ERASE






 ひとしきり暴れたヒカルだったが、喚いた分だけ疲労も募る。
 寂しく腹の虫がくうと音を立て、部屋から出ることを余儀なくされた。
 もうとっくに陽が落ちているというのに、出かけて来ると告げてからアキラが帰ってくる気配がない。
 何処に行きやがったんだアイツ、と膨れ面で悪態をつき、あのおかっぱコレクションを思い出してどんよりと顔を曇らせる。
 あらゆるアングルから撮られた数々の写真を、何故あんなところに置いていたのか……できれば考えたくない。
 とにかく今は腹を膨らませることだけ考えようと冷蔵庫を開けてみるものの、中に入っているものは食材ばかりでそのまま食べられそうなものがほとんどない。
 野菜も肉も、生で食べるのは難しいものばかり……かといって、これらの材料を使って何かを作るなんてことはさっぱり頭に浮かばなかった。
 戸棚を漁っても何もない。米はあるが炊き方が分からない。途方にくれたヒカルは、唯一そのまま口に出来る牛乳で空腹をごまかしながら、何か買いに出かけようかと腰を上げかけた、その時。
 玄関から物音がした。
 思わずリビングを出て音を出迎えたヒカルは、まるで帰ってきたアキラを待ち望んでいたかのような格好になったことに気づいて、更にあのアルバムを思い出して顔を赤らめた。
 アキラは飛んで来たヒカルに若干不思議そうな顔を向けたが、小さく「ただいま」と告げる。ヒカルはおかえりと返すのも気まずく、ただ頷いた。
「どこ行ってたんだよ」
 ため息をつきながら、疲れた様子でリビングに入ったアキラに尋ねると、アキラは曖昧な苦笑いを見せる。
「……ちょっとね。それより、食事した?」
「い、いや、これから、買いに行こうと思って」
「買いに? 食材は充分あっただろう」
 不審げに眉を寄せて、アキラはキッチンに向かう。
 その背中をヒカルは恨めしそうに睨んだ。
「ほら、たくさん入ってるじゃないか。何か作ったらどうだ」
「め、面倒なんだよ」
「……ボクは適当に何か作るよ」
 呆れたような声が返ってくるのを聞いてむっとしつつ、自分の分も作ってもらえるだろうかと若干の期待も膨らんだのだが、
「言っておくけど、キミの分は自分で調達しろよ。それぞれきちんと自炊してたそうだから、それくらいできるだろ?」
 容赦のない一言がヒカルの頭に血を昇らせた。
「べ、別に! 俺、腹減ってねえもん!」
「さっき買いに行くって言ってなかったか?」
 ひょいとキッチンから顔を出したアキラに、ヒカルはべーと舌を出した。
「うるせー! てめえなんか食い倒れろ!」
 いまいち効果のなさそうな捨て台詞を吐き、ヒカルはリビングを出て自室に閉じこもった。
 正直この部屋にいるのも落ち着かないのだが……ここしか居場所がないのだから仕方がない。
 なるべくベッドに近づかないようにして、部屋の隅で空っぽの腹を抱えてヒカルは無意味なストライキを始めた。


 ヒカルが出て行ったリビングをちらと覗いてから、肩を竦めたアキラは食事の準備を続ける。
 米をといで、炊飯器にセットして早炊きボタンを押して――
 それから味噌汁にお浸し。あと、じゃがいもがたくさんあるから肉じゃがでも作ろう。他には……そんなことをぶつぶつ言いながら、手馴れた様子で包丁を握る。
 やっぱり凄くしっくりくる、とアキラは使い慣れたキッチンへ満足そうに頷いた。
 ここで毎日食事の支度をしていたのだろう。深く考えないでも鍋や調味料のありかが分かっている。ここで暮らしていたことは間違いない。
 しかし、先ほど碁会所で聞いた通り、自分たち以外の誰もここでの暮らしぶりを知る人間がいないのだ。
 聞くところによると、たった今アキラがヒカルに言った通り、自分のことは自分でやるというのが基本だったらしい。確かめる術はないが、自分達がそう言っていたと言うのだ。生活パターンが違うので就寝前の対局や検討くらいしか顔を合わせなかったらしいが、その割には碁会所の親父たちの言葉が引っかかる。
 ヒカル以外に交流がある人はとの問いに、全員が揃って「いない」と答えた。同門の兄弟子たちや碁会所繋がりの人を除けば、親しい人間は本当にヒカルしかいないと彼らは言い放ったのである。
 ――そりゃ、親しいんだから同居もOKしたんだろうけど。
 それにしてもやはりこの部屋は不自然だ。
 他の誰も招かない部屋。二組ずつしかない食器。あの大きなダブルベッド……
 記憶を失う前の自分がどんな人間なのか、さっぱり分からない。今のところ、周囲の反応を見る限りヒカルが叫んだような変態的存在ではないと思うのだが。
 食事が終わったら、少し碁盤を触ってみようかとアキラは思いつく。棋士だと教えられはしたものの、囲碁と言われてもピンと来ていなかった。
 職業にしていたくらいだから、碁盤を見たら何か思い出すかも――そう考えながら出来上がった料理を茶碗や小鉢に盛り、テーブルに並べて箸まで添えた。
 さてヒカルを呼びに行こうとリビングを出かけて――アキラははっとして食卓テーブルを振り返る。
 さっき自分で、自分の分しか作らないと宣言したのではなかったか?
 それぞれのペースで生活しているのなら、食事もそのほうがいいだろうと思ったのに。気づけば、無意識に二人分の夕食を用意してしまっている。
 アキラは混乱したが、作ってしまったのだからとヒカルを呼びに行った。


 部屋の前で軽くノックをして、返事を待たずにドアを開ける。
「あっ、こ、こら!」
 部屋の隅っこでヒカルが小さくしゃがみこみ、顔を見せたアキラに非難の目を向けた。
 二度も続けて部屋に入るのを拒否されたことにむっとするが、そんな端でちょこんと座っている姿を単純に不思議に思う。
 それから、アキラにとっては初めて見るヒカルの部屋をざっと見渡してみた。
 確かに自分の部屋に比べ、随分粗末なパイプベッドがひとつ。それからカラーボックスを本棚代わりにして、中にはどうやら漫画が並んでいる。
 アキラの部屋と同じく、備え付けのクローゼット。そして碁盤。あとはごちゃごちゃとよく分からないオモチャのようなものが転がっていて、雑然とはしているが……あまり生活感のようなものはなかった。
「なんだよ、何見てんだよ!」
 何故か顔を真っ赤にして焦った様子のヒカルが、立ち上がってずかずか近づいてくる。それ以上部屋の奥に立ち入らせないとでも言うのか、アキラの前にずいと立ちはだかったヒカルから顔をひょいと逸らし、アキラは率直な感想を口にした。
「……キミ、この部屋使ってるのか?」
 呟きがどれほど間抜けなものか、アキラははっとして口籠った。
 使ってないはずがない。このマンションで、ヒカルの部屋はここだけなのだから。
 しかし入った途端、こんな雑然とした部屋なのに、奇妙な緊張感を感じた。それはまるで大勝負の前のような、ぴりぴりした空気だったのだ。
 不思議そうに眉を寄せているアキラを、焦れたヒカルが本格的に追い出しにかかった。胸を押してドアの外に押し出そうとするヒカルの腕を捕まえて、アキラはしれっとした口調で告げる。
「夕飯、キミの分も作ったけど。いらないのならいいけどね、別に」
 ヒカルの動きがぴたりと止まった。
 アキラは満足げにヒカルの腕から手を離す。食べ物が絡むと、実にヒカルは扱いやすい。
「大したものはないけど。並べてあるよ。リビングに行こう」
 ヒカルは頬を膨らませて顔を赤くしていたが、やがてアキラをぐいとドアの向こうに押し出し、自分も部屋を出てバンとドアを閉めた。
 そして不必要に足音を立ててリビングに向かうヒカルの背中を眺めて、苦笑しかけたアキラははたと笑顔のまま動きを止める。
 ――何故、ボクは彼が食べ物に釣られやすいことを知っていたんだ……?
 なんだかこんなやりとりが当たり前だったような気がする。身体に染み付いている日常の一部とでも言うのだろうか……
 しかし、だとしたら周りのイメージと実生活には随分と違いがあるのでは……?
 顎に指先を当てながらヒカルに続いてリビングへ行くと、ヒカルはむすっとした顔のままでちゃっかりテーブルに腰を下ろした。アキラが並べた食事の前。もう一方の食事の前にアキラも座ろうと椅子を引いて、そこでも一瞬動きが止まる。
 ――この位置も。彼は何の疑問もなくそこに座り、ボクもここに座るのが当たり前だと思っている。
「何だよ、座んねえのかよ」
 不機嫌というよりは待ちきれない様子のヒカルに促がされ、アキラも慌てて席につく。
 いただきます、と箸を手に取り、勢い良く食べ始めたヒカルの隣で、自身も食事を口にしながらアキラはずっと考えていた。
 こうして並んで食事を取ることに違和感を感じていない。ヒカルもまた、そうなのだろう。ヒカルの箸の進み具合からして遠慮もないし、今なんか――ヒカルがおもむろに伸ばした手に、思わずアキラは醤油を渡してしまっていた。
 こんな光景が当たり前だったのだと、思わないほうがおかしい。きっと記憶を失う前は、毎日こんなふうに並んで食事をとっていた。アキラが毎回二人分の食事を作って……?
 おまけに、食事が終わった途端に自分はヒカルの分まで食器を片付けようとしているではないか! アキラは身体に染み付いた動作に愕然とし、そして憮然とした。
 夕食を作ってもらった身でありながら、ヒカルはごちそうさまの一言のみで、後片付けを手伝おうともしない。そのままソファに移動して、満腹で気持ちが良いのか背凭れに身体を預けて深く息をついた。
 あんまりな態度に怒鳴ってやりたいのに、不思議と苛立ちが湧かないのだ。それどころか、その奔放さが何だか愛しいとさえ――
 ガチャン!
 大きな音にはっとしてアキラは足元を見下ろす。ヒカルも弾かれたようにソファから身体を起こした。
 アキラの足の傍で、手から滑った二人分の茶碗が無残に割れてしまっていた。
「あ〜もう、何やってんだよ!」
 駆け寄ってくるヒカルにうまくフォローもできず、アキラは慌てて割れた破片を拾い集める。ヒカルも飛び散った欠片をしゃがみこんで拾い出した。
「ぼーっとしてたのかよ? ったく、去年の記念日に買ったやつなのに!」
 さらりとそんなことを言ったヒカルを、アキラは手を止めてまじまじと見た。
「……記念日って、何の?」
「え? あ、あれ……? な、なんだろ」
 ヒカルはごまかすでもなく、本気で自分の発言に驚いているようだ。
 アキラは自分の表情がどんどん渋くなっていくのを感じていた。






ここの家はコックとお客の担当が決まっていた様子。
たぶん最初は嫌々コックだったかもですが、いつの間にかそれが快感に。
……なんてことあるだろうか……