そうして客間で雁首揃え、一手五秒の超早碁が始まった。 五秒となると最早カン勝負である。いかに身体が最善の一手を記憶しているか。一度集中してしまえば三人の頭に雑念が入り込む余地はない。 目まぐるしい攻防が続き、次々に三人が入れ替わる。ヒカルの一手に社が頭を下げた瞬間、遠くから電話の音が鳴り響き、三人ははっと意識を覚醒させた。 「……電話だ。出てくる」 苦々しく呟き、アキラが立ち上がる。 丁度終局と同じタイミングで雑音が入ったせいで、ヒカルと社の集中力も途切れてしまった。 二人は脱力したように肩を落とし、はあ、と大きなため息をついた。 「どんくらい時間経ったんやろ。あー、座りっぱで腰だるいわ」 「二時間くらい経ったかな? 社、あと一時間くらいか?」 客間には時計がないため、ヒカルはポケットに入れっぱなしだった携帯電話の時刻を覗き込んだ。 念のためタイムリミットに合わせてアラームをかけてあるが、あまりに熱中しすぎて社が新幹線に乗り遅れるのもまずい。 「ちょっとペース落としたほうがいいかな」 「せやなあ」 二人は正座を崩し、両足を投げ出して床に尻をついた。 アキラが戻ってくる気配がない。ひょっとしたら、北斗杯が終わったことによって派生した電話かもしれない。 ヒカルや社はともかく、アキラは行洋の後援会とも繋がりがある。こういった大きな大会の後は、多少面倒くさいやりとりを覚悟しなければならない、と苦笑していたアキラの顔をヒカルは思い出す。 以前社は、アキラの事を「親が碁打ちだと反対されなくていい」なんて言っていたことがあったが、親が碁打ちだからこそ果たさなければならない役目もあることを、最近になってよく思い知らされる。特に、今回の国際棋戦のように、少なからず大人達の利害が絡んでいるような仕事の時は。 何となく一人欠けただけでやる気を削がれていると、社がつつ、とヒカルの近くに寄ってきた。そして念のためといった様子でアキラが消えた襖を振り返って、「さっきの話やけど」と低い声で囁く。 「アイツ、少しは成長してるんやな? 三十秒からは卒業したんやな?」 教え子の行く先が気になっていたのだろうか、ほとんど真顔でそんなことを聞いてくる社に、ヒカルは再び顔を赤らめながらも渋々頷いた。 「さ、三十秒ってことはねーよ。普段は五分くらいかなあ……? でも、最近はその……エッチ前にいろんなとこ触ったりとかしても平気になってきたから……ホント、成長したんだぜ!」 自分で言っていてだんだん哀れになってきたのか、ヒカルは恋人を庇い始めた。 そう、アキラはいつも一生懸命なのだ。一生懸命努力して、ヒカルのためにたくさん勉強してくれたではないか。 多少早かろうと、以前のように前戯の最中に一人でイッてしまってどん底まで落ち込むといったことはもうない。ちゃんとヒカルを先にイカせてくれてから、ギリギリまで我満して身体を重ねてくれる。 社の指導の賜物か、腰の動きも随分スムーズで上手になった。キスは元々上手かったが、最近では舌技が増えてきてヒカルもつい翻弄されてしまう。全体的なぎこちなさもなくなった。 おまけにイクのも早いが復活も早いので、思わず盛り上がってしまったクリスマスは抜かずの三発なんてエネルギッシュなことをやってしまったくらいだ。 何よりも、その最中はうんとヒカルのことを愛してくれる。自分だけが気持ちよければいいなんて独りよがりなセックスはしない。 ヒカルとしては、本当はそれだけで充分だった。好き合ってるからこそ裸で抱き合ったりするのだ。早い遅い、上手い下手なんてことより、愛し合っている事実が一番大事――その気持ちはアキラと初めてセックスに挑戦した時から変わらない。 「ま、まあ、成長したのはよかったやんけ」 ヒカルが一人で過去の多々あるセックスにまつわる失敗を思い起こして、赤くなったり青くなったりしている様子が恐ろしかったのか、社は若干顔を引き攣らせながら同意してくれた。 「じゃあ、俺も多少は役に立ったんかな」 「いや、かなり役立ってくれたと思うぜ。でもアイツに変なこと吹き込むのはやめろよな」 「変なこと?」 「緒方先生の変なカッコとか、アイツ俺の上でブツブツ呟いて怖いんだよ」 「ああ……あれか……」 やはり律儀に実践していたか――社はおかしなところで素直なアキラが不憫になった。 「アイツ、そういうの信じ込みやすいんだよ。前も変な本買って来ててさ、裏テクがどうのこうのってやつ」 社が吹き出す。きたねーな、とヒカルが慌てて飛びのいた。 社は口を拭いながら、そういえば、と何事か思い出したようだった。 「アイツ、本読んで勉強したとか言っとったな。基本的なことが書いてないとか言ってたような気ぃするけど、そもそも選定が悪いんやないか」 「そうなんだよ、しかもアイツさ、どう考えてもバレバレですって隠し方してんだよ。本人は完璧に隠したと思ってんだぜ。もう、可笑しいの通り越して泣けてくるって」 「……どんな隠し方してんのや」 「……」 二人は顔を見合わせた。 そして意味深に目配せをし、強く頷き合う。 「いいか、物音立てるなよ」 「わーっとる。バレたら俺は東京湾に浮かぶかもしれん」 声を潜めて忍足で廊下を進む怪しい影がふたつ。 目指すは電話に捕まってから未だに戻ってくる気配のない、塔矢アキラの自室。 社の言葉どおり、部屋の主に見つかったらただでは済まないことは二人とも分かっているが、時に好奇心は恐怖心を上回る。 途中で見咎められることなく、無事に辿り着いた襖の前で、ヒカルは息を殺して扉に手をかける。 すーっと開いた襖の向こう、整然としたアキラの室内が二人の目に映った。 ヒカルにとっては慣れ親しんだいつもの部屋である。社を先導するようにこっそりと中へ脚を踏み入れ、本棚の前に立って手招きをしてみせた。 社ももう一度廊下を確認してから、ごくりと唾を飲み込んで中に入ってくる。ヒカルの隣に並び、指を指された方向を見上げて…… 「……ぶっ……!」 ばふっと吹き出した口を思わず両手で押さえ、社はプルプルと震えた。 ヒカルの指の先には、本棚の一角が分かりやすく布張りされている。 他の棚には囲碁関連の書籍しか背表紙を見せていない中、明らかに不自然で逆に興味をそそられる。 「……な? 開けたくなるだろ……?」 「ほんまや……中学生でもこんな分かりやすい隠し方せえへん……」 手が込んでいるのに、かえってそれが悪目立ちするなんて哀れで仕方ない。 ヒカルは社の反応が予想通りで嬉しかったのだろうか、釣られるように笑いを堪え始めた。 「中がまた凄えんだぜ。どのツラ下げてこんなの買ってきたんだって感じで」 「た、例えば?」 乗り気の社に悪戯っぽい目を向けたヒカルは、そろっと布の内側に指を潜らせ、外の世界との間に壁を作っている薄っぺらいバリケードをめくりあげた。 「……!」 社が再び両手で口を押さえ、本棚の中を凝視するその目尻に涙を溜める。 「ひ、ひどいだろ? しかもこれ、たまに増えるんだぜ?」 ヒカルも最早笑ってしまう顔を抑えようとせず、激しく腹筋を震わせて恋人の奇行をネタにし始めた。 「ほ、ほんまにどんなツラして買うてきたんや……な、なんやこの『愛のある生活〜実践編〜』ってのは」 「そ、それ最近買ってきたやつだ。し、しかも、フセンついてんだぜ、フセン」 「ほ、ほんまや……どんだけ熟読してんねん。あかん、腹がよじれる……」 さすがに大声で笑い倒すことはできず、二人とも腹を抱えたまま顔を真っ赤にしてぶるぶる震えていた。 しばしそうして押し寄せる笑いの波を堪えていたが、ふいに社がはっと顔を上げ、それまで紅潮させていた顔を一瞬で青く染めた。 「社?」 その突然の変貌にヒカルが思わず声をかけると、社はどこか一点を見つめたまま、 「……来る……!」 と押し殺した声で呟いた。 「く、来るって、塔矢が? マジかよ、なんで分かるんだ? 音でもした?」 「野生のカンや……! 本能が危険を訴えとる……!」 冗談の欠片も見られない社の表情に、ヒカルも顔を強張らせた。 先ほどまでとは打って変わって、二人は青くなって震え出す。 「社が見たいって言うから!」 「俺はそんなこと一言も言っとらん! お前が無理に連れてきたんや!」 「嘘つけ、超乗り気だったくせにっ!」 「ああもう、こんなことしとる場合やないやろっ!」 二人が不毛な言い争いを続ける中、確かに危険が迫りつつあった。 |
ああ逃げて逃げて……
上の会話を見るに、ヒカル時々若の本棚チェックしてるみたいですね。