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 あまりに数が多いとそれなりに集中力を必要とするため、一度に七人を限界として指導碁を三回に分けることにしたアキラは、ずらりと並んだ碁盤の前をゆっくりと歩きながら一手一手部員たちを導いていく。
 先ほどの部員同士の対局で生徒たちの力はある程度見ていた。その上で彼らの力に見合った置石を置き、個々の力を更に伸ばすべく神経を尖らせながら。
 部員たちの力量は様々だが、どの生徒も拙い石の並びからひたむきさが伝わってくる。
 いい目をしている、とアキラが口元に微笑を湛えた時、後方から突然、まるでアキラと顔を並べるように肩の向こうから顔を出したヒカルが、生徒の碁盤を覗き込んできた。
 あまりの近さにぎょっとしたアキラだったが、ヒカルは気にした素振りも見せずに碁盤を見つめてうんうんと頷いている。その横顔は実に楽しげで、しかし僅かに下がった目尻が年長者らしい彼らへの労いを滲ませているようで、ああ、やはりこの人は彼らの指導者なのだとようやくアキラに納得させるだけの優しさがあった。
 指導碁の手を休めず歩くアキラの後ろをぴったりついてくる、この不思議な教師にアキラは興味を覚え始めた。
『この前の部活で、進藤がやってみろって』
 先ほどの生徒は確かにそう言った。
 生徒にまで呼び捨てにされている彼だが、そのヒカルがやってみろと伝えた一手は、極めればかなりの深みを持つ「化ける」手だった。
 残念ながら部員にはまだその手の有効さを理解する力が伴っていないようで、次に繋ぐことはできなかったが、アドバイスを与えた本人がどれだけあの手の本質を掴んでいるかは微妙なところだった。
 でたらめに指示したのだとしたら、棋力は全く当てにならないだろう。十人プロがいて、四人が気づくかどうか……活かすことができればそれだけ威力のある絶好の一手。しかし力がなければその後の展開を乗り切れまい。
 もしもあの手の効力を理解して、彼に指導を施したのだとしたら、この教師は見かけによらずかなりの棋力の持ち主と言うことになる。もっとも、囲碁をやるようにも、教師にさえも見えない男だが……。


 一通りの指導碁を終えると、生徒たちよりもヒカルのほうが目を輝かせてアキラが打った手を興味深げに眺めていた。口唇が小さく動き、何事かを呟いているようだった。
「……そうか、なるほど……こうやって教えりゃいいのか……」
 気になって少し傍に寄ったアキラの耳にそんな声が届く。思わず苦笑いしたアキラは、改めて自分が打った石を目で追った。
 いくら高校生相手とはいえ、プロとして招かれたからには全力を尽くして打った。長年の対局で培ってきた技と、洗練された指導碁の経験がなければそう簡単には真似できない打ち筋のはずだ。
 それが分からないのか、余程自信があるのか。後者であれば面白い――アキラが冷笑に目を細めた時、ヒカルがおもむろに振り返った。
 その瞳があまりに真っ直ぐこちらを見るものだから――興奮のためか大きく見開かれたブラウンの瞳の奥へ、まるで深い深い水底に飛び込んだかのような錯覚に瞬きしたアキラは、生徒たちの溌剌とした「ご指導有難うございました!」という一声にはっと意識を取り戻した。
「お忙しい中有難うございました」
「有難うございました」
 次々に頭を下げられ、アキラはぎこちない笑みで何とか応える。
 ――今の不思議な感覚は何だったのだろう。
 もう一度ヒカルに顔を向けるが、ヒカルは一人の部員の前にある碁盤をじっと見つめて顎に指を添えている。なにやら真剣に考え込んでいるらしい彼に声をかける前に、ずいっと色紙を押し付けられた。
「サインいただけませんか」
「あ、あの、俺も」
「すいません、私も」
 あっという間に現場は即席サイン会となり、アキラは部員たちが差し出す色紙に次から次へと名前を書き込んでいかなければならなくなった。
 そんな様子には全く興味がないのか、サインの合間にアキラがせっせと視線を送っても、ヒカルは終局後の碁盤を順番に眺めて一人で楽しそうにしている。
 一通りサインが終わって、いざ彼に話しかけようとした時。一人の生徒がヒカルに向かってこんなことを言い出した。
「進藤、塔矢先生と打ってもらったら。プロと打つチャンスなんてなかなかないじゃん」
 友達に話しかけるような口ぶりにもぎょっとするが、自分と打て、と言われたことにも少なからず驚いたアキラは、こっそりと手首の時計に目を走らせた。
 予定よりも早めに進んだおかげで時間がないことはないが、手早く終わらせなければ厳しいところだ。
 え〜? と呑気な声を上げたヒカルに、部員たちはそうだそうだと後押しを始める。
「進藤、打ってもらえよ」
「そうだよ、進藤そこそこ強えじゃん」
「お前なあ、そういう台詞は俺に一度でも勝ってから言えよ」
 ヒカルと生徒のやり取りに、どっと笑いが沸き起こる。
 彼らの様子からして、進藤ヒカルと言う男は教師として敬われているわけではないようだが、良き指導者として慕われていることはよく伝わってきた。
 微笑ましさに苦笑したアキラは、一歩前に出てヒカルと向き合った。
 ――まあ、一局打ってみるのも悪くない。彼の棋力がどのくらいか興味がない訳じゃないから――
「先生さえ良ければ、一局お願いできませんか。ボクはまだ時間がありますから」
 願わくば、あの一手が本物であればいいと――心の片隅にでもその時は思っていただろうか?
 アキラの笑顔の提案を、少し迷った風だったヒカルは、照れ臭そうに頭を掻きながら「それじゃ、お願いします」と受け入れた。



「置石はいくつにしましょうか?」
 部室の中央に作られた即席の対局場として、テーブルの上に置かれた碁盤は一面のみ。
 その碁盤を挟んで向かい合い、対峙するプロ棋士と教師の周りを生徒たちがぐるりと囲む。「進藤ガンバレー」と小さな応援までささやかに聞こえてきた。
 白石の碁笥を手に取りながら尋ねたアキラに、ヒカルは苦笑いして首を横に振った。
「置石置いて負けたらコイツラに散々バカにされっから。ハンデなしでやられたほうがまだ格好つくもんで」
 肩を竦めながらそう言ったヒカルに、「弱気になるな!」と怒号ならぬ激励が飛んでくる。
 彼の言い分ももっともだと表情を和らげたアキラは、では、と一言断って白石を無造作に掴んだ。
 ばらりと碁盤の上にアキラが白石をぶちまけたのと、ヒカルが黒石をひとつ落としたのはほぼ同時。
 白石を二つずつ選り分け、それが奇数であることが確定し、先番はヒカルとなった。
「お願いします」
「お願いします」
 頭を下げながら、さてどういう展開に持っていくべきかと、アキラはまだ始まってもいない対局をシミュレーションする。
 生徒たちの手前、それなりに彼に花を持たせるべきか。そこそこの見所を作ったほうがいいかもしれない……しかしまずは力量を見極めねば――
 与えられた役目をまっとうすべく、決して驕りではない、よりエキサイティングな対局に臨んだアキラだったが、しかし組み立てた計画はものの数分で修正を余儀なくされた。
 まるで鞘のない剣―― 一見乱雑に見えて的確に急所を突いてくるヒカルの手に、顔色を変えざるを得なくなったのである。



 本物だ、と音もなく呟いた。
 なるべく焦りを顔に出さないように努めているため、周りの生徒たちは気づいていまい。
 しかし向かい合う男はどうか。アキラの焦燥を察知しているのではないか。目の前で、少し前の砕けた様子から幾分雰囲気を変えて静かな瞳をしているこの男は。
 信じ難い状況だった。盤面の形勢は未だアキラに傾いてはいるが、大きな差がある訳ではない。指導碁のつもりで請け負った対局だからと、力を抜いたスタートであったにしろ、この僅差ははっきり言って異常としか形容できなかった。
 彼の打ち筋はあまりに完成され過ぎている。おまけに余力さえ感じられる。
 最初こそ愕然としていたアキラだったが、いつまでも現実を認めない訳にはいくまいと――ヒカルの力を認め、こちらも力を尽くさなければ勝つことはできないことを理解した。
 ――これは指導碁じゃない。正真正銘の対局だ。一対一の真剣勝負――
 アキラは目つきを変えた。予定を変更し、ヒカルに勝つことを目的とした一手を放つ。
 ヒカルの眉がぴくりと振れる。ちら、と上目遣いにアキラの顔を確認して、彼もまたアキラの意図を悟ったのだろう。
 それまでただ静かだった顔つきが、ピンと糸を張り詰めたように厳しくなった。そして、じゃりと音を立てて掴んだ黒石を、鋭く碁盤に打ち付けた。
 アキラの眉間に微かな皺が寄る。しかし顔に出したのはその僅かな動きのみで、すぐにヒカルの思惑を封じるべく新たな一手を打つ。
 打ち返される黒石。人前で恥ずかしげもなく口唇を噛み締めてしまいそうなやり返しに、アキラも一歩も引けないとばかりに勝負を仕掛ける。
 いつしか部室は静まり返り、二人が打つ碁石の音だけがパチンパチンと部屋の緊張感を高めていた。
 三十分を予定していた対局は長引き、一時間を経過して――そろそろ二時間にもなるかという頃、手を止めていたヒカルがふっと息をついて「負けました」と頭を下げた。






まず懺悔ひとつめ。本因坊戦の時期が
実際のものより少し後ろにずれています……
夏休みに跨がって開催されていることになってます。
そもそもこのクソ寒い時期に更新しているのに、
舞台が夏休み直前というのが一番の懺悔かも……