Determine







 部活動の場では、極力普段通りに振る舞おうと決めていた。
 昨日の対局について部員たちに何事か言われても、いつものようにおどけて躱そうとシミュレーションまでしていた。
 それなのに、ヒカルが意を決して開いた部室のドアの向こうには――誰もいなかった。
 いや、誰もいなかった訳ではない。正確にはたった一人、石田がぽつりと椅子に腰掛けて何やら碁盤に石を並べている。
 しかし、十数人の部員が騒がしく揃っている光景を想像していたヒカルにとって、石田しかいない部室というのは酷く違和感のある場所だった。
 思わずヒカルは壁の時計を見上げた。我ながら珍しく時間ぴったりだ。まさか他の部員たちは、いつも遅刻してくるヒカルを見越して遅れてやってくるつもりなのだろうか。
 ドアの開く音でとっくに気づいていたのだろう、動揺しているヒカルを振り返った石田は、この事態に動じる素振りを見せずに「よお」と声をかけてきた。
「今日、部活休みにしたぜ。元部長命令で」
「や、休み……? なんだそれ、俺聞いてねえぞ」
「言ってねえもん。……昨日帰る時みんなで話し合って、俺が進藤に言うって決めたんだ」
 石田は椅子から立ち上がり、少し偉そうに顎先をヒカルに向ける。胸を這って立つ様子は石田なりのささやかな威嚇だったのだろうか、しかしその大きな態度が逆に彼の虚勢を裏付けているようだった。
 石田の緊張が、ヒカルにも伝わってくる。一体何を言い出すつもりかと、石田の反応を待ってヒカルは呼吸を控えた。
「進藤。……プロ、なんないのかよ」
 冷静さを装ったつもりなのだろう、淡々と告げた石田だが、声が僅かに上ずっている。
 そんな石田の前で、ヒカルは分かりやすく答えに詰まった。直球を投げ付けられた気分だった。
 それは、迷いながらも決して自分の口には出さなかった考えだった。アキラがヒカルに誘いかけた「新しい道」――それが何を指すのか分からないはずはなかったのに、あえて具体的に想像しないよう思考を閉ざしていた。
 プロ。まだ知り合って間もない頃、アキラがしつこいほど勧めて来た選択肢。
 あの時はすぐに拒否したはずの道を、ヒカルは同じように突っぱねることができずにいた。
 バカ言えと、茶化すにはあまりに沈黙が長過ぎた。口ごもるヒカルを追い詰めるように、石田は口調を強めていく。
「ホントはやりてえんだろ? 我慢して、俺らに教えてたんだろ?」
「石田、それは」
「塔矢先生、すげえ進藤のこと褒めてたんだぞ。ホントはこんなとこに埋もれてるようなヤツじゃないって。プロと変わんない強さ持ってるって!」
 石田が伝えたアキラの言葉は、ヒカルの眉を苦し気に寄せた。

 ――進藤って、そんな強いんですか?――
 ――彼さえその気になれば、いつでもプロとして通用するよ――

 アキラのことだ、軽い気持ちで石田に吹き込んだ訳ではないだろう。
 何も答えられないヒカルに焦れた石田は、乱暴に進めた足が椅子に当たって大きな音を立てるのも構わずにヒカルに近寄ってきた。
 若干低い視線でヒカルを見上げた石田の目は、何かを懇願するような色をしていた。
「全国大会の時、塔矢先生と喧嘩しただろ。……俺、あの時の塔矢先生の言葉気になって。連絡先なんか知らねえから、棋院まで行って会ってもらったんだよ。進藤、マジでやったらとんでもねえ強さだって。……俺らなんかに構ってるレベルじゃねえって」
「……塔矢がそう言ったのか」
 引っ掛かる台詞に目敏く反応したヒカルに、気まずく石田は舌打ちする。
「塔矢先生は、進藤が強えってことしか言ってなかったよ」
「……そんじゃ、レベル云々はどういう意味だ」
「……そのまんまだろ! お前、こんなことやってる場合じゃねえだろ! 塔矢先生、タイトル持ってんだぞ!? お前がその気になりゃ、タイトルだって狙えるって、そんなヤツが囲碁部の顧問で満足してんじゃねえよ!」
 核心を突かれるどころか、握り潰されたような感覚を覚えて、ヒカルは愕然と凍り付いた。
 アキラが遠回しに告げて来た言葉を、教え子である石田の口から聞かされたショックは大きかった。
 ヒカルの強張った表情でその衝撃に気づいたのだろう、石田は一瞬申し訳なさそうな顔を見せ、少し頬を赤らめながらぼそりと吐き出した。
「……昨日の進藤、カッコ良かったよ。マジで凄かった。気迫とか、全然塔矢先生に負けてなかった……あんな進藤、初めて見た」
「……」
「いつものバカやってる進藤もいいけど、俺は昨日の進藤のほうがずっとすげーって思ったし、……俺も、頑張ろうって思ったよ……」
 付け足しのようではあったが、思い掛けない言葉にヒカルは瞬きする。
 夢から覚めた直後のような顔をしているヒカルに対して、石田は照れくさそうに口唇を尖らせて続けた。
「ホントはプロやりたくて、無理して俺らに教えてんだったら……とっととプロ行っちまえよ」
「……無理、してるわけじゃねえよ……」
「でも、ここじゃ昨日みたいな対局なんてできねえんだぜ」
 厳しいところばかり責めてくる。できなくてもいいと、今のヒカルには反論できない。
 十近くも年下の教え子に乱暴に諭されて、少しだけの情けなさと、それよりもっと大きな感情がヒカルの鼻をツンと刺激した。泣くのを堪えているような歪んだヒカルの顔を見て、石田は視線を逸らしながらおどけた調子でやけに大きな声を出した。
「囲碁教えるんならよ、プロだってできんじゃん。指導碁とか、イベントだってあんだしさ。こんなちっちゃいとこでちまちま打ってるより、ガツンとタイトル取ったほうが囲碁に興味持つヤツも増えると思うぜ」
「……石田」
「だってよ、こんな頭悪そうなヤツでもタイトル取れんだもんな! もしそれでテレビとか出て、子供が進藤見てさ、これなら俺でもできるっつって囲碁やるヤツ増えるんじゃねえの?」
「……お前なあ」
 茶化す石田にがくりと肩を下げ、思わず苦笑が零れたヒカルは、顔を真っ赤にして精一杯強がる教え子のより近くに行こうとした。
 至近距離まで近付いて、ようやく石田の脚が微かに震えていたことに気づいたヒカルは、石田の強張った笑顔に目を細める。
 石田はぎこちなく笑いながら、「囲碁部は、」と続けた。
「囲碁部は、心配すんなよ。アイツらちゃんとやるからさ。俺らもOBで面倒見にくるし。勧誘もきっちりやらせて、新入部員めちゃめちゃ増やしてやるよ。……だから、安心してプロやれよ」
 石田の明るすぎる声色は不自然で、余計にヒカルの胸を締め付ける。
 自分がこれほどまで愛されていることを、こんな形で教えてもらえるとは思わなかった――ヒカルは握り締めた拳をぐっと太股に押し付けて、石田の言葉を噛み締めた。
「俺は、高校で初めて進藤に会って囲碁やったけど……進藤がプロになったら、もっとガキの頃に進藤見て囲碁始めるヤツもいるかもしんねえぞ」
「……、そう、だといいな……」
 初めて否定的ではない呟きを漏らしたヒカルに、石田は顔をはっとさせた。その驚きの目から、二度と視線を逸らさないようヒカルも真直ぐ石田を見る。
「……進藤」
「……ああ」
「マジで……マジでやれよ。中途半端にしやがったら、承知しねえぞ。プロなんなかったら、俺らみんなでぶっ飛ばしてやるからな」
「――ああ、分かった」
 しっかりと頷いたヒカルの力強さに、石田の瞳が輝いて小刻みに震えた。
 そして、それが何かの引金だったのか、直後にぐしゃっと顔を歪めた。
「……先生」
 震える声で石田が絞り出した呼び掛けは、耳慣れない響きでヒカルの心に溶けて行く。
 きっと最初で最後――友達同士のようだった教え子との関係は、確かに師弟だったのだと石田が伝えてくれた。
 顔の中心に向かってパーツの全てを寄せたような表情で、石田はぐっと歯を食いしばって俯いた。
「……俺らに、俺に囲碁教えてくれて……、……ありがとうございました……!」
 堪え切れずにぼたぼたと落ちる涙を見下ろして、ヒカルはもう一度大きく頷いた。
 礼を言うのはこちらだと、踏み出し切れなかった自分の背中を必死で押した石田の頭を掴み、ぐっと胸に引き寄せる。どん、とぶつかった額と肩が、忙しく上下に揺れていた。
 ここでの種は捲き終えた。道は分かつとも、彼らの芽ははっきり空を目指している。
 自分が目指すのは更なる高み―― 一番高いところで輝いて、彼らの太陽とならなければ。
 もっと力を試したい。アキラと打った、相手の思惑を抉り取るような駆け引きの世界に挑みたい。
 佐為が教えてくれた囲碁の素晴らしさを、いつかはヒカルも誰かに託す時が来るだろう。しかしそれは今ではない――まずは自ら時代を切り拓こう。
 それだけの力を、佐為は与えてくれた。アキラのように、勝負の世界で自分を必要としてくれる人もいる。
 もう、自分に言い訳して殻に閉じこもっている理由はない。可愛い教え子にここまで尻を叩かれて、それでも強がるようなプライドなど自分には似合わない。
 ヒカルは顔を上げ、選んだ夢の先を見据えるように目を凝らした。
 ――行けるところまで行こう。佐為が目指した光の向こうまで――
 ありがとう、と嗚咽を漏らす石田に囁き、そして同じ台詞を胸の中で叫んだ。
 遠い空できっと今も見守ってくれている、かつての師匠に届くように。

 長い髪を揺らし、振り向いた佐為が光の向こうで微笑んだ気がした。






 ***






 巡る季節を追いかけて、暑さの消えた乾いた風に揺られ、鉛色の空を見上げて白い息を吐き、ようやく空気が緩んで来た三月。
 卒業証書を手にして記念撮影に夢中になる生徒たちと、その父兄で賑わっている校庭の片隅で、珍しくスーツを着込んだヒカルを囲碁部の部員たちが取り囲んでいた。
 卒業する三年生だけでなく、在校生となる一、二年生も涙を浮かべている。そんな生徒たち一人一人に声をかけ、肩に手を置きながら、ヒカルは優しく別れを告げていた。
 三年生が旅立つ今日。――ヒカルにとっても教師である最後の日だった。
「あ、進藤! 塔矢先生だ」
 部員一人が指差す方向に顔を向けると、確かに特徴的な髪型をした人物がこちらに向かって足早にやって来る。人込みの中で探すのに苦労したのだろうか、どこかほっとした顔を見つけてヒカルは反対に呆れた表情になった。
「やっと見つけた。卒業おめでとう」
「お前なあ、何しに来たんだよ。関係者じゃねえだろ」
「随分だな。せっかくキミの卒業祝いに来たのに」
「お前は俺の父兄かよ」
 くだけた調子で言い合う二人を、部員たちがニヤニヤ笑いながら遠巻きに眺めている。以前のようなピリピリした空気はなく、まるで昔からの友人同士のような二人の様子は、彼らにとっても安堵であるらしい。
 もうすっかり部員全員と顔馴染みになったアキラは、本当の卒業生にも祝いの言葉をかけ、全員と握手を交わした。石田を始め、大学に進学するほとんどのメンバーが囲碁を続けるとアキラに宣言し、それを後ろで聞くヒカルも誇らしく微笑む。
 最後にヒカルにもアキラは手を差し出し、ヒカルもその手をぐっと握り締めた。無言で握手を交わす二人の視線が何よりも雄弁だった。
 手を放し、それにしても、とアキラはヒカルに小声で尋ねる。
「辞めて良かったのか? 試験は夏だ。プロ採用が決まるまで、教師を続けていても良かったんじゃ……」
「バカ、試験受けんのにいちいち仕事休めねえだろ。年度の途中で辞めんのも迷惑かかるしな。大体、集中して勉強しねえと本番に間に合わねえよ」
「キミなら今すぐプロ試験を受けても問題ないだろう」
「お前な、そんなこと言って落ちたら責任取ってくれんのかよ」
「責任は、取るよ。ただし、キミがプロになってからだ」
 不敵な笑みを浮かべて意味深長に囁くアキラの言葉を受けて、ヒカルはしっかりセットしていた頭をいつもの調子で乱雑に掻いた。
 その途端、二人の会話を聞いていた部員の中からヒューと口笛が飛んだ。
「『責任取る』だって〜! プロポーズ〜!」
「お幸せにー!」
 うんざりしたように腰に手を当てたヒカルは、すっかり呆れ返った口調ではしゃぐ生徒たちを窘める。
「お前らなあ、なんだってそんなとこばっか食い付くんだよ」
「塔矢先生ー、片思い実って良かったね〜!」
「喧嘩すんなよー! 犬も食わねえし!」
「アホか!」
 失言した生徒たちを捕まえながら、最後の大騒ぎを繰り広げる囲碁部の様子をアキラが静かに見守る。
 徐々に校庭から人が流れ始めた。名残惜しくも旅立つ生徒たちが、それぞれの道を歩み始めている。
 囲碁部のメンバーも、迎えに来た親と共に一人、また一人と別れを告げて行った。

「頑張ってね」

「私たちの事、忘れないで」

「気合い入れろよ! 諦めんじゃねえぞ!」

 本来自分がかけるべき言葉を受け取って、ヒカルはその重みを噛み締めた。
 最後に石田と固く握手を交わし、互いの健闘を誓い合う。
「夏こけたら、承知しねーからな!」
「ああ」
 教師と教え子ではない、対等の男同士としての約束だった。
 
 ヒカルは静かに真上に昇った太陽を睨む。
 一度は目を背けた光だった――犠牲だなんて言葉は今でも使いたくはない。しかし、自分が手控えることで佐為への罪滅ぼしをしていたつもりだったのは事実だった。
 打ちたいと言う強い思いをヒカルに託して消えて行った佐為。そんな佐為のために、第一線を目指すことよりも小さな芽を育てることに意義を見い出した、つもりだった。
 だから勝負と名のつく場所は極力避け、囲碁の世界に直接絡まないように努めた。教える立場を望みながら、囲碁界ではなく一介の教師を選んだのもそんな無意識の理由があったのだろう。
 それらは全て言い訳にすぎない。本当に目指したかったものに対して前を向くことができた今、初めてヒカルは消えて行った佐為に胸を張れるような気がしていた。
 佐為が遺したヒカルの碁で、より高い場所を目指すこと。何より、彼があんなに愛した囲碁を楽しんで打つこと――痺れるような勝負の世界で、アキラと打ったあの時の対局のように、胸躍る石の高らかな音を耳に刻み続けていきたい。
 そのために、新しく一歩踏み出す。
 隣で微笑むアキラに頷き、今はまだ追う立場だけれど、一年後には並んで立つ自分の姿を想像して――ヒカルは力強く笑い返した。


 さあ、ここから飛び出そう。
 確かな足取りで、ヒカルは校舎を後にした。





30万HIT感謝祭リクエスト内容(原文のまま):
「パラレルで、どこか街中ででも(どこでもOKです!)
ヒカルに一目ぼれしたアキラが原作の如くヒカルをつけ回し(笑)、
見つけ出した末強引に迫りまくっちゃう話。
本篇のような優しくて不器用なアキラさんだったら更に素敵です!」

もう一話目から懺悔している状態が示す通り、
リクエスト通りじゃないし設定ムチャクチャだし
何よりクソ長えし平謝りです……!
このお話、リクエストいただいてすぐ思い付いたのですが
ちょっと書き始めて「長い!」と思って一旦手を止め、
他のお話を書きながら少しずつ完成させていきました。
トータル一年以上かかってやっと完結……
それなのにアキヒカ未満で終わってしまった……!
本当はくっつくところまで考えていたのですが、
あまりの長さに今回は断念です。
いつか続きを書きたいなあ〜。
終盤の青春っぷり、冷静になって読み返すと
真夜中のラブレターばりにこっ恥ずかしかったですが、
なんかもう勢いで押し切っちゃっていいでしょうか。
でもすっごく楽しく書かせていただきました!
リクエスト、本当にありがとうございました!
(BGM:Determine/INORAN)