他のタイトルも近々根こそぎ持っていかれるのではと囁かれているトップ棋士。
 棋戦で日々死闘を繰り広げ、合間を縫って各地のイベントに参加し、彼の名前で出された出版物も年々増えていく。多忙を極める彼がこの日訪れる予定の場所は、平凡な高校の――囲碁部だった。
 仕事用のスーツを着用し、気を引き締めて隙のない表情をしていることからも、アキラが「これは仕事だ」と気持ちを切り替えていることは窺い知れる。しかし、実のところこの話が最初にもたらされた時、すぐに良い返事ができなかったのも事実だった。
 アキラクラスの棋士ともなると、指導碁一回にそれなりの値段がつけられる。アキラを指名するような人物は懐に自信のある者が自然と多くなり、立場的にも頭を下げざるを得ない人間ばかりと碁盤を挟むことになっていた。
 その指導碁の常連の一人が、自分の息子が囲碁部に所属しているとアキラに持ちかけたのが発端だった。
 ――今年入学した息子が囲碁部に入部してね。先生、一度見てやってもらえませんか――
 部活動に付き合うほど暇ではありません、と返事ができるような相手ではなかった。
 多少強張りながらも笑顔でやり過ごし、時間を稼いだところで無駄だった。
 次の指導碁でもそのことをきっちり圧されたアキラは、表向きはにこやかに頷くことしかできなかったのである。
 もちろん、アキラが高校の部活動を馬鹿にしている訳ではない。有望な棋士の卵が埋もれている可能性だってある。
 しかし時期が悪すぎた。来月から始まる本因坊戦の挑戦手合で、アキラは挑戦者として現本因坊の緒方と対峙するのである。
 緒方は、幼い頃からその棋風を良く見て育ったアキラの兄弟子。同門対決と前評判も高い世紀の決戦、アキラは自分の勝率が五分であることを悟っていた。
 できれば棋戦に集中したい時期に、まだ年若い子供たちに対して笑顔で指導できるだけの余裕があるかどうか……一抹の不安が拭えずにいたが、引き受けてしまったものは仕方ないのだからとアキラは今日の仕事場へまっすぐ歩いていく。
 小奇麗な校舎だった。数年前に改築したと聞いていた通り、真新しさが端々に目立っている。
 生徒用に開放されている玄関を避け、職員用と思われる小さな戸口を潜り、アキラは警備の中年男性に身分を説明した。程なくして事務の女性が現れ、アキラを応接室に案内してくれる。
 応接室でしばし待つと、ぎこちないノックの後に緊張の面持ちで男子学生が二人顔を出した。立ち上がって丁寧に会釈をするアキラを前に、すっかり舞い上がった部長と思しき生徒がぶっきらぼうに頭を下げる。
 その初々しい様子がアキラの頬を綻ばせた。
 案外、息抜きになるかもしれない……そんなことを思いながら、彼らに連れられて二階にあるという囲碁部部室へ足を運ぶ。
 開いた扉の向こうでは、数十人の生徒たちがずらりと並んでアキラを迎えてくれた。


「今日はよろしくお願いします」
 一通りの挨拶を受け、アキラも頷いて改めて頭を下げる。
 さあどんなふうに指導すべきか、と彼らの出方を待っていたアキラだったが、生徒たちがどこか戸惑ったように顔を見合わせてひそひそと囁いているのが気になった。
 訝しげに目を細めたアキラに、石田と名乗った部長が申し訳なさそうに声をかけてきた。
「すんません……、その、実はうちの顧問がまだ来てなくて。来てからきちんと始めようと思っていたんですけど。その、出迎えとかも、ホントはそいつが」
 彼の弁解に混じり、部員たちが「ホント時間にルーズだよね」「遅刻すんの当たり前だもんな」と小声で文句を言っているのが聞こえてくる。
 そういえば、指導に呼んだプロ棋士を出迎えるのに学生二人だけというのは確かに妙だった。本来責任者が先立って挨拶をすべきシーンだったように思える。
 アキラは呆気に取られたが、思わず振り返った扉が開く気配はなく、遠くから足音が聞こえてくることもない。
 指導者不在で狼狽えている彼らをこのままにしておくもの気の毒だと、アキラは優しく尋ねた。
「普段はどんなふうに活動しているのかな?」
「え? あ、えっと、棋力の近い部員同士で打って、進……先生に見てもらってます」
 石田の返事にアキラはにっこり微笑んだ。
「じゃあ、まず普段通りにやってみようか。みんなの棋力を見せてもらおう。その後、棋力に合わせて置石を置いて、ボクが多面打ちをするのでどうだろう」
 アキラの提案に部員たちは顔を見合わせたが、すぐに彼らは微かに頬を紅潮させて何度も頷いた。アキラが優しく見守る中、ガタガタと椅子を鳴らして恐らくいつもの定位置についた生徒たちは、目の前の相手に対して「お願いします」と頭を下げる。
 対局前の一礼は、いつ聞いても気持ちの良いものだ――アキラは小さな棋士たちに目を細めて、ゆっくり踵を鳴らしながら碁盤が並ぶテーブルの間を歩き始めた。


 対局が始まってから三十分も経過しただろうか。
 並ぶ碁盤は十二。レベルはそこまで賞賛されるものではないが、思わず足を止めて覗き込んでしまうようなもの珍しい一手を打つ生徒が何人か見られた。
(……面白い手だな。なるほど、守らずにあえて押し込んだか……難しいが、もっと磨けばいい手になる)
 一人一人の棋力を頭に記録しながら、ちらほら見られる実験的な一手についてアキラは検討を始めた。
 あそこの生徒も。向こうの生徒も。まだしっかりとした形になってはいないが、自分たちであんな並びを思いついているのだとしたら、彼らは思った以上に期待できるかもしれない。
 決着のついたテーブルがいくつか出始めて、アキラはそこで対局をストップさせた。ぐるりと一周し、簡単なポイント解説をそれぞれ行ってから、特に斬新な一手を打った生徒に対して興味深げに声をかけた。
「キミ、この手……面白い発想だね。自分で閃いたの?」
 びくんと身体を揺らした生徒は、しどろもどろに説明する。
「あ、いや、あの、それは、この前の部活で、進藤がやってみろって」
「進藤?」
 アキラは思わず生徒たちの顔を見渡した。
 最初の挨拶の時に一通り生徒たちの名前を聞いたはずだが、進藤という生徒はいなかった気がする。
 首を傾げると、その隣の生徒が言い辛そうにそっと口を開いた。
「進藤、先生です。うちの顧問の」
「先生?」
 聞き返した時だった。
「悪い! 遅れたっ!」
 大声とともに乱暴に開かれた部室の扉の向こう、前髪を金色に輝かせた青年が息を切らせて立っている。
 顔つきや身体の大きさからして生徒ではないとすぐに分かるものの、ラフなシャツとジーンズ姿では教師であると納得するのも難しい。
 アキラが驚きに目を丸くしていると、青年は無造作に手の甲で額の汗を拭いながら部室にどかどか入ってくる。生徒の一人が「進藤、遅い!」と非難の声を上げた。
「悪かったって、ちょっと手が離せなかったんだよ」
 悪びれずに言い訳をする青年だったが、アキラの背後からはひそひそと「きっと競馬だ」「また負けたんだろ」と陰口が聞こえてくる。
 面食らっていたアキラの前まで歩いてきた青年は、乱れた髪をがさっと掻き上げて、その右手をジーンズの太ももで軽く拭いてからアキラに向かって差し出した。
 にっこり細めた瞳に、きらきらと光る前髪がふわりと被さる。
「顧問の進藤ヒカルです。今日はよろしくお願いします」
 ぽかん、と薄く口唇を開いたまま、アキラは思わずその手を取った。ぎゅっと握られた途端、周りの生徒から一斉にブーイングが響き渡る。
「遅せーよ! もう、進藤抜きでどんどん進んでんだよ!」
「今日は塔矢先生が来るから絶対遅刻しないでって言ったのに! 囲碁部の恥!」
 生徒たちに遠慮なく責められているヒカルは、とても教師の立場を持つ人間には見えなかった。唖然としているアキラに、石田部長が申し訳なさそうにそっと告げる。
「すいません……アホな顧問なんです……。」
 アキラははあ、と間の抜けた返事をし、改めてヒカルに目を向けた。
 悪かった悪かった、と大して悪びれずに生徒たちに言い訳をする彼には、教師の威厳のようなものが全く感じられない。
 世の中にはいろんな教師がいるものだ……と自分を納得させたアキラは、気を取り直して指導碁を開始することにした。





一目惚れ…というリクでしたが
一目惚れするところが違う気がします…(すいません!)
オリキャラも結構出張るし、原作いいとこ取りみたいなツギハギ話です。
実はこれ、今回の企画で一番最初にいただいたリクでした。
あれから一年半以上…大変お待たせした上にまたも懺悔いっぱいですが、
久しぶりの更新楽しんで書かせていただきました!
最後までおつき合いいただけたら嬉しいです。