一方、部屋に一人閉じこもっていたヒカルは、先ほど引っ張り出したモノの存在を認められずに部屋中をウロウロ歩き回っていた。 ありえない、ありえないと呟きながら、視線がどうしてもベッドに行ってしまう。――何だってあんな絶好の位置に。ベッド脇にはちょうどよくコンセントの差込口もあるし、いつでも好きな時に始動オッケーだ。 泣きたい気持ちいっぱいで顔を覆った瞬間、軽くドアをノックされてヒカルはぴょんと飛び上がった。 「進藤? ボク、ちょっと出かけてくるから」 先ほど枕で叩き出されたことを覚えているのか、アキラはドアを開けずに外から声をかけてきた。 「お、おお」 心成しか震える声で返事をすると、足音が遠ざかっていく。耳を澄まし、足音が玄関に辿り着いてそのまま外へ出て行ったことを確認すると、ヒカルはほっと胸を撫で下ろした。 とてもアキラの顔を直視できそうにない。……というのも理由があった。 先ほど見つけたイカガワシイオモチャ……の他に、もうひとつ度肝を抜かれるようなものを発見してしまったのだ。 「……なんだこれ……」 もう一つ枕の下に隠れていたもの、今度は本の形をしていた。 これがエロ本ならどんなに救われたことだろう……だがしかし、シンプルなノートのような外見のそれはよく見ればポケットアルバムで、恐々中を開いたヒカルはそのままひっくり返りそうになった。 ドキッ! おかっぱだらけの撮影会……そんな馬鹿馬鹿しいことを無意識に連想するほど、写っているのはおかっぱおかっぱおかっぱ……つまりあの男、塔矢アキラだ。 写っている写真は様々だ。碁盤に向かっている真剣な顔、恐らく対局中の写真。舞台の上でマイクを握っている写真。大きな碁盤の前で何やら解説をしているらしい写真。その写りはどれも美しく、アキラはカメラ目線ではないがきりっとした凛々しい眼差しを際立たせている。 それから、何かの取材を受けているような写真……ポラロイドの試し撮りのようなものもある。ヒカルは直感で、これらの写真は自分が撮ったものではないと見抜いた。 だがしかし。めくればめくるほど砕けていく写真――どう考えても背景が先ほどのリビングで照れ臭そうに笑っている写真、寝顔、それから、それから…… ばたんとヒカルはアルバムを閉じた。 ――なんでアイツのハダカの写真があるんだよっ! 後半にちらほら現れる肌色の写真はまともに見ることもできなかった。 こんな写真があるのは大問題だ。大問題だが、それより何より、その所有者が自分というのは大問題どころの騒ぎでは足りないのではないだろうか!? ちらりと見たところ、どうも隠し撮りに近いアングルが多かった。ヒカルはまたも直感してしまった――後半の写真は自分が撮ったものではないか、と。 とんでもないことになった。あれだけアキラを変態と罵っておきながら、自分の部屋にはもっと凄まじい爆弾が隠れていた。 かなり怪しい電動オモチャ。そしてあまりに危険なアルバム。 変態は俺か……? 落ち込んだヒカルは、硬くて狭いベッドの上でじたばたと暴れていた。 さて、市河に電話をしてみたアキラだったが、返ってきた反応は自分が予想したものと少々違っていた。 『アキラくん! さっき芦原さんから聞いたわよ! 記憶喪失なんですって!?』 驚いてはいたが、恋人に対する態度にしては淡白に感じられた。第一、恋人であるなら芦原から連絡をもらった時点で何らかのコンタクトを取ろうとするのではないか? それでも記憶を失う前の自分を知っていることには間違いないので、アキラは状況把握のためにも彼女に会ってみることにした。 彼女が指定した先は勤務先の碁会所――アキラの父親が経営しているのだという。そこに来てくれと言われ、ますます市河が恋人であるという予感は影を潜めてしまったが、一縷の望みを託してアキラは碁会所へ出かけた。 着いた途端に自分の父親、もしくは祖父ほどの年齢の男たちに囲まれ、アキラはぽかんと口を開けた。 「若先生! 記憶喪失ですって!?」 「大丈夫ですか! わしらのことも覚えてないんですか!?」 酷い剣幕で詰め寄られ、アキラはたじたじと後ずさる。そんな親父たちを割って現れたのが、かの市河嬢だった。 「もう、みんなアキラくんが困ってるじゃない! アキラくん、驚かせてごめんなさいね。私が市河よ。みんな……碁会所のお客さんたちも心配してるの」 申し訳なさそうに告げた市河は、どう若く見てもアキラより十歳は年上のようだった。 こんなに年の離れた人と恋人だなんて――アキラは彼女の自分に対する態度といい、予想が外れたことを確信した。 では、自分の恋人は一体誰なのだろう? 携帯電話には市河以外の女性の名前は見当たらなかった。 もしや不特定多数――考えかけて、眩暈を感じたアキラはぱたんと思考のフタを閉じる。 「アキラくん、大丈夫? 具合が悪いんじゃあ」 「だ、大丈夫です。なんだか疲れて」 「しょうがないわよね。いきなり全部忘れちゃったなんて……本当に何にも覚えてないの?」 「ええ、さっぱり……」 気遣いを見せてくれる市河と言葉を交わしながら、取り巻く親父たちも含めて碁会所の中を見渡してみた。 初めて見る場所だが、それにしては空気が身体に馴染んでいる気がする。 ここにいても違和感がない、そんな気がしたアキラは、恐らく自分は何度もここに足を運んでいただろうことを理解した。 「進藤くんも記憶喪失なんですって?」 市河の問いに、アキラは曖昧に笑った。 あの得体の知れない同居相手に、ついさっき変態と罵られたばかりなのだ。 帰って顔を合わせるのも気まずい……それもこれも、あんなおかしなものがベッドに仕込まれているから…… アキラが一人悶々と記憶の再生に苦しんでいると、一人の初老の男性がこんなことを言い出した。 「二人でさっぱり忘れちまうってのも不便ですな。若先生はあのマンションに誰も招きたがらなかったし」 「そうそう、進藤が散らかしてるから恥ずかしいって零してたよな」 「寝に帰るだけでお持て成しの道具も揃ってないから、って芦原先生まで断られてたもんな。誰も二人の私生活を知らないってのが困ったもんだ」 アキラはカタカタと頭の中に僅かな情報を打ち込んでいく。 確かにヒカルは散らかす素質があった。実際リビングには脱いだままの服が落ちていた……が、他に目立ったものがあったかといえば、思い出すことはできなかった。 自分が常に目を瞠らせているのだろうか? では、持て成しの道具が揃ってないとは? 咄嗟に浮かぶのは、あの不気味なまでに二組ずつ揃えられた食器だ。あそこまできっちり二人分用意するくらいなら、来客用の茶碗、せめてカップくらいあっても良いのではないだろうか……? しかし覚えている限り、棚の中にそういったものは見当たらなかった。 最後に、「招きたがらない」とは何故だろう? ――確かにあのベッドを見られるのはとても微妙だ。真っ当な理由で購入したものだとしても、かなり微妙だ。 マンションに知人を通せば、同居人がいるなら話は部屋で、となってもおかしくない。そうなるのが嫌で人を呼ばないなら分かる――がしかし、となると疑問の鉾先は同居人だ。 あんな激しいベッドを置いているくせに、何故ヒカルの同居を許可したのか? もとい、何故ヒカルはアキラとの同居を承諾したのか? ヒカルだって叫んだではないか。「変態」と。 そんな変態的自分と、何故ヒカルは共同生活を送っているのだろう? さっぱり分からない……アキラはますます頭を抱える。 その動作を記憶を失った故と勘違いしたのか、取り巻く人々が心配そうにおろおろと動揺し始めた。 「若先生、無理なさらず」 「そうですよ、まだ病み上がりなんだから」 「アキラくん、困ったことがあったら何でも言って」 人生の先輩たちのこの態度、どうやら自分は日頃の行いは悪くないようだ。 だからこそ余計に気になる。あのベッドは、あの大量のコンドームは、ピンク色のローションは。 アキラは思い切って尋ねてみた。 「あの……、その、ボクと特に親しい人なんかは……ご存知ではないでしょうか。例えば、親友とか、……恋人とか」 きょとんと丸くなったたくさんの目に囲まれて、アキラは小さく赤くなる。 やはり、彼らは何も知らないだろうか。良い返事を期待せずに反応を待っていたアキラに、遠慮のない言葉がばしばし飛んできた。 「親友だったら進藤くんよ。他に友達ってちょっと思い付かないし」 「そうそう、若先生と同年代の友達ったら進藤くんしかいないから」 「あれは友達っつうのかね? しょっちゅう言い争いしてるけど……」 「何、喧嘩するほど何とやらだろうよ。若先生があんなに年相応に見えるのは進藤くんの前だけだ」 「恋人は囲碁だな。女にゃ興味ないっつう顔してるもんねえ」 「硬派って言いなよ。女なんかにうつつ抜かしてる暇なんかないのよ、若先生は」 「そうそう、時間あれば進藤くんと打ってるような人だから」 「そういや進藤くんも女っ気ないねえ」 「あの子も何だかんだ言って碁に一途だからね」 「二人とも囲碁が恋人なんだからなあ」 「全くだ、浮いた噂もないし、本当にいいライバルだよ」 次々まくし立てる市河と親父たちの言葉に、アキラは現実とのギャップを感じてくらくらと足元をふらつかせた。 |
アルバム前半は棋院の出版部からくすね、後半は……自粛します。
いつか真面目な記憶喪失ものも書きますので、
今回はどこまでも走らせてください。