ハートに火をつけて






「ここか……」
 メモを片手にビルを見上げたアキラは、入り口に表示されたビル名を見て呟く。
 このビルの地下のカラオケ店で、パーティールームを一室貸し切りにしてヒカルの誕生会があるらしい。アキラはそっと手首の時計を見下ろした。午後七時半――少し遅れてしまったが、構わないだろう。
 自分にまでこんな誘いが来るとは正直意外だったが、確かにヒカルとは長い付き合いになる。時折プライベートで打ったりしているのを見て、和谷が声をかけてくれたのだろう。祝い事への参加を断る理由は特に無く、アキラは快い返事を返していた。
 恐らく、すでに部屋は盛り上がっているのだろう。普段なら馬鹿騒ぎは遠慮したいところだが、せっかくの誕生日なのだから、ささやかでも祝いの言葉を伝えなければ。万が一マイクを渡されるようなことがあったら、それはやんわり断って――

 などとシミュレーションをしながらビルの狭いエレベータに乗り込んで、受け付けで和谷の名前を出し、教えられた部屋番号を探してガラスの扉の前に辿り着いたアキラは、扉を開いて絶句した。
 十人は入るだろう広いパーティールーム。
 壁にぴたりと背をつけた長いソファの中央で、ずーんと重い空気を背負ったヒカルがたった一人で腰掛けていた。
 状況をうまく飲み込めなかったアキラは、咄嗟に部屋の中を見渡す。誰のジャケットも、荷物もない。トイレなどの所用で一時的に席を外しているのではない、間違いなくこの部屋にはヒカル一人。
 そう判断した瞬間、アキラは蒼白になった。
 ――進藤の誕生会じゃなかったのか!?
 慌てて部屋に入って扉を閉め、ヒカルの正面に回り込む。
「し、進藤」
 声をかけると、項垂れていたヒカルがゆっくり顔を上げた。
 額に影を背負った渋い表情だった。緩く山を描いた口唇に、どうしようもない切なさと淋しさが滲み出ている。
「どうしたんだ……? 他のみんなは?」
「……」
 ヒカルは黙って首を横に振る。
 和谷はそれなりの人数に声をかけたと言っていた。まさか、全員すっぽかしたのだろうか――最悪の事態を想像し、アキラは嫌な汗を掻きながらジャケットを脱ぎ始めた。
「き、きっと何か事情で遅れてるんだ。ぼ、ボクもすまなかった、遅くなって」
「……全員遅れるなんてことあるかよ……」
「そ、そういうこともある! 誰かから連絡は……」
 言いかけて、アキラははっとする。そして胸ポケットに入れていた携帯電話を取り出した。
 圏外の表示を確認したアキラは、成程と何度か頷いた。
「キミ、いつからここにいたんだ? ここ、圏外になってる……ひょっとしたら、連絡が来ていたのかも」
 アキラの問いかけに、何故かヒカルは薄ら顔を赤らめた。
「ちょ、ちょっと早く着いたんだよ。べ、別に楽しみにしてたわけじゃ……たまたま早く来ちまっただけで……」
 聞かれてもいないのに言い訳をするヒカルの焦りっぷりを見て、アキラは納得した。
 どうやら早めにこの部屋に着いてしまったために、ずっと携帯電話が圏外になっていたのだろう。恐らく誰かから連絡が入っていただろうに、それに気づかずヒカルは待ち続けていたのだ――そう理解したアキラは、携帯を握り締めて立ち上がる。
「ちょっと待ってて。上に上がって誰かに電話してみる。きっとみんな理由があるはずだ」
 そう伝えてヒカルに背中を向けた途端、「いいよ!」とヒカルが声を荒げた。
 驚いて振り向いたアキラは、ソファに腰掛けたまま肩を落とし、気まずそうに視線を泳がせるヒカルの横顔を見た。
「来れねえなら……しょうがねえだろ……。理由あんなら、余計だよ。連絡しなくていい」
「でも」
「いいって! みんな、忙しいヤツラだし……」
 自分に言い聞かせるように呟いたヒカルの、やけに回数の多い瞬きを見下ろしたアキラは、ヒカルの心情を何となく察した。
 繊細な男ではないと思うが、だからと言って愚鈍ではない。主役として招かれた立場、気まずさを誰よりも感じているのはヒカルだろう。
 これが数十分の遅刻ならば笑って責めることもできたかもしれないが、揃いも揃って大遅刻だ。三十分も遅れたアキラが第一号に現れたのだから、怒るにしてもタイミングを逃し過ぎている。
 しかし、そのことを下手に慰めては、ヒカルが惨めになるだけだろう。状況を把握したアキラは、握り締めていた携帯をテーブルにことりと置き、ヒカルの向かいに腰を下ろした。
「じゃあ、先に始めてよう。みんなきっと来るよ」
 笑顔で告げると、ヒカルが疑うような眼差しを鈍く光らせて顔を持ち上げる。
「……手の込んだドッキリかなんかかもしんねえぞ」
「まさか。そんなことをするような人たちじゃないだろう」
 今の言葉はヒカルの本音なのだろう――アキラはやんわりとヒカルの不安を流し、ホラホラとメニューを勧める。
「飲み物でも頼もう。お腹すいただろ、料理も頼もうか?」
「……いいよ、もう。俺、帰る……」
「絶対みんな来るから! 彼らは黙って約束を破るような人間か? キミのほうがよく分かってるだろう」
「……」
 それでもすんなりと頷かない意地っ張りを見て、アキラはもう一度腰を浮かせる。そして、長いテーブルをぐるりと回って、ヒカルの隣に腰掛けた。
 これだけ広い部屋だと言うのに、不自然に隣にどんと居座ったアキラにヒカルは薄く口を開けた。逃がさない、とばかりにやや大きく脚を開いたアキラは、さあ、と再びヒカルにメニューを押し付ける。
 渋く口唇を尖らせたヒカルは、小さくしょうがねえなあと呟いた。


 それから三十分が過ぎ、一時間が過ぎ……
 約束の七時からもうすぐ二時間が経過しようとしているが、一向に他のメンバーは現れなかった。
 それでもアキラは必死でテンションの低いヒカルを盛り上げようと、酒を勧め、料理を勧め、遂には歌まで披露した。人前で歌うのは初めてで、微妙な選曲にヒカルも若干戸惑いを見せていたが、歌い終わった後のささやかな拍手が互いの気持ちを少しだけ軽くしてくれた。
 そろそろ間を持たせることが難解になってきた頃、飲み続けていたヒカルが座っていながらふらふらと揺れ始めた。とろんと重たい瞼と、ぐらぐら覚束ない上半身を心配して、アキラは隣で肩を示す。
「進藤、頭。ほら」
「んー……」
 首まで赤くなっているヒカルの頭を軽く引き寄せると、呆気無くごとりと肩に重みがかかる。動きが安定したことで楽になったのか、気持ち良さそうな深い吐息がアキラの耳に届いた。
 少し、眠ったほうがいいかもしれない。なかなか現れない他の面々にやきもきしながらも、アキラは彼らが必ず来ると信じてヒカルの肩をぽんぽんと叩く。
「……悪いな」
 ふと、小さな囁きが聴こえて来た。
 軽く視線をヒカルに向けると、アキラの肩に頭を乗せたままのヒカルのつむじが目に入る。
「付き合わせて。悪かったな……」
 少し掠れた小さな声に、アキラは目を細める。そして叩いていたヒカルの肩を強めに抱き寄せた。
「何言ってるんだ。元々今日はキミのために来たんだ」
「でも……誰も、いないのに」
「みんな来るよ。もう少し待ってみよう」
「来ないよ……もう、二時間になる」
「……和谷くん、キミのために張り切って準備してたよ。伊角さんも。みんな、キミの誕生日だからっていろいろ企画していたみたいだよ? もしかしたら準備で手間取っているのかもしれない」
 可能性の低い予測を口にしながらも、アキラはそれがただの憶測ではないことを確信していた。
 深い付き合いがある連中ではないが、悪戯に約束をすっぽかすような人間はいないことはよく知っていた。ヒカルもそれを理解しているから、余計に辛く感じているのだろう。
 ヒカルが気まずそうに身体を縮める。ずず、と微かに鼻を啜る音が聴こえて、アキラは微笑しながらもう一方の腕を回してヒカルを緩く抱き締める。
「なんか……泣けてきた」
「酒のせいだ」
「……お前、結構いいヤツだな……」
「少し眠ってもいいよ。みんなが来たら起こすから。……誕生日おめでとう、進藤」
 ぐず、と音を立てながらヒカルが目やら鼻やらを擦り付ける肩に、薄ら湿った感触がある。アキラは苦笑しながらも、まるで嫌な気分にならなかった。





「……なあ、そろそろ入らないと」
「でもすげえ入りにくい……」
 ガラスの扉越し、ごそりと固まったいくつかの黒い人影が、息を潜めて室内の様子を伺っている。
 先頭でしゃがんで部屋の中を覗き見していた和谷は、プレゼントを抱いたまま渋く顔を顰めていた。
「もう二時間待たせてんじゃない。進藤、連絡受け取ってないんでしょ? ヤバいわよ」
「それはそうだけど……」
 奈瀬も、本田も冴木も越智も飯島も、口では早く入ろうと言うが誰も先陣を切らない。
 室内に流れているやけに良い雰囲気が、彼らを尻込みさせていた。
「なんか、邪魔しちゃ悪いような……」
「俺らが入り込める感じじゃないよな……」
 しかしそのまま帰る訳にもいかず、どうやって乱入すべきか全員が顔を見合わせる。
 部屋の中には寄り添う二人、微笑を浮かべてヒカルを抱いているアキラと、そのアキラに甘えるように身体を預けているヒカル。
 無駄に良いムードを漂わせる二人を前に、ガラス一枚の壁は厚かった。

 ――結局、それから十分遅れてやってきた伊角と門脇が空気を読まずに扉を開けるまで、二人だけの誕生会はささやかに時を刻むことになった。