質素ではあるがちゃんとした夕食を終えて、ヒカルはようやく人心地つく。 ついさっきアキラが茶碗を割ったせいで大騒ぎになったが、始末も終えたし気持ちは落ち着いた。……がしかし、本来はこんなふうに落ち着いている場合ではなかったのだ。 部屋で見つけたアレコレに頭を悩ませていたというのに、食べ物に釣られてすっかり忘れてしまっていた。満腹感を得た今こそ、あの厄介な存在についてきちんと向き合わなければならない、とほんの少しは考えてみるのだが。 満腹すぎて、できればもう何にも考えたくない。この後ひとっ風呂浴びて、さっさと疲れた身体を休めてしまいたい……ヒカルの意思は実に楽なほうに傾いた。 アキラは未だ茶碗を洗っている。一声かけたほうがいいかなと、キッチンを覗き込んだ。アキラがやけに真剣な顔で、何かぶつぶつ呟きながら食器を洗っている。 てきぱきとしたスポンジさばき、次々綺麗になっていく食器たちを見下ろす厳しい眼差し。皿を洗っている姿が無駄に格好良い。その整った横顔には、禁欲的に見えてしかしセクシーでもあるという矛盾した魅力が漂っている。 ――ああ、俺この角度好きだ…… 思わずぼーっと見蕩れていたら、視線に気づいたのかアキラがこちらを振り向いた。目が合ったことではっとしたヒカルは、たった今浮かんだ危険な感想を慌てて頭から振り払おうとする。 「進藤……何?」 「あっ、お、俺、風呂入ろうかとっ」 「……ああ、どうぞ、ご自由に……」 アキラの言葉を聞き終わらないうちに、ヒカルは全速力でリビングを飛び出した。 ――お、俺、今何考えた!? 無意識の呟きを弾き出しても、今度は枕元に忍んでいたアルバムのアキラが次々に浮かんでくる。 そういえば、あの写真もみんな自分好みのアングルだった……じゃなくて! ――もう、俺どうしちゃったんだよ! これじゃ、まるで、まるで…… その先を考えないようにしてバスルームに飛び込んだヒカルは、頭から熱いシャワーを浴びてがしがしと髪を擦った。 シャワーを浴びたら、さっさと寝てしまおう。一晩ぐっすり眠ったら、ひょっとしたら記憶も戻ってるかもしれないし…… そんな淡い期待を景気づけるようにがりがり頭を掻いたヒカルは、恐らく並んでいると思われる場所に手を伸ばしてシャンプーを探った。 それらしきボトルを掴み、中身を手のひらに取ろうとして――その液体を濡れた前髪の隙間から見たヒカルは、液体の色が眩しいほどのピンク色であることに目を剥いた。 ひぎゃー! 「ななな、なんで、なんでコレがココにも」 ヒカルがシャンプーと間違えて掴んでいたものは、アキラ部屋のベッドに仕込まれていたものと同じ怪しいローションだった。 左手のひらにとろりと溜まった液体は、ヌルヌルしていて実に滑りが良さそうだ。ヒカルは慌ててシャワーを全開にして、べたつく左手を洗い流した。 アキラの部屋にある時点では、彼だけを変態と決め付けることができた。しかし! バスルームは共通施設ではないか……。 半泣きで手を洗い続けるヒカルの耳に、脱衣所の扉がばたんと開く音がした。振り返ると、バスルームのガラス戸に男の影が写っている。その影だけでヒカルの心臓がどきんと跳ねた。 「今、変な声が聞こえたぞ! 何かあったのか!?」 「な、な、なんでもない! なんでもない!」 異変を聞きつけてやってきたアキラに、何故か裸の胸を両腕で抱えて隠しながらヒカルはぶんぶん首を横に振る。 入ってくるな、でもちょっと入ってきて欲しいと同時に浮かんだ相反する希望にヒカルの混乱は最高潮を極める。 「マジでなんでもねえから! も、もう俺あがるから!」 「さ、さっき入ったばかりじゃないか?」 「そうだけど、いいからさっさとそこからどけ!」 理不尽な要求に顔を顰めながらも、言われた通り脱衣所から出て行こうとしたアキラは、脱衣所スペースに備え付けられているシャンプードレッサーにふと目を留めた。 ここでもお揃いのコップが並び、色違いの歯ブラシが刺さっている。髭剃りまで仲良く隣同士だ。 アキラは続いて目線を下ろす。タオル掛けにもお揃いのタオル。そして脱衣所の籠――男二人の同居生活だというのに、脱いだ汚れ物が全部一緒に押し込まれている……。 この状況、通常なら当たり前のことだろうか? アキラは自分の心に百歩ほど譲るよう説得してみたが、答えは否――いくら親しい相手だからといって、家族以外の人間とこんなふうに洗濯物をまとめられるのは絶対に嫌だ。人のを洗うのも、自分のを洗われるのも嫌だ。 それなのに、何故ヒカル相手なら別に嫌じゃないどころか率先して洗ってあげたい気持ちになるのだろう? 籠の中で絡まる下着とシャツが、汚いどころか無性にエロティックに見えてくるのは…… いけない、とアキラは歯を食いしばり、脱衣所で見た不審なものたちから目を背けてリビングに駆け戻った。まだ食器洗いの途中でもあったので、キッチンで再びスポンジを握る。 この同居は何かがおかしい。アキラはいよいよ積もり積もった疑問と向き合わねばならない時が近づいていることを自覚した。 そういえばマンションに来る前、やたら偉そうに自分が兄弟子だと主張した緒方が言っていたっけ…… 『はっきり言ってお前らの暮らしは閉鎖的だったからな。俺も、誰もお前らが具体的にどんな生活をしていたか知らん。だからお前らが実際に暮らすしか手はない。普通にしてたらそのうち思い出すかもしれんぞ』 閉鎖的。この「閉鎖」という言葉に、今や危険なニオイが充満しているのは気のせいではない。 洗っている食器も、全て二つずつ揃ったセット。 その他の生活用品もセット。……いや、この場合「ペア」と呼ぶべきか。 当たり前のように用意してしまった二人分の食事。苦じゃない後片付け。 あの極端に大きいベッド。コンドームとローション…… 誰も知らない私生活。招きたがらない部屋。絡まった洗濯物と、――激しい興奮状態にある今! ――な、なんでボクはこんなに…… ガシガシと不必要に泡立てて食器を洗うのは、身体の中央に熱が集まろうとするのを堪えているためだ。 ガラス越しに見た肌色の影。脱いだばかりの下着。どれもこれも、相手はヒカル――男のものだというのに、何が悲しくて心も身体もこんなに昂ぶっているのだろう? 自分だって健全な男であるはずなのに。あの大量のコンドームがそう主張しているではないか。あの怪しいローションだって…… ――ローション? アキラの手が止まる。 通常、男女の営みにローションの使用は必須だろうか? 全く使わないということはないだろう。世の中にはあらゆる事情がある。だがしかし、枕元に常備しなければならない理由があるかと問われると、……すぐに思いつくものはない。 「男女」でなければ話は別だが―― 「いかん!」 また浮かびかけた危険な考えを掻き消そうと、力を込めた手の中でばりんと皿が割れた。 ああ、これはリーグ入り記念で二人で選んで買ったのに……咄嗟にぽつりと呟いた言葉に対してリーグ入りって何だっけとツッコミながら、アキラは泣きたい気持ちを抑えて泡を落とした皿を処分した。 結局アキラが去ってからも身体の熱がなかなか引かず、ヒカルは一通り全身を洗ってからバスルームを出ることになった。 自分でそこからどけと言ったくせに、アキラが本当に出て行ってしまうと物足りなくて仕方がなかった。あの意気地なし、男なら中まで入って来いよなどとあまりにネジの外れた悪態までつきかけて、ヒカルは途中からお湯ではなく水を浴びたのだった。 何だか自分はずっとおかしい。あのヘンなオモチャを見つけた時から、あのアルバムを見てしまった時から。 あれが自分の部屋にあるということは、己の所有物に他ならない。アルバムはともかく、オモチャの使い道は……やはり考えなくてはならないのだろうか? 嫌だ、と涙目になったヒカルは、バスタオルでがさがさ乱暴に身体を拭き、もうとっとと寝てしまおうとリビングに顔だけ出した。 「俺、もう寝る! オヤスミ!」 アキラの返事を待たずに部屋に飛び込み、濡れた髪のままでベッドに潜りこんだ。 それからぎゅっと目を瞑って息を殺して数十分―― 自分のベッドであるはずなのに、何だか落ち着かない。 マットが硬い、冷たい。毛布もなんだかよれよれしていて肌触りが悪い。 おまけに枕元から例の危険物たちを撤去するのを忘れていた――ヒカルはそれらの存在を頭から消そうと必死で羊を数え始める。 羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹……四匹…… 寝返りをごろごろ打って、背中を丸めて膝を抱える。 羊が十匹、十一匹、十二匹…… 物足りない。隣の空間に何もないのが激しく物足りない。何かこう、抱き枕のようなものが欲しい。いや、寧ろすっぽり包まれたい。体重を預けて眠れるような、暖かくて大きなもの。 ……人肌が足りない。 ――頭の中で二十匹近く踊っていた羊が全てアキラに化けて、ヒカルは暗闇に目を剥いた。 |
ちょっと前にも羊ネタがあったので躊躇いましたが、
他にうまい繋ぎも見つからず……。貧困な脳。
ヒカルは本能に従って、アキラは理性的に考えて
それぞれドツボにハマっているようです……