「進藤、この後打たないか」 棋院で出会い頭にそう誘ったアキラに、ヒカルはあからさまな警戒の眼差しを向けてきた。 やはり信用されていない。アキラは全身強張ったヒカルから僅かに顔を逸らして小さなため息をついた後、できるだけにこやかな笑顔を作って見せた。 「ホラ、しばらくきちんと打つ時間を取っていなかっただろう? 久しぶりにゆっくり対局しようよ」 「……そんなこと言って、お前また変なことする気だろ」 小気味良いくらいに疑われている。仕方のない事かもしれない、初夜に及んだあの日だって元々は「徹夜で打とう」と誘き出したのだから。 しかしここで諦めてはいけないと、アキラは笑顔を崩さずに立ち向かった。 「とんでもない。もうあんなことしないよ……本当に悪かったと思ってる。碁会所で打とう? 碁会所なら安心だろう?」 「……」 ヒカルはまだ少し渋っている様子だが、アキラは辛抱強く返事を待ち続けた。 決して焦らずガッツかず。「何もしないと言っているだろう!」なんて逆ギレしたらヒカルに逃げられること間違いなしだ。 アキラの根気が勝ったのか、ヒカルは完全に信用したという顔ではなかったが、胡散臭そうにアキラを睨みながらも小さく頷いてくれた。 アキラの表情が輝く。 まずは第一歩! 信頼関係を築くための階段をひとつ上がったアキラは、オーちゃんの言葉を胸に抱きながら成功を誓うのだった。 その日の碁会所では、アキラは約束通りヒカルには一切触れず、碁を打つことだけに専念した。 最初はアキラの動きひとつひとつにビクビクしていたヒカルだったが、やがてアキラが本当に何も仕掛けてこないことを認めたのか、多少近くに寄ってもあからさまに身体を硬直させるようなことはなくなった。 僅かな反応の変化に一瞬気が緩みそうになったが、いやまだまだとアキラは耐えた。ヒカルが一緒にいることを当たり前だと思ってくれるまで、決して触れるものか。誠意を見せるのだ。 その日はそのまま別れ、また翌日も碁会所に誘った。当然何もしない。碁だけを打って別れる。 逢える時間のある日は常にそうして過ごした。決して迫ったり触ったりキスしたりせず、碁を打ちながら、ただ近くでにこにこと微笑んでみせた。 当然アキラの欲求不満は募っていったが、目の前のヒカルはアキラに「二度と触るな」と吐き捨てた頃に比べて明らかに柔らかい表情になってきている。 その変化は日に日に鮮やかになり、やがて棋院でばったり逢ってもヒカルのほうから声をかけてくれるようになった。 警戒心が消えた――アキラは第一段階をクリアしたことを実感した。 そうしてアキラは再びメールを書いた。 『オーちゃんへ こんばんは、キラです。先日はありがとうございました。 オーちゃんのアドバイス通り、できるだけ彼の傍にいるようにしました。もちろん触れていません。 そうしたら、彼がだんだん警戒を解いてくれるようになったんです。 最近では笑顔もよく見せてくれるようになりました。 オーちゃんのおかげです。ありがとうございます。 それで、相談の続きなのですが、この後はどうしたらよいのでしょう? ずっとこうして彼に触れずに耐えていなければならないのでしょうか? できればボクは次の段階に進みたいです。どうぞ新たなアドバイスをよろしくお願いします』 二週間ぶりにオーちゃんにメールを送信し、アキラは再びモニタに向かって敬うように拝んだ。 次のアドバイスが得られますように――願いを込めてパソコンを落とした後、アキラは眠りについた。 夢の中ではヒカルが笑っていた。 翌朝、仕事に行く前に――とチェックしたメールの中に、オーちゃんからの返信が届いていた。 『キラちゃんお久しぶり! オカマのオーちゃんよ☆ 彼とうまくいっているみたいで何よりだわ! ちゃんとアタシのアドバイスを守って頑張ったのね。キラちゃん偉いわ〜。 キラちゃんみたいな素直な子、大好きよ。 アタシも昔は素直だったんだけどねえ……社会に出たらなんだか擦れちゃって。 嫌だわ、アタシのことはどうでもいいわね。 次のステップに進みたいのね? つまり、セックスしたいってことね? そうねえ、キラちゃんは真剣だし……興味本意で彼と遊びたい訳じゃないのよね。 ホントはね、未成年の子にはセックスに関する直接的なアドバイスは避けてるのよ。 でも、キラちゃんは特別。間違ったセックスを覚えてもらいたくないの。 不思議ね……まだ少ししかメールのやりとりをしていないのに、やけに親近感が沸いちゃって、アタシったら。 と言っても、まだセックスするにはちょっと早いわ。 信頼関係の次は適度なスキンシップよ。焦っちゃダメ。 基本は今までと同じよ。信頼が壊れるのはあっと言う間なんだから。 今までは、傍にいるけど触れちゃダメだったわね。 これからはふとした時に軽く肩に触れたり、手に触れたりするくらいなら大丈夫だと思うわ。 ここで注意しなきゃならないのは、それ以上先に進もうとしないこと! キスも我慢して。セックスなんてもってのほかよ。 今のキラちゃんは、お友達から始めましょうくらいの気持ちでいないとダメよ。 心の傷って案外深いのよ。キラちゃんの下心が見抜かれたら、また彼を怯えさせちゃうかもしれないわ。 あくまでソフトタッチで、それもしつこくしないこと。できるだけ自然にね。 これくらいの触れ合いなら当たり前、って彼が思ってくれるまで、そのまま頑張るのよ。 物足りないって思うかもしれないけど、侮っちゃダメよ。 肌の触れ合いって、ほんの少しだけでもとっても安心する素敵な行為なんですからね。』 オーちゃんの返信にアキラは少なからずがっかりした。もっと進んだ、具体的なアドバイス――つまりセックスに関するヒントがもらえるかと期待していたのだ。さすがオーちゃんにはお見通しだったようだが…… しかし相変わらず言っている事はもっともである。 信頼関係が崩れるのはあっという間――この言葉を肝に銘じて、未成年相手でも馬鹿にせずにアドバイスをくれたオーちゃんに、アキラは手早く返信を打った。 『オーちゃんへ キラです。早速のお返事ありがとうございました。 アドバイス通り、やってみます。また状況が変わりましたら連絡します。頑張ります。』 *** 「塔矢ー!」 元気な呼び声に振り返ると、金色の前髪を揺らして走ってくるヒカルの姿がアキラの目に映る。 自然とアキラの顔が綻んだ。あの夜を迎えた時は、もう二度とこんなヒカルの顔を見られないかと思っていた……オーちゃん様様だと心の中で手を合わせる。 アキラの元に駆け寄ってきたヒカルは、息を切らせたまま「もう仕事終わり?」と尋ねてきた。 「ああ、今日はもう」 「じゃ、碁会所行かねえ? 俺今日、この前言ってた新しい手で勝ったんだよ。並べてお前に見せたいんだ」 アキラはもちろんと頷いた。ヒカルも屈託なく笑っている。 そうなのだ、最近はヒカルのほうからもこんなふうに誘ってくれたりするのだ。かつて腕を振り払われた頃と比べたら物凄い進歩だ、とアキラは胸に感動を覚える。 「そんでさー、序盤はとりあえず様子見て、外堀から囲っていったんだけどさあ」 ヒカルはアキラの隣に並び、真剣な顔で勝ったという今日の対局の説明をしてくれる。歩きながらうんうんと話を聞いていたアキラは、ふと下りの階段に差し掛かったというのにヒカルがずっとこちらを向いていることに気づいた。 「進藤、前……」 アキラが声をかけるより先に、ヒカルの足が一歩早く宙に舞い、あるべき床を踏みしめられなかった身体が重力に引かれてぐらりと傾く。 「うわっ……」 「進藤!」 アキラは咄嗟に腕を伸ばした。 階段の下に落下しかかったヒカルの身体を捕まえ、馬鹿力で引き寄せる。 ヒカルを助けようと無我夢中だったアキラだが、腕の中に捕まえたヒカルの身体が分かりやすく強張ったことにはっとした。 ――あくまでソフトタッチで、それもしつこくしないこと―― オーちゃんの言葉が脳裏に甦る。 アキラはヒカルの安全を確保すると、慌てて手を離した。 ヒカルの硬直の仕方。間違いない、ヒカルはまだあの夜のことを忘れていない。 オーちゃんの言う通り、焦ったらすぐに信頼が崩れてしまう……アキラは一歩ヒカルと距離を空けて、なるべく動揺を隠して尋ねた。 「大丈夫? 進藤」 「……うん」 ヒカルは少し戸惑った顔をしながらも頷いた。 「ちゃんと前を見てないとダメだよ。落ちなくて良かった……行こうか」 なるべく優しい声色で促したが、ヒカルは今度は返事をしなかった。どこか俯きがちに地面を睨み、顔に影を落としている。 どうしたのか、やはり触ったのがマズかったかとアキラが少しだけ覗き込むように首を傾けると、ヒカルはふいにぽつりと呟いた。 「お前……俺の事、嫌いになった?」 アキラは耳を疑った。 今、ヒカルは何て? ……嫌いになったのか、と聞いてきたのか? ヒカルが? アキラはぶんぶんと首を横に振る。 「そ、そんなわけないじゃないか。ど、どうして急にそんなこと……」 「……だって。お前、最近全然俺に触んないじゃん……」 意外な言葉にアキラの目が見開かれた。 ヒカルの発言を噛み砕くので精一杯で、何と答えるべきか頭が回らない。 「今だって、ぱって手ぇ放しちゃうしさ。……俺があんまり嫌だって言ったから、俺のこと……嫌いになったのか……?」 弱々しい声でそう言ったヒカルの顔は、俯いて影になっているが真っ赤に染まっていることはよく分かった。 アキラは赤くなったり青くなったりしながら、とんでもない、そんなことはないと必死で否定した。 そして、この後どうしたらよいのか途方にくれた。 オーちゃんはあまり触るなと言っていたが、本当にこのままで良いのだろうか? 弱り果てたアキラだったが、しかしここで信頼を失うことを恐れ、その日もとうとうそれ以上ヒカルに触れることはなかった。 碁会所では普通にヒカルの対局を検討したものの、どこかぎこちない空気が流れていたような気がする。 オーちゃん、どうしたらいいんですか! ――アキラは顔も知らないアドバイザーに心の中で助けを求めていた。 帰宅したアキラは、脇目もふらずにパソコンに向かった。 『オーちゃんへ キラです。実は困ったことになりました。』 そうしてアキラは今日のヒカルの言葉と態度を伝え、このままアドバイス通りにあまり触れずにいるほうが良いのかどうか教えて欲しいとメールを送った。 なるべく早く返事がきますようにと祈りを込めた。明日もきっとヒカルと顔を合わせることになる。今日のような空気は正直耐え難い。 夕方にメールを送って以来、何度も何度もメールチェックをした。夕食の支度の途中でチェック、夕食を食べ終えたらチェック、後片付けをしてチェック、風呂を沸かしてチェック…… やきもきしながらチェックを続け、ついにすっかり就寝準備まで終えてしまった午後十一時、ようやく待ち望んでいた返事が届いた。 『こんばんはキラちゃん★ メール読ませてもらったわよ。 どうやら思ったよりも彼の気持ちは解れてたみたいね。良かったわ。 でもここからが油断禁物よ。彼は一度傷付いてるんだから。 できれば直接いろいろとお話してみたいんだけど……キラちゃん、夜に時間のある日はないかしら? もし良かったらチャットでお話したいわ。 そのほうがキラちゃんもリラックスできると思うし、アタシも分かりやすく伝えてあげられると思うの』 アキラは息を呑んだ。 ――オーちゃんが直接チャットでアドバイスをくれる! 飛びつくように「いつでもいいです、今からでも」とメールを返信すると、それから数分後、オーちゃんからチャットのURLが送られてきた。 アキラは高まる緊張に胸を揺らしながら、そのアドレスにアクセスを試みた。 |
カウンセリングのようになってきました。
これはヒカルには見せられん姿だなあ……