electric man






「俺、ちょっとトイレ」
 和谷が立ち上がり、楽しい会話の余韻に浸るかのように小さく鼻歌を歌いながら席を離れる。
 社とヒカルだけになったテーブルで、手の中のコップをゆらゆら揺らしていたヒカルがおもむろに口を開いた。
「社。……あんま、塔矢の話の時に俺のほうじろじろ見んなって。お前意識しすぎだぞ」
「わ、悪かった」
 咄嗟に謝罪したが、目の前のヒカルは怒ったふうではない。寧ろ優し気に細めた目は微笑んでいるようにさえ見えた。
 その余裕を感じる態度に、社はかえって気恥ずかしさを感じてしまう。
「塔矢の話が出るのなんて当たり前だろ。明日は北斗杯の予選なんだぜ。アイツも俺らと同じ条件で来るんだから」
「その通りや。面目ない」
「あー、別に頭下げんなって。大丈夫、和谷はなんも気付いてねえよ」
 屈託なく笑ったヒカルを前に、社は苦笑いを見せてこめかみを掻いた。
 少し会わない間に、なんだかヒカルが大人びたような気がする。
 先ほどのさりげない振る舞いといい、今の落ち着いた語り口といい、初めてアキラへの想いに気付いた時のヒカルとは雲泥の差だ。
 単純に身体が大きくなっただけではない。心身共に成長したヒカルをまざまざと見せつけられ、何処か気後れしている自分がいる――社は小さく首を振り、怯むなと自身に言い聞かせる。
 同時に沸き起こる期待で胸が熱くなってくる。ヒカルの成長はどれだけ碁に表れているだろう。電話やメールでのやりとりはあれど、ヒカルときちんと打つことができたのは去年の北斗杯後の合宿が最後である。棋戦の棋譜には目を通してはいるものの、実際に打つのとは受ける印象が何倍も違うことは社もよく分かっていた。
 打ってみたい。明日、予選が終わった後にでも時間はあるだろうか。
 そう思い始めると、俄然身体が疼いて来た。
「なんやお前余裕出たなあ。昔のちょっとしたことでおろおろしとったお前が別人みたいや。はよ打ちたくなってきたわ」
「そう? でも打ちたいってのは同感だぜ。明日、予選終わった後時間あんだろ?」
「当然や! ここまで来てお前らと打たんで帰れるかい」
 勇んで両拳を握った社の前で、ヒカルが僅かに笑顔を強張らせたような気がした。
「あー……、塔矢はたぶん、無理だ」
 「お前ら」と複数形にした社の言葉に反応したのだろう、「塔矢」という名前を出したヒカルの口調は、先ほど鮮やかに和谷からアキラの話を遠ざけた時に比べて歯切れが悪くなったように感じた。
 それは本当にささやかな変化だったのだが、社は幸か不幸かその小さな兆しを敏感に嗅ぎ取ってしまった。
 思わず、なるべく表情を変えないようにヒカルに探りを入れてしまう。
「……なんや、アイツ都合悪いんか」
「う、ん。ちょっとな。アイツいろいろ忙しいんだ」
 ヒカルは軽く目を伏せ、穏やかな笑顔のまま手にしたコップを軽く振る。小さくなった氷がカラカラと音を立てた。
 何ということはない、和谷が戻って来るまでの暇潰しの仕種。しかし社の胸に一度引っ掛かったものはそう簡単に抜け落ちてはいかない。眉間に皺が寄りそうになるのをぐっと堪えて、トイレの方角からまだ和谷が現れないのを確かめた社は、少し声を潜めて尋ねた。
「うまくいっとるん? お前ら」
「ん? うん。相変わらずだよ」
「塔矢の新居、行ったんか?」
「行かねーわけねえだろ。ホラ」
 そう言ってヒカルは尻ポケットからじゃら、とキーホルダーを取り出して社に見せた。いくつかぶら下がっている中でひとつの鍵を主張するヒカルの指の仕種を見て、社はすぐにそれがアキラの新居の合鍵だと気付く。
「アイツ一人暮らし始めてハネ伸ばしまくってるよ。なんと最近の趣味は料理だ」
「料理! ほんまか。ダシすら知らんかった男が……」
「しかもお菓子ばっか作んだぜ。俺最近太った気ぃする」
「よりによって菓子かい。お前、肥やされて食われるんちゃうか」
「マジかよ、ひでえ」
 眉を垂らして笑うヒカルの表情に、わざとらしさのようなものは見当たらない。何やらアキラとの間に気まずさのようなものもないようだ。
 気のせいだろうか、と社は小さく首を捻る。彼らがうまくいっているのは嘘ではないらしい。それを証拠に、今の会話を皮切りにヒカルの口から次々と惚気が零れて来た。だらしなく弛んだ頬は、これまで社が目にしてきたヒカルと何ら変わりない。
 べらべらとアキラについて語り続ける厄介な口に、そこまで聞いてない、と社がヒカルを押しとどめようとした時、和谷の足音が近付いて来て自然と会話は尻切れになった。
「お待たせ〜。どうする? そろそろ出るか?」
「その後は? 場所変える?」
 テーブル脇に戻って来た和谷を見上げるヒカルの脳天気さに、和谷は肩を竦めてため息をついた。
「お前なあ、明日予選だろ。俺はいいけど、お前らはもう帰って休めよ。明日寝坊したって知らねえからな」
「あ、そっか。そうだよな」
「しっかりしろよ進藤〜。大体社は大阪から出て来て疲れてんだから休ませてやれって。お前ら、マジで明日負けたら承知しないからな」
 和谷にじろりと睨まれ、社もヒカルも苦笑して頷いた。
 社は腕の時計を覗き込む。気付けばレストランに入ってから二時間。ついつい話に花を咲かせ過ぎてしまったようだ。
「それじゃ、明日」
「おお」
 レストラン前でヒカルと別れ、今日の寝床となるホテルまでの道のりを和谷と並んで歩く。
 ヒカルは何も言わなかったが、この後恐らくアキラの家に行くのではないか、なんて社はぼんやり考えていた。
「悪かったな、泊めてやれなくて」
 ふいに隣の和谷がすまなさそうに呟いて、社は頭ひとつ分小さい和谷を見下ろして手をひらひら振った。
「ええって。急な日程やったし。今日かて時間裂いてくれたやないか」
「でも久々にお前と打ちたかったんだよなあ。あ〜、明日の移動がもっと遅い時間だったらなあ」
「気にすんなって。またの機会を楽しみにしとるから。せや、俺来月から一人暮らしやし、こっちで手合いある時は宿代わりにしたってええで。やっと恩返しできるわ」
「恩返し? んな大したことしてねえよ! でもお前んち泊めてもらえたら打てるし、楽しいしでいいプランだな」
 に、と歯を見せて笑う和谷に釣られて社も歯を見せた。
 じゃあまた、と分かれ道で手を振り合い、夜道を一人歩く社は曇った夜空を見上げて口笛を吹く。
 北斗杯の予選。いよいよ今回がラストの参加とあって、気合いも充分過ぎるほど入れて来た。
 用意されたシード枠のため、勝負は一発。勝てば四年連続の参加が決まり、負けたらそれで終わり。分かりやすくていいと社は顎を引き締める。
 今日会ったヒカルの様子からして、不調ということはなさそうだ。相手が余程の強さでなければ順当に勝ち残るだろう。そしてアキラも。
「……」
 落ち着いた様子とは裏腹に、印象に残ったヒカルの些細なぎこちなさが何となく気にかかるが……
「……、多分、前のを気にしすぎてんやな、俺」
 呟きは風に消えた。
 半年ほど前、社家に泊まりに来た時のアキラ。
 普段通りの彼の中に、ほんの一瞬顔を覗かせた危ういシグナルがまだ胸を騒がせる。
 いいや、気のせいだ。でも、なんだか気になる。
 そんな無意味なやりとりを自分の中で何度か繰り返したが、結局答えは出なかった。
(まあええわ)
 どちらにせよ、明日アキラとも顔を合わせるのだ。
 その時に際立った変化がなければ、自分の心配も取り越し苦労で終わるだろう。
 こんなことでいつまでも気を取られていないで、明日の勝負に向けて精神を統一せねば。
 社は「おしっ!」と大声を上げ、ずんずん大股で東京の街を横切った。道行く人がびくりと振り返るのも構わずに。






ヒカル、のろけられる相手は社オンリーなので
ここぞとばかりにのろけたようですよ。
僅かな時間なれど密度は濃かったかと……