恋をしようよ






 チャット画面にはすでに「オーちゃん」が入室していた。
 チャット初体験のアキラは、少し迷ったものの、ままよとばかりに名前に「キラ」と入力して入室ボタンを力強くクリックする。
 画面が変化し、アキラは自分がチャットに参加したことを理解した。


 オーちゃん>いらっしゃいキラちゃん。突然ごめんなさいね。時間は大丈夫?

 キラ>大丈夫です。こちらこそわざわざありがとうございます。


 初めてのチャットで戸惑ったが、ごく普通に会話を入力していけば良いのだと理解し、アキラは緊張しつつキーボードを叩く。
 どこに住んでいるのか、どんな顔をしているのか、年齢も性別も全く分からない相手(オカマと自称しているのだから男なのだろうけど、それだって定かではない)とこんなふうにパソコンで会話する日が来ようとは。
 アキラは乾いた口唇を舐めながらオーちゃんの返事を待った。


 オーちゃん>メールでやりとりするより手っ取り早いと思ったの。
 オーちゃん>もし都合が悪かったら言ってちょうだいね。
 オーちゃん>このチャットはロム禁止に設定しているから、人に見られる心配もないわ。安心してね。

 キラ>お気遣いありがとうございます。
 キラ>今日はもう予定が何もありませんので。
 キラ>あなたからのお返事を待っていました。チャットに誘ってくださってありがとうございます。

 オーちゃん>キラちゃんは礼儀正しい子ね。
 オーちゃん>きっとアタシのアドバイスもしっかり守ってくれたのね。
 オーちゃん>それが彼の心を動かしたのよ。

 キラ>だといいんですが……

 オーちゃん>彼の様子に変化が表れたみたいね。

 キラ>そうなんです。それまでのボクがしつこかったからかもしれないんですけど。

 オーちゃん>それでも、触られるのが嫌ならあんなことは言わないわね。もう少し進展させてみましょう。


 アキラはごくりと生唾を飲み込む。
 緊張に震える指でキーボードを打ち、オーちゃんに進展の詳細を尋ねた。


 キラ>どうやってですか?

 オーちゃん>そうねえ、普段彼と会う時は、二人きりの場所なのかしら?


 アキラは眉間に皺を寄せ、日頃の風景を思い出した。
 ここのところ、逢うと言えば碁会所ばかりで、当然周りには客も多くとても二人きりの状態ではない。


 キラ>いいえ、大抵周りには人がいます。

 オーちゃん>そう……それじゃあ、少し二人だけになれる場所を探しましょうか。
 オーちゃん>あ、でも密室とかはダメよ。警戒させちゃダメ。

 キラ>というと、例えばどんな場所でしょう?

 オーちゃん>そうね、高校生なんだから……公園とかそんなところでいいわ。
 オーちゃん>人気がなくて、でも健全な場所なら彼も安心すると思うの。
 オーちゃん>あんまり背伸びしてもかえって緊張しちゃうでしょうし。


 公園……確か碁会所から少し離れたところにそこそこ広い公園があったはずだと、アキラは記憶を掘り起こす。


 キラ>公園なら割と近くにあります。

 オーちゃん>それは良かったわ。
 オーちゃん>公園でのんびり、ベンチにでも座って、まずはゆっくり手を繋ぐところから始めましょう。


 アキラは画面に表示されたオーちゃんの発言に目を丸くした。……手繋ぎ? それだけ?


 キラ>あ、あの、手を繋ぐだけでしょうか?

 オーちゃん>そうよ。言ったでしょう、焦っちゃダメ、警戒させちゃダメって

 キラ>でも、もう少し……

 オーちゃん>じゃあキラちゃん、アナタ彼と手を繋いでごく自然に振舞える自信があって?
 オーちゃん>手を繋いでいることが当たり前だと思えるほどスキンシップはとれているのかしら?

 キラ>そ、それは……


 アキラは考え込む。
 ここしばらくヒカルに触れていなかったから、手を繋ぐと想像するだけで何だか身体が火照ってきてしまう。とても冷静ではいられないだろう……できればもっと触れたくなってしまう。


 キラ>確かに興奮してしまいそうですけど。

 オーちゃん>そらごらんなさい。
 オーちゃん>ダメよ、気持ちが静まるまでしばらく手繋ぎで我慢なさい。
 オーちゃん>彼だっていきなりキラちゃんがベタベタしてきたらびっくりしちゃうわよ。
 オーちゃん>アナタが慣れる頃には彼もきっと慣れてくれるわ。それまで待つのよ。

 キラ>待ったとして、その後はどうするんですか?

 オーちゃん>キラちゃんせっかちね! 急ぎすぎると彼の気持ちも見失っちゃうわよ。
 オーちゃん>あのね、男の人は時に女よりもデリケートなの。
 オーちゃん>しかもキラちゃんの話だと、その子は根っからのゲイではないんでしょう?

 キラ>そうです……

 オーちゃん>だったらもう少し考えておあげなさい。
 オーちゃん>第一キラちゃんは高校生なんだから、すぐエッチに持って行こうとするのは考えものよ。
 オーちゃん>男同士のセックスって大変なのよ。
 オーちゃん>キラちゃんは受け入れる側の負担を分かってないみたいだけど。
 オーちゃん>キラちゃん、今度お風呂場で自分のお尻に指突っ込んでみなさいよ。どれだけ彼が苦しいかよく分かるから。

 キラ>お、お尻にですか……?


 アキラは渋い顔になった。
 自分の尻に指を挿れるビジュアルを想像し、ぶるりと寒気を感じる。
 オーちゃんは何て事を言い出すのだろう。自分の尻に指を挿れろだなんて。


 オーちゃん>抵抗あるでしょ。キラちゃんも元はノンケだって言ってたものね。
 オーちゃん>でも、その抵抗ある行為をアナタは彼に受け入れてもらおうとしているのよ。
 オーちゃん>彼の気持ちになってみて。


 さすがオカマのオーちゃんの言葉には説得力があった。
 確かにアキラは自分が受け入れる側になることなど考えてもいなかった。
 好きだから抱きたいとそればかりで、嫌がるヒカルの気持ちも労らずに押し倒したのだ。
 その恐怖はどれほどだったろうと、改めて反省する。


 キラ>……そうですね……その通りです。
 キラ>彼の気持ちを尊重して、少しずつスキンシップをとってみます。

 オーちゃん>キラちゃんは素直でいい子ね。
 オーちゃん>じゃあもし、手を繋いでいても彼が怯えなくなって、むしろ彼からくっついてくるくらいになったら……
 オーちゃん>そっと、キスくらいなら許してもらえるんじゃないかしら。


 アキラの胸がどきんと音を立てる。
 具体的な愛情表現の単語を目にして、思わず身体が興奮してしまった。


 オーちゃん>でも、無理に口唇を押し付けたり、下品に舌を突っ込んだりしちゃダメよ!
 オーちゃん>あくまでソフトタッチ。いいわね?しばらくはなんでもソフトタッチよ。
 オーちゃん>触れるだけの優しいキス。その次に進むのは、これをクリアしてからよ。

 キラ>優しいキスですか……

 オーちゃん>そうよ。男の身体にはほとんど柔らかいところはないけれど、口唇だけは別。
 オーちゃん>柔らかい皮膚の感触を共有するように、優しくてあったかいキスをするのよ。
 オーちゃん>触れ合うことの幸せを感じるような、ね。


 ごくりと唾を飲み込んだアキラは、目を閉じてヒカルの口唇を思い浮かべた。
 桜色のつるんとした口唇。今までヒカルとしてきたキスは、力任せに重ねて無理に舌を入れたり、およそ柔らかさを楽しむようなものからかけ離れていた。
 あの口唇を摘むように口付けたら、どんなに柔らかいのだろう。想像だけでなんだかぼうっとしてしまう。


 キラ>やってみます。ボクは、その、経験が少なくて、キスはきっと下手だと思うんですけど……

 オーちゃん>キスは上手い下手じゃないわ。気持ちよ。
 オーちゃん>彼のことが大好き!って気持ちをうんと込めて、素敵なキスをして。
 オーちゃん>あん、なんだかアタシも疼いてきちゃう!アタシの彼もキスがとっても優しくてねえ……


 脱線し始めたオーちゃんはさておき、アキラは決意新たに拳を握り締めた。
 やるぞ。まずは手を繋ぐところから。そして、ヒカルがすっかり警戒を解いて、自らくっついてくるまでになったら、心のこもった優しいキスを交わすのだ。


 キラ>オーちゃん、ボク、やります!今日はありがとうございました!

 オーちゃん>でね、その夜のホテルでねえ……って、キラちゃんマイペースね〜!
 オーちゃん>まあいいわ、頑張って!また何かあったら連絡ちょうだい★

 キラ>はい、ありがとうございます。おやすみなさい。


 チャット画面から退室する。
 ふう、と大きな息をつき、アキラはまだどきどきとうるさく脈打つ胸を撫でて、明日逢うだろうヒカルを想って目を閉じた。
 あくまでソフトタッチ。なんでもソフトタッチ。
 オーちゃんの言葉を呪文のように自分に言い聞かせて、よしと立ち上がったアキラは眠りにつくことにした。
 もっとも、少しばかり興奮してしまった頭はなかなか休まらず、実際に眠ったのは随分遅くになってしまったが。




 ***




 翌日、特に約束をしていた訳でもないのにヒカルと棋院のロビーで鉢合わせた。
 雰囲気からして、ヒカルがアキラを待っていたようにも思えた。
「……よう」
 少し気恥ずかしそうに小さく挨拶をくれるヒカルに、アキラは逸る気持ちを押さえつけてにっこりと笑い返した。
 夕べ少し気まずく別れてしまったが、アキラが笑顔を見せたことでヒカルも安心したのだろうか、ふっと表情が和らいだ。
 碁会所に行こうと連れ立って棋院を出る。アキラの視線はぶらぶら揺れるヒカルの手のひらに釘付けだ。
 この手を握るのだ。そして、うまくいったら、キスを……。ついつい前面に出てしまいそうな下心をぐっと胸の奥底に押さえ付け、再びソフトタッチソフトタッチと呪文を唱える。
 その日はよく晴れていた。まるで天気までもがアキラの味方をしているように。
 アキラは意を決して、碁会所まで後少しというところでヒカルに声をかけた。
「進藤。……その、良かったら公園でも歩かないか。天気もいいし……」



「うわ〜気持ちいい〜」
 木漏れ日の中を跳ねるようにヒカルが進んでいく。
 アキラはその少し後ろを、微笑みながらついていった。
 さわさわと風で緑が揺れるたび、太陽の光が大きくなったり小さくなったりぴかぴかと二人を照らす。楽しげに歩いていくヒカルの前髪の金が映えてとても綺麗だった。
「たまにはいいな、散歩も!」
「ああ」
 ヒカルは上機嫌でアキラを振り返った。その笑顔が木漏れ日も霞むほどに眩しくて、アキラは目を細める。
 穏やかな風が優しく肩をすり抜けていく。アキラは風に踊る髪を緩く掻き上げて、空を見上げた。
 日差しは強いが、道の両脇から大きく伸びた木々のアーチの下はひんやり涼しく感じる。
 ひときわ大きい樹木の傍にベンチが備え付けられていた。丁度良い木陰になっている。
「進藤」
 ヒカルを呼び、アキラはベンチへ促した。
 足取り軽くベンチまで駆けてきたヒカルは、どっかり腰を下ろして天井に広がる枝を見上げている。アキラはそんなヒカルに微笑んで、左隣へと腰掛けた。
「今日、天気いいなあ」
「ああ」
「弁当持ってくれば良かった」
「はは、今度持って来ようか」
 ベンチに並んで座り、ぼんやりと緑と青のコントラストを眺める。柔らかい風には草の匂いが含まれて、時折二人をくすぐるようにひゅうと吹き抜けていった。
 アキラは自分の右手がじっとり汗ばんでいるのに気づいていた。
 ヒカルとの距離、僅か二十センチ。ベンチに投げ出されたヒカルの手のひらは実に無防備で、このままさりげなくアキラが右手を伸ばせば触れることなど造作もない。
 しかしこれまでオーちゃんの教えを守ってヒカルにほぼノータッチで過ごしてきたアキラは、手を繋ぐだけという行為ですら酷く緊張していた。オーちゃんの読みは当たっている。手を繋いで平常心でいられる余裕は今のアキラにはない。
 ぎこちなくならないように、そしてあくまでソフトに。
 このガチガチの身体でできるだろうか……アキラはべたつく右手をヒカルに見つからないようにそっとズボンで拭き、いざと小さく深呼吸をした。






あらゆる意味で自分との戦いの回でした。
(しかも完成品を見ると敗北しているなあ)
一応裏テーマは「初々しさ」だったんですが、
そのためにこんな強引な手を使おうとは。