Determine







「佐為のために、指導者に徹するのがキミの答え……なら、何故キミはあんなに頑なにボクとの再戦を拒んだ? キミの立場は変わらないんだ、断る理由はないだろう」
「だから……、お前みたいなプロが、相手するような……もんじゃねえって……」
 呟きながら、自分で矛盾に気づいたヒカルは顔を赤らめる。
 アキラもそれを理解していながら、あえて追求し続けた。
「ならば今し方打った本気の碁は? キミは勝つつもりでボクとの対局を受けた。もし本当にキミがボクよりも自分を格下だと思っているのなら、端から勝敗などこだわらないはずだ」
「……」
 言い訳を探せなくなったヒカルが気まず気に目線を泳がせる。
 何かを言いかけるように口唇を薄く開いては、続けられずに噤む、を何度か繰り返した後、結局何も言えないヒカルに代わってアキラが慎重にヒカルの本音を補い始めた。
「邪推ですまない。……キミは本当は、あえて自分の本気を封印していたんじゃないか? 打ちたいという欲求を、自分自身で禁じていたんじゃ?」
「……俺は」
「指導しているキミは確かに活き活きとしていた。指導者が向かないとは言わない。しかし、先ほどの対局でのキミは明らかにその非じゃなかった! 打つことをあんなに楽しんでいる人間はプロにだってそう多くはない……向上心のない人間には得られない集中力だ」
 ヒカルは床を睨んだまま答えない。ただ、少し前に石を打ち続けた指先がじんわり痺れたような気がして、固く拳を握り締めた。
「キミがボクとの対局を拒んだのは……自分で打つことの面白さを思い出したくなかったからじゃないのか……?」
 アキラの言葉が胸の中心を突く。
 ヒカルは眉を寄せて目を瞑り、否定に口を開きかけ――無駄な足掻きと諦めて、細く息をついてから天を見上げた。
「……アイツはもっと打ちたいって言ってたんだ。俺ばっか、やりたいようにやれねえだろ……」
 口の中で消えてしまいそうな小さな呟きだったが、恐らくアキラの耳には届いたのだろう。
 静かに椅子を押しながら立ち上がったアキラは、控え目な靴音を立ててゆっくりとヒカルに近付いて来た。そして、下がった肩に軽く手を置く。
「……佐為は力を託して笑ってくれたと、そう言っていたね。キミが自分の道を選ぶこと、喜んでくれるんじゃないかな」
「……俺なりに考えた結果がこの道なんだ。後悔はしてねえ……」
 そう言いながらも詰まりがちなヒカルに対して、アキラは小さく眉間に皺を刻んだが、やがてそっと手を放した。
 自分が口を挟むことではないと判断したのだろうか、少し迷った素振りを見せながら、それでも諭すような口調でそっと囁いた。
「自分のために、キミが我慢をしているのだとしたら……佐為はどう思うだろうか」
「……!」
 顔を上げたヒカルと、アキラの意味ありげな視線が一瞬絡まる。
 否定できずに頬を強張らせるヒカルから、アキラはよそよそしく一歩退いた。そして放置されたままだった碁盤に近付き、数秒見下ろしてから――両手で石の並びを崩す。
 碁笥の中に黒石と白石を選り分けていくアキラをぼうっと眺めながら、ヒカルは動くことができずにいた。碁石を収めたふたつの碁笥がことりと碁盤の上に置かれても、声すら出せないままだった。
 アキラは何故だか苦く微笑み、古ぼけた碁笥の蓋をじっと見つめてぽつりと呟く。
「……キミの決心を否定したいわけじゃない。たぶん、ボクはまだ嫉妬しているんだ」
「……嫉妬?」
 これまでの会話の流れには関係のない単語が出て来て、声を詰まらせていたヒカルも思わず聞き返した。
 アキラの笑みには自嘲が感じられた。
「いつか、酷いことを言った時……ボクはキミの生徒たちにはっきり嫉妬したんだ。キミといつでも打てる彼らに、みっともなく嫉妬した」
「……」
「佐為の棋譜を手に入れて集中力を取り戻すことはできた。でも、本因坊最終局の前日……キミの部員が一人、ボクを訪ねて棋院に来た」
「……あ」
 ヒカルはすぐに石田の顔を思い浮かべた。ヒカルとアキラしか知るはずのない、アキラが本因坊のタイトルを得たら再戦を考えると言う約束……やはり石田は、そのことを直接アキラから聞いていたのだ。
 アキラはその時のことを思い出したのか、それまでとは少し違った様子でくすりと笑った。
「とても緊張していた様子だったよ。それでも一生懸命に、何故ボクとキミがあんなに争ったのか理由を尋ねてきたんだ。キミをとても慕っているのがよく分かった……」
「……アイツ」
 第三者から自分の教え子についての話を聞き、嬉しさと共に照れ臭さを感じてヒカルは頬を赤らめる。
 そんなヒカルとは裏腹に、アキラの笑みはどこか淋し気なものを纏っていった。
「微笑ましくて、……羨ましかった。彼らも間違いなくキミを必要としていて、キミの力になりたがっている。だから、指導者としてのキミを否定し切れない。キミが真剣に育てた生徒が、その想いに応えている……その絆がなければ、ボクだって無理にでもキミをこっちに引っ張り込みたいんだ」
「……塔矢」
「キミがここまで昇って来て欲しいと願うのは……ボクの我が儘だ」
 そう言いながらアキラは自分の胸を指した。
 ヒカルはその仕草に目を細める。眩しいものを見つめる目だった。
 アキラはふっと肩の力を抜くように息をつき、一区切りをつけたように顔を上げる。そして、穏やかな表情で静かにもう一度笑い、優しくヒカルに呼び掛けた。
「……もし新しい道を選ぶなら、いつでも連絡して欲しい。力になれると思う……。今日は、ありがとう。本当に楽しかったよ……」
 真摯に一礼したアキラは、潔さを感じる背中をヒカルに向けてドアへと歩いて行く。
 ヒカルは応えられないまま、そのシルエットが閉じたドアにはめ込まれた擦りガラスの向こうに消えて行くのを、ただ黙って見つめていた。






 その夜、ヒカルはなかなか寝付くことができずにいた。
 灯りを落としてからすでに数時間。ぼんやり眺める天井の曖昧な輪郭をじっと見つめ続けている。
 目を閉じなければ、眠れないことは分かっている。が、目を閉じてしまうと駄目なのだ。
 闇の中に甦る黒と白の石の並び。碁盤を鳴らす軽快な音……
 瞼の裏に鮮明に現れる棋譜が、ヒカルの胸を揺らして行く。眠るどころではない。今すぐ硬いベッドから抜け出て、部屋の脇で鎮座している碁盤に向かいたくなってしまう。
 何度身体を起こしかけただろう。しかし、ヒカルはただシーツを握り締めて天井を見つめていた。
 迷いだった。

 ――自分で打つことの面白さを思い出したくなかったから――

 違うと言えなかった。出て来た言葉は、アキラの推測を肯定しているも同じようなものだった。
 そんなつもりはなかった。いや、なかったと思い込もうとしていた。佐為のために何かを我慢して、今の自分があるだなんて考えたくはなかった。
 優しすぎる幽霊――彼はいつもヒカルに謝ってばかりで、だからこそヒカルはいつも強気でいられた。
 打ちたくて打ちたくてその一心で現世に留まり続けたのに、囲碁の面白さにヒカルが目覚めてからはまさしくヒカルの影となり、打ちたい気持ちを「我が儘」なのだと淋し気に告げた佐為。
 そんな佐為から伝えられた力を、次の誰かに託すために……
 飽くまで影の役割を背負うことで、自己満足の罪滅ぼしをしていたつもりだったのだろうか。
 ……犠牲になった、つもりだったのだろうか……
 ヒカルは寝返りを打つ。壁に向かい質素な部屋に背を向けて、片隅に眠る碁盤に背を向けて。
 そして闇色の壁を睨む。指はまだ痺れている。目を閉じなくとも、頭は数時間前の熱戦に戻りたがってヒカルを誘う。
 初めて、佐為ではない相手と真剣に打った。
 初めて、自分の持つ力を振り絞った。
 打ち切った――それは思い掛けないほどの満足感をヒカルに与えた。あれだけ本気で戦って、敗北が悔しくないはずはない。しかしそれ以上に心を占めるときめき……胸の高鳴りがヒカルに向かって叫ぶ、楽しい、嬉しいと。
 自分が餓えていたことに気づかないフリをしようとしていた。日々の生活に不満がないのは本当だったが、それは自分の欲望を押し殺していたからだ。
 いや、殺せていたと思っていたのは自分だけなのかもしれない。
『進藤、いっつも俺らに本気なんか見せてねえじゃねえか!』
 子供たちの純粋な目を欺けるはずがなかった――あの言葉はショックだった。
 彼らに囲碁を教えることができたのはこれ以上ない幸せだ。それなのに、散らばった心はもうひとつの夢に顔を向けようとしている。
 本気……本当の気持ちは何処にあるのだろう。
 今までやってきたことを否定するつもりはない。だけど、あの精神をギリギリまですり減らして相手に挑む、痺れるような緊張感を知らない頃の自分には戻れない。
 楽しかった。……楽しかった……
 呟くと、涙がじわりと滲んできそうなくらい。

 ――ヒカル。ヒカルも、囲碁が本当に大好きなんですね。
 ――私の碁が、貴方の中で生きている……

 あの棋譜を、佐為に見せたら何と言ってくれるだろう。
 佐為は笑ってくれるだろうか……、それとも……

 佐為のために、と強がれば強がるほど、記憶の中の綺麗な横顔が哀しみに俯くような気がして、ヒカルは闇に向かって口唇を噛んだ。





台詞に頼らないで書けるようになりたいなあ。